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第四章  深淵ノ鎖

 第一節  月影ノ序曲


 文化年間――江戸の町はまだ賑わいを保ちながらも、遠くでは冷たい風が吹き始めていた。

 凶作の兆し、江戸城奥での政争。

 静かな水面の下で、時代の大河はゆっくりと流れを変えつつあった。


 その年の春、桐原藩主・朔真(さくま)は将軍家への拝謁を終え、供の者と江戸を発った。

 武家の礼を重んじる彼は、道中も簡素な宿を好み、隊列の先頭に立って馬を進めていた。


 三日目の黄昏、山間の旧街道を抜ける折、空が不意に墨色を帯びる。

 雨の気配もないのに、ひどく冷たい風が吹いた。


 その路傍に、一人の女が倒れていた。長い黒髪が土に絡み、着物は濡れ、袖口には泥と血の跡。

 長いまつ毛が震え、かすかに瞼が開く。

 供の者が駆け寄ろうとしたのを、朔真は片手を上げて制した。自ら馬を降り、女の傍らに膝をつく。


「一体、何があったのだ」


 問いに答えるように、顔を上げた女と目があった。その瞳の色を見た朔真は、思わず息を呑んだ。

 

(美しい……色をしておる)

 

 藤色の瞳――それは夜明け直前の空の色。


 そこに宿るのは、死の縁からこちらを覗くかのような、静かな光だった。


「名はなんと申す」


「……紫苑(しおん)と申します」


 朔真は自らの外套を脱いで女の身体を包んだ。

 その瞬間、吹きすさぶ風が止み、街道を白い月影が横切った。


 女の瞳がわずかに揺れる。


「……氷の中に……炎が見える……」


 朔真は眉をわずかに動かすが、何も答えなかった。

 ただ、その手の温もりが、女の震えを静めていった。


 この時、まだ二人は知らなかった。この出会いが、桐原家の運命を大きく変えることになるということを――。


 夜の帳が降りるころ、離れの灯がひとつだけ温く揺れていた。障子越しに洩れる光は庭の白砂を淡く照らし、そこに立つ朔真の足元に暗く影を落とした。

 あの山中で見つけた女――紫苑。

 血の気を失い、冷え切った指先を握った瞬間、何故か離せなくなった。それはただの人助けではない、もっと深い衝動だった。


 紫苑は日ごとに顔色を取り戻したが、眼差しの奥には、雪解けを拒む山陰のような翳りが残っていた。

 庭に咲く山藤の下で、彼女はよく小さな唄を口ずさんだ。


 眠れ眠れ 月の子よ

 影は揺れて 花は落つ

 千の夜を 超えし時

 真の朝は 汝を待つ

 

 それは山里の子守唄だという。その声は、戦場で幾度も死を見た彼の胸に、静かに沁み入った。


 やがて、二人は自然に言葉を交わすようになり、山間の小村で育ったこと、父を幼くして亡くし、母と二人で暮らしてきたことを語った。その母も、数年前の冬に病で亡くしたという。


 ある晩、朔真は書院に彼女を招き、湯を前に静かに切り出した。


「紫苑殿。……あの山中で、なぜ倒れていたのか、聞かせてはくれぬか」


 彼女はしばらく沈黙した。炎のゆらめきに照らされた横顔が、わずかに震える。


「……私は、逃げたのです。己の……運命(さだめ)から」


 その言葉の意味を朔真は理解できなかった。しかし、胸の奥で何か冷たいものが流れ落ちる感覚を覚えた。



 

