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第二章  過去ノ焔

 第一節  湯煙と月夜と、微かな距離


 旅の途上、一行は山間の静かな湯治場『月見の里』に足を止めていた。

 瓦葺きの宿からは、ほのかな湯煙がたなびき、硫黄の匂いが微かに鼻をくすぐる。


「ここで一息入れるとしよう。……いや、入れるべきだ」


 蓮真が顎を撫でながら断言する。


「これ以上傷をこじらせては、鬼より先に我等が倒れる」


「今宵はゆっくり身体を休めるのも悪くはないな」


 そう葵が呟くと、百合丸が満面の笑みで手を打った。


「おお〜、やっと一息つけますなぁ! 湯と酒! それに、ふかふかの布団と、山菜尽くしのお膳つき! いやあ、旅のご褒美でございますな!」


「お主は、鬼と人の狭間を旅するなどと申していたが……どう見ても飯と湯を求める旅人だな」


「はっはっは、蓮真どの、それもまた命をつなぐ術ってやつでございましょう? 鬼の気配も空腹には勝てませんよ〜。ねぇ、燈ちゃん?」


「う、うん……。たしかに、百合丸さんって、なんだかすごく……美味しい物に詳しいよね」


「それが薬売りの心得でございますよ。身体に効くものは、味も良くなくちゃいけませんからねぇ」


 百合丸の笑顔はどこまでも朗らかだったが、目の奥には何か鋭い光が宿っていた。



 【湯の間にて 】


「ふぅ~……極楽、極楽……」


 ため息混じりの声が、風呂場に響く。

 蓮真が湯船の縁に腕をかけ、のぼせ気味の顔で空を仰いでいた。


「しかし、お主と混浴とはな……」


 一方、隣では百合丸が涼しい顔で肩まで湯に浸かり、薬草の束を片手にくるくると回していた。


「まあまあ、こういうのは湯の縁も何かの縁ってやつで」


「私は、こういうのは苦手だ……」


「そうは言っても、その肩の傷。なかなか深そうだよ?」


 百合丸の声に、蓮真の動きが止まる。

 彼は無言で、右肩のあたりをそっと湯に沈め、古い傷痕を隠した。


「……戦の名残よ」


「ふぅん……俺ぁ、逆に生き残った痕が好きだけどねぇ。だってそれ、ちゃんと生きてここにいるって証だろ?」


 百合丸はそう言って、薬草の束を湯に浮かべる。


「ここでの湯治、昔にも来たことあるんだよ。死にかけたあとにね。あん時は鬼の毒が全身に回ってさ」


「ほう……それで鬼気を中和できる体質か。珍しい」


「薬でなんとか繋ぎ止めてるだけさ。だけどなぁ……毒と共に生きるってのも、慣れりゃ案外、悪くないもんだよ?」


 湯の湯気の向こう、どこか達観したような目で百合丸は笑っていた。


 日が暮れ、山の端に月が昇り始めた頃、葵はひとり縁側に腰を下ろして夜風に当たっていた。


「……隣、いい?」


「ああ」


 燈だった。湯上がりの髪をゆるく結び、浴衣の袖が風に揺れる。

 ふと、縁側の板に足を取られた燈が、バランスを崩した。


「あっ――」


「危ないっ!」


 とっさに手を伸ばした葵の胸に、彼女の額が柔らかく触れた。


「……!」


「ごごごごめんなさいっ!!」


 燈が顔を真っ赤にして飛び退いた。


「顔が赤いぞ。湯あたりでもしたのではないか?」


「……だ、大丈夫。」


 燈は小さく身を縮め、袖で顔を隠した。

 白い素足が月の光に淡く照らされる。

 葵は暫し目線を彷徨わせたあと、夜空を見上げて言った。


「燈、見てみろ。月が綺麗だ……」


 夜風が優しく燈の上気した頬を撫でる。


「こうして静かに月を見ていると、まるで鬼のことなんて……どこか別の世界の話みたい」


「そうだな……でも、俺たちはそれを背負っている」


「うん。だからこそ、こういう時間が……すごく、こわい」


「怖い?」


「……壊れちゃいそうで。……あたしが、いつかあれになったらって……」


 葵は少しだけ目を伏せると、ゆっくりと答える。


「なっても、俺が引き戻す。絶対に」


 燈は少しだけ目を見開いたあと、小さく笑った。


「……ありがとう。」


「そろそろ寝た方がいい。明日も早い」


「うん、おやすみなさい」


「おやすみ」


 部屋へと戻る燈が踵を返すのと同時に風が揺れ、簾が揺れる。


 燈の髪の香りがほのかに漂い、葵の鼻腔をくすぐった。


(まいったな……)