 第二節  祠の記憶


 春の終わり、桐原家の山中では山桜が散り、若葉が谷を覆い始めていた。

 館からさらに奥、獣道を抜けた先に、苔むした古い祠がひっそりと佇んでいる。

 そこは藩内でも口にすることを憚られる地であり、幼き日の朔真は一度だけ、父に連れられて参じたことがあった。


 十歳のあの日、杉木立の中を抜けた時、空気は不自然なほど冷たく澄み、鳥の声も途絶えていた。

 祠の扉は黒漆で塗られ、注連縄は幾重にも巻かれ、中央には細い狭間があった。

 そこから洩れる闇は、陽の光を吸い込むように深かった。


 供の僧が祝詞を奏上する中、少年の耳にふいに声が響いた。


――来たか、運命(さだめ)を背負いし者よ。


 低く、地の底から響く声。

 目を凝らしても誰もいない。ただ、闇の奥で何かが笑ったような気配がした。


 その日から少年の胸には得体の知れぬ疑懼(ぎく)の念が刻みつけられた。


 あの夜。

 書院で紫苑が口にした《運命》という言葉は、朔真の中に眠っていたその記憶を呼び覚ました。

 運命から逃げた――

 問いを重ねようとしたが、紫苑はそれ以上語らず、ただ膝の上で手を組み、目を伏せた。


 翌朝、館の裏庭に立つと、紫苑が山藤の花房に指を伸ばしていた。淡い紫の花弁がひらひらと風に舞い、ひとひらが彼女の髪に落ちた。

 その絹のように滑らかな髪を朔真がそっと撫でる。藤色の瞳がゆっくりと朔真を見上げた。

――運命(さだめ)

 遠くで、まだ春とは思えぬ冷たい風が吹いた。

 白砂を渡るその風は、どこか山中の祠と同じ匂いを運んでいた。



 

 第三節 月影ノ兆し

 

 初夏の夜、庭の池に月が落ちていた。

 水面に漂う花弁が、ひそやかな波に揺れるたび、月の輪郭が崩れては戻る。

 紫苑は縁側に座り、指先でその揺らぎを追っていた。瞳に映る月影は、どこか遠いものを見るように淡かった。


「……運命、とは何のことなのだ」


 背後から朔真の声がした。

 振り返ると、灯籠の光に照らされた彼の顔が、探るようにじっとこちらを見ている。


 紫苑はしばし迷い、目を伏せた。

「……私の運命(さだめ)とは、この身に流れる血なのです……」


「血……」


 その言葉が夜気よりも冷たく、朔真の胸をかすめた。

 それ以上紫苑は言葉を続けなかったが、無意識に袖口を握りしめていた指が微かに震えているのを、朔真は見逃さなかった。


 庭の奥、黒く沈む(もり)の向こう。幼き日に訪れた祠の影が、ふと脳裏をよぎる。あのとき、確かに聞いた。闇の底から囁くような声。

 我が名は、影月――。

 池の水面を、ひとひらの藤の花が横切った。

 その形は、一瞬だけ紫色の勾玉のように見えた。



 

 第四節 影月の囁き


 山間の空気はしっとりと湿り、梢の間から洩れる月明かりが白く揺れている。

 桐原家の屋敷から半里ほど離れた杉木立の奥――苔むす石段の上に、鬼封じの祠はひっそりと佇む。

 それは人の世の時を忘れたかのように、ただ黙して在る。


 朔真は懐に細長い桐箱を抱え、ゆっくりと石段を上っていた。

 箱の中身は、今年の藤の花で編んだ注連縄と、新たに誂えた鎮めの勾玉。

 ――確かめねばならない。

 その夜、祠は妙に息づいているように見えた。燭台に火を点すと、古びた扉の彫刻が淡く浮かび上がる。

 波のような文様の中、ひときわ目を引くのは、中央に刻まれた一対の瞳。

 月の光を受けて、まるで生きているかのように赤く滲んだ。


 ……久しいな、桐原の者よ


 声は、確かに祠の奥から響いた。低く、どこか底冷えのする響き。幼き日に一度だけ聞いたあの声。


「影月!!」


 朔真は胸の奥がざわめくのを感じた。

 十年前、ただ声を聞いただけだったはずの存在が、今はすぐ側にいるかのようだ。

 

「器は――まだ、お前の中で眠っている」


「器とは一体……」


「いずれ、分かるだろう。藤は、その印だ」


 風もないのに、境内の藤棚がかすかに揺れた。

 花びらがひとひら、祠の前に落ちる。それは月明かりの下で淡く光り、やがて土へと溶けた。声は霧のように消え、祠はただ静寂を取り戻した。



 第五節 囁きの底


 葵が生まれた日、桐原の屋敷には柔らかな春の陽が射し込んでいた。庭先の梅がほころび、白い花弁が風に舞う。その中で、紫苑は産着に包まれた小さな命を抱きしめ、胸いっぱいに柔肌の香りを吸い込んだ。確かな温もり、力強い泣き声、そしてその目は、父に似て真っ直ぐだった。

 朔真もまた、灯りの下で小さく寝息を立てる我が子を見つめ、何度もその小さな手を握り、確かめるように呼吸を聞いた。


 その後の数年、桐原家には穏やかな日々が流れた。葵が初めて歩いた日も、庭で小さな木刀を振った日も、朔真は笑い紫苑はそっと見守った。

 不思議なことに影月の声は、その間一度も響くことはなかった。


 だが、葵が十歳に近づくにつれ、季節の巡りの中に、微かな異質の気配が混じり始めた。

 ある晩の夜半過ぎ。朔真はふと目を覚ました。屋敷の奥、土間を抜けた先の闇の方から、淡く低い囁きが流れ込んでくる。


――朔真……我を、忘れたか……。


 久しく耳にしていなかった、あの声。

 胸の奥がざわざわと粟立ち、忘れたはずの感触が、じわりと蘇る。     

 紫苑と葵の寝顔を確かめた後、そっと縁側に立った。

 月が高く静かな夜、耳元では誰かが息を潜めて囁くような響きが離れない。


 それからというもの、声は日ごとに鮮明さを増した。最初は遠く、夢の中のようだったが、やがて言葉の一つ一つがはっきりと耳に届くようになる。


――我は、待っている。

――その子が、十年を満たす時……。


 日中も不意に耳の奥で囁きが揺れることがあった。葵と木刀を交える最中でも、紫苑と談笑していても、一瞬だけ視界が翳るような感覚が走る。

 その度に、心の奥底に重く沈んでいた黒い水面が、少しずつ波打っていくのを、朔真は自覚していた。


 一方で紫苑は、夫の変化を敏感に感じ取っていた。微笑みはそのままでも、視線の奥に影が差す夜が増えていく。言葉少なになる日も。それでも紫苑は問い詰めなかった。ただ、葵の成長を見守りながら、夫と子を守る道をただ一人模索していた。


 ある静かな夜だった。紫苑は葵の首に麻紐を通した紫の勾玉をかけて言った。


「葵、これは御守りです。私が側にいない時でも、いつもあなたを見守ってくれますよ」

 

「これは、いつも母上が肌身離さず身につけていたもの。頂いてもよろしいのですか?」


 まだ幼さの残る声音で尋ねる我が子を、紫苑は抱きしめた。


「良いのです。あなたと朔真様以上に、大切なものなどないのですから」


――葵が十歳を迎える年の春まで、あとわずか。


 紫苑の思いも虚しく、月夜の囁きは朔真の心を、かつてないほど深く侵食していた。



 第六節  覚悟


 その冬、桐原の屋敷には雪が深く積もった。葵は雪玉を作り、庭先で走り回る。笑い声が白い息と共に空へ消えていく。

 紫苑は縁側からその様子を眺めていたが、視線はいつしか夫へ向いていた。朔真は、庭の端に立ち尽くしていた。葵の姿を見ているようで、目は遠くに焦点を失っている。まるで耳を澄ませ、何かを聴いているかのように。

 紫苑の胸に冷たいものが走った。


 冬の終わりも間近に迫ったある夜、紫苑は古びた木箱を開いた。そこには、代々紫苑の実家に伝わる鬼の記録と藤の花を模った懐剣が収められていた。  

 朔真に隠していたものだ。

 黄ばんだ紙に、墨で書かれた言葉が並ぶ。


《影月は血を媒介に契約を結ぶ》


《器を通じ、永遠の力を手にする》


 紫苑は静かに息を吐いた。答えは一つしかなかった。葵が十歳になる前に、影月を再び封印しなければならない。


《血の契約を断つ唯一の方法は、器を……》


 その先は紙が朽ちて、読むことは叶わなかった。

――それでも、行かなければ。


 一方、朔真の耳元では、夜毎に声が濃さを増していた。

 

――お前の血が、我を解き放つ。

 

 その声は、かつては遠い異物だったのに、今ではどこか甘く、馴染んだ響きに変わりつつあった。葵を抱き上げるときも、紫苑と言葉を交わすときも、その奥底で声が笑っている。

 朔真は気づいていた――この囁きに耳を傾ける事がどのような事態を招くのかと。

 だが、振り払うほどの意志はもう残っていなかった。


 葵が十の歳になる少し前、紫苑は密かに屋敷を後にした。向かう先は、山奥の祠。

 

――朔真様と葵は私が守る。この命に変えても……。


 

 

 第七節  母の嘘


 春霞の中、紫苑は山道をひとり足早に進んでいた。藤の花がほころび始め、淡い紫が風に揺れている。それを見た紫苑は、ある日の葵の姿を思い出していた。


『母上、藤の花がこんなにも。とても綺麗ですね』


 そう言って花びらを掌に集め、得意げに見せる可愛い我が子の姿。それを見つめる朔真の優しい微笑み。

 彼女はその時の様子をそっと心に焼き付けた。

 祠での儀が朔真の、そして葵の運命を変えるかもしれないという恐れと、守らねばという強い覚悟。


 やがて木立が途切れ、古びた鳥居が姿を現す。祠の屋根には落ち葉が積もり、石段には苔がびっしりと貼りついていた。

 その静けさの中、ふと聞こえた声に息を呑んだ。


「母上……」


 ──その姿を見なくとも、紫苑は全てを理解した。


「何故ついて来たのですか」


 振り返らずに言った。


「私も行きます。母上と共に……」


「それは、なりませぬ」


「何故ですか」


「これは私が成さねばならぬ事なのです」


 葵は紫苑の顔を真っ直ぐに見た。その瞳に宿るのは強い意志だった。


「私も共に祈りたいのです!父上を……以前のような父上に戻って頂きたいのです……ですから、どうか私も共に!」


 叫んだ葵の声には涙が滲んでいた。

 紫苑はしばらく目を閉じ、震える胸をどうにか鎮めると、静かな声で言った。


「葵、ここからは私の側から離れてはなりませぬ」


「わかりました、母上」


 石段を上りきると、そこに祠があった。小さな社殿は時の流れに耐えてはいたが、木肌は灰色にくすみ、しめ縄も色褪せてほつれていた。

 紫苑は一礼し、手にした小包から白布を取り出すと、そっと祠の前に広げた。

 その仕草は、普段の母としての柔らかさとは異なる、どこか張り詰めたものだった。


「母上、ここで祈るのですか?」


「そうです。ここに祀っている神は特別なのですよ」


 紫苑は淡々と言うが、その指先はわずかに震えていた。


 紫苑は祠の扉に手をかける。

その瞬間、石段の下から突風が吹き上がり、周囲の藤の花びらが渦を描いて舞い上がった。

 耳元で、葵ははっきりと声を聞いた。


──とうとう来たか。お前が器か


 足元が冷たくなる感覚。それは風ではない、何か重たいものが地の底から這い上がってくるような気配だった。


「母上、今、誰かが…」


「聞いてはなりませぬ」


 紫苑の声は鋭く、いつになく強い。彼女は葵を自分の背にかばった。

 扉の中には、黒く焼け焦げたような木札が安置されていた。中央に描かれた目の文様は、ひび割れているのに、それでも脈打つように淡く光を放っていた。

 紫苑は膝をつき、低く呟く。


「この子には手を出さないで!……器は、この私です」


「ほう、お前が器……」


 その声は笑っていた。

 葵は紫苑の背中越しに、はっきりと見た。祠の奥、闇の中で深紅に光る二つの目が、じっとこちらを見つめていた。

 葵は息を呑み、母の着物の裾を握りしめた。しかし紫苑は振り返らず、ひたすら祠に向かって言葉を重ねた。

 それは祈りであり、誓いであり、挑むような響きを帯びた声だった。


「紫苑、お主がこの私の器になると」


「私は純潔なる鬼の血を引く者。この子供はまだ十歳に満たぬ。私こそ器に相応しい」


「ふふふ、面白い。子は生きる。母は繋ぐ。それが、我らが理よ――」


 次の瞬間、黒い影が渦を巻き、二人の身体を包んだ。刹那、紫苑が力一杯葵の体を押した。

 渦の外に弾き飛ばされた葵は、それでも必死に叫んだ。


「母上!!」


 影に飲み込まれる間際、紫苑は懐から藤の花を模った懐剣を取り出し、深々と己の胸に突き刺した。

 

「な、何を!」


「影月、私もろともこの祠に封印する!」


「それで私を再び封印できると思っておるのか?」


「……!」

 

「まあ、良い。私の力はまだ弱い。もう暫く時が満ちるのを待つとしよう……」


 影月の影が紫苑の身体を全て飲み込んだ。


「母上!!」


 黒い影の中から僅かに見える白い手を、葵は夢中で掴んだ。


「母上を連れて行くな!」

 

 葵の手の中から、まだ温かい指がするりとほどけて消えた。

 そこに残ったのは、風に舞う髪の香と、白い帯だけだった。


「返せ……っ! 母上を返せぇえっ!!」

 


 第八節 闇の誘惑


 紫苑を失ったあの日から、朔真の胸の奥には、言葉にできぬ空洞が口を開けていた。それは、ただ悲嘆の風が吹き抜けるだけの静かな穴ではなかった。そこには、赤く湿った何かが脈動していた。


──守れなかった。

 あの日、葵と紫苑を祠へ行かせたのは自分だ。何もせずただ逃げたのだ。

 薄々感じていた影月の囁きが、日ごと濃くなっていることを。紫苑が自分から何かを隠していることを。

 それに向き合えば、何かが壊れる予感があった。だから、あの日、自ら背を向けた。


 葵が昏睡から目を覚ましたとき、右腕には禍々しい痣が刻まれていた。紫苑は帰らなかった。

 家臣たちは「鬼の祟りだ」と口々に囁いたが、朔真の耳には、その声が遠く響いた。

 代わりに近くで囁くのは──あの声。


『お前はまだ弱いままなのか、朔真……』

 

 祠に閉じこもっていたはずの影月が、今やどこにいても声を届けてくる。

 低く、深紅の瞳で見据えるような声色。

 

『守る力が欲しいのではなかったのか。紫苑を失わぬ力が。……だがもう遅い。お前は選ばなかったのだ』


 その言葉は、剣のように朔真の胸を抉った。悔恨は怒りへ、怒りは憎しみへと形を変える。憎むべきは鬼か、それとも己か。いや、己を弱くしたこの世の理そのものか──。


 夜、寝所でひとり盃を傾けると、香の煙の中に藤の花びらが舞う幻を見た。

 紫苑の香だった。

 だが花びらは血に染まり、やがて闇に沈む。

 その中心から、深紅の双眸が現れる。


『……器は手の届く場所にある。あとは満ちるのみだ』

 

 影月の声は甘く、しかし抗えぬ重みを伴って朔真の心を締め付けた。紫苑を失った空洞に、その声が入り込み、温もりのように、毒のように広がっていく。


 翌朝、鏡に映った己の瞳が、わずかに朱を帯びていることに朔真は気づいた。

 それを恐れぬ自分がいた。

 むしろ、これが本当の自分なのではないかとすら思えた。


 こうして、桐原朔真は人の道から一歩、確かに外れた。その歩みは静かだが、戻る道はすでに霧に閉ざされていた。



 【影の契り】


 紫苑の墓前に立つのは、いつ以来のことだったか。

 時の感覚が麻痺していた。

 春を過ぎ、夏の蝉が鳴き、やがて秋の風が頬を撫でても、朔真はこの場所を避け続けていた。

 だが今夜は、なぜか足が勝手にここへ向いていた。


──いや、足を導いたのは自分ではない。

 背後から聞こえる足音。振り返っても誰もいないのに、確かに土を踏む音がある。

 やがて耳元に、あの声が落ちてきた。


『……ここで誓え、朔真。お前はまだ弱いのか。まだ守れぬままでいるつもりか』

 

 墓前の藤が、夜風もないのに揺れた。

 淡い花びらが、血色を帯びながら宙に舞う。ひとひら、またひとひら──それらは勾玉の形をつくり、やがて地に落ちることなく空中で震えた。


『その器は、紫苑が守り抜いた。あとは、お前が満たせ』

 

 低く響く声に合わせ焼けるような痛みが胸を走り、視界が赤く染まった。吐息は熱を帯び、握った拳の中に確かに力が宿る。

 ──これが……。

 これがあれば、何者も奪えはしない。葵も、この家も、自分の手で守りきれる。

 その思いは確かに希望であったはずなのに、その色はどこまでも暗く深かった。


『そうだ……それが力だ、朔真』

 

 影月の声が耳の奥で嗤う。

 その笑いに背筋を冷たくするはずの感情はもうない。代わりに全身を満たすのは昂揚と飢えだった。


 紫苑の墓前に跪くと、朔真は静かに呟いた。

 

「……紫苑。お前を守れなかった俺を許せ。だが……もう二度と失わん」


 その言葉が誓いなのか、呪いなのか、自分でもわからなかった。

 ただ、夜空の月は薄雲に覆われ、光を失っていた。




 第九節  薄氷


 闇は、もはや水面のように静かではなかった。祠を満たす瘴気は、波立ち、朔真の胸を締め付ける。影月の声は鋼の鎖のように絡みつき、息をするたび、その締め付けは増していった。


――おまえは力を持つべきだ。

――おまえには、その器がある。

――奪え。憎め。全てを。


 影月の低く甘い囁きが、耳の奥で永遠に反響する。紫苑の面影はすでに霞み、思い出の中の笑顔すら、血の色に染まっていた。

 けれど、その霞の向こうで、ただひとつ鮮明な光が揺れていた。幼い日の葵。小さな手で剣を握り、必死に真似をしようとしていた息子の姿。


(……葵……)


 胸の奥で何かが疼いた。それは怒りでも憎しみでもなく、ずっと忘れていた、あまりにも柔らかな感情だった。

 唇がかすかに動く。


――愛していた。


 それは声にならなかった。影月の闇に覆われ、すぐに波に呑まれて消えた。

 次に目を開いた時、朔真の中にあった最後の理性は、灰のように冷たく崩れ落ちていた。


「……行け、葵」

 

 低く、押し殺した声が、闇の中に落ちる。

 

「京へ向かえ。二度と……戻るな」


 その命は父としての最後の情であり、鬼としての最初の宣告でもあった。

 葵が背を向ける刹那、朔真は見えぬ鎖でその背を縛りつけたい衝動に駆られたが、それすらも影月の笑みに溶かされていった。


 祠の奥は、もはや闇そのものだった。

 石灯籠の光は掻き消え、土と血の匂いが重く垂れ込める。朔真は膝をつき、右手を地に押し当てた。掌から伝わる冷たさは、現のものではない。地中深くで、影月が脈打つように呼吸しているのがわかる。


――力を望め。

――そのためならば、何を奪ってもよい。


 影月の声は、もはや誘いではなく命令だった。耳を塞いでも意味はない。声は頭蓋の内側で直接響き、思考を削り取っていく。

 ふと、外からかすかな足音がした。村の祠守たちが、何かを確かめに来たのだろう。彼らは、この地の掟を守る者。幼き頃から朔真を知る顔もある。

 闇の奥で、何かが笑った。

 

――試せ。

――器に、血を注げ。


 朔真はゆっくりと立ち上がった。足音は近づく。迷いは刹那、そして消えた。

 次に祠の前に立っていたのは、人の姿をしていても、もはや人ではない何かだった。


 短い声。剣が抜かれる音。

 夜気を裂く、乾いた一閃。


 呻き声は上がらなかった。ただ、土に沈む音だけが響いた。温かい液が手に散る感触。かつては守るべき存在だった者の命が、指の間から零れ落ちていく。

 それは、確かに重かった――しかし、もう心は波立たなかった。


 祠の闇が揺らぎ、影月がその姿を現す。その双眸は、深淵のように冷たく、そして満足げだった。


「……おまえは、もう戻れぬ」


 その言葉に、朔真はわずかに目を伏せた。胸の奥で、何かが静かに泣いていた。

 だが、その声もやがて、闇の海に沈んでいった。


 祠の外では、夜風が藤を揺らす音だけが残った。満開の花びらは血に染まり、足元に散り積もっていく。

 

 そして朔真は二度と、光の側には戻らなかった。


 


 第十節 闇に蠢くもの


 夜の帳が下り、桐原の城下と村々はひっそりと眠りに沈んでいた。

 その静けさを、地を這うような低い唸りが破ったのは、月が雲間から姿を覗かせた刹那だった。


「ウオおぉォォーーーー……」


 藩主・桐原朔真は、昼間の威厳を湛えた面影をすっかり失い、夜衣のまま黒々とした闇に沈む森へと踏み入っていた。

 その瞳は紅に濁り、鼻腔をかすめるのは血と肉の匂い。

 かつて誇り高き剣を握っていた右手は、今や鋭い鉤爪に変じ、その先からはポタポタと血が滴り落ちていた。


 影月の声が、闇の底から湧き上がるように響く。


『…喰らえ。喰らえば喰らうほど、我は強くなる。お前もまた…』


 その囁きに抗う術は、もはやどこにもなかった。


 旅人は悲鳴を上げる間もなく喉笛を噛み切られ、血飛沫が夜風に散る。

 川辺で薪を拾っていた村の女は、足元から引きずり込まれ闇に飲まれた。

 森の奥からは、骨を噛み砕く湿った音が続いた。


 空は黒い闇に覆われ、月が姿を消した――。


「昨夜も…まただ」


「山には近づくな。鬼が出る」


 村人達の間で密かに囁かれるようになった。

 最初は迷信だった。

 だが程なく、藩士や旅人までもが忽然と姿を消し、血濡れの遺体が夜ごと見つかるようになった。

 その影は清廉なる桐原の地の表の顔を、じわりと侵食していった。


 城の奥深く、障子越しに薄く朝の光を受けた男がひとり、口元を赤く染めたまま座していた。

 それはもはや人ではなく――鬼。

 

「紫苑……、葵」


 愛おしげに呟く声が残っていた――。

 

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