 突然、襖の隅がそっと開き、百合丸の顔がのぞいた。


「いやぁ〜これはこれは、実に風流な光景で……」


「……そこで何をしている」


「いやぁね、坊さんは(私は酒はやらない)ってお堅いしさ。互いを知る為には盃を交わすのが一番手っ取り早いっていうでしょ?」


そう言って徳利を振って見せた。


「いつからそこに……」


「ええと〜、燈ちゃんが倒れかかったあたり?」


「そんな前から……」


「良い雰囲気だったんで、声を掛けそびれちまいましたよ〜」


「……明日は早い。お前も部屋に戻って休め」


「ええ〜夜はまだまだこれから……」


「いいから戻れ」


 そう言って顔を背けた葵の耳が赤く染まっていた。


「つまらないなぁ」と呟いた百合丸がニヤリと笑った。


「恋もまた毒ですからな。あいにくそれに効く薬は持ち合わせておりませんぜ〜?」


「も、ど、れ!」


 百合丸はひらりと手を振って、鼻唄まじりに去っていった。





 ――深夜。

 襖の向こう、燈の部屋から小さな声が聞こえて葵は目を覚ました。


「……かあさま……いや……いやだ……やめて……」


 声は寝言だった。だがその響きは、涙をにじませるように切実で、痛々しかった。


「……かあさま……どこ……」


「燈、大丈夫か?」


 襖の外から小さく声をかけた葵の右腕がわずかに疼いた。


 鬼の気配が揺らいでいる。


「……かあさま!……」


 うっすらと光る文様が、彼女の背に浮かび上がる。


「一人にしないで……かあ……さま」


 葵の胸の奥に、かつての己の声が蘇る。

 母を喪い、力を与えられたあの日から、葵の運命は思いもよらない方向に転がった。


「大丈夫だ、燈。お前はひとりではない。俺が、俺たちが必ずや守る」


 やがて燈の声は小さくなり、穏やかな寝息に変わった。背中の文様が淡く滲み、やがて静かに消えていく。

 その掌を握ることはできずとも、葵の想いはそっと寄り添っていた。


「大丈夫だ……」


 誰にも聞こえぬような声で、葵はぽつりと呟いた。


 夜は更け、再び静けさが戻る。

 だが、心の奥では確かな灯が、小さくとも消えずに灯り続けていた。





 第二節  燈ノ記憶


 ――天保三年、秋。

 黒目村には、秋を告げる山霧が静かに降りていた。木々が黄金に染まり、風に乗って落葉が舞う。だが、その美しさの奥に、誰も知らぬ闇が息を潜めていた。


 燈はその頃、村の中でも『穢れの子』と呼ばれていた。理由は、彼女が生まれたとき、母の腹から洩れ出た黒い痣――鬼気の残滓のような印が、その小さな背に浮かんでいたからだ。


「鬼の子は災いを招く」

 

「見てみろ、あの目を――まるで人間じゃない」


 言葉の刃は幼子にすら容赦なかった。子供たちと遊ぶことも禁じられ、母とふたり、村はずれの古屋にひっそりと暮らしていた。

 けれど、燈の母――志津(しづ)は、決してその小さな命を責めなかった。


「おまえは、優しい子。お母は、ずっとおまえの味方よ」


 その言葉だけが、燈の心を繋ぎ止めていた。


 秋の終わり、村に異変が起きた。

 里山に棲まうはずの獣が、次々と姿を消し、川の水が濁り始め、夜になると山から呻き声のようなものが響いた。村人たちは恐れ、庄屋――山守(やまもり)忠右衛門の屋敷に集まった。


「これは穢れの兆だ……鬼が近い」


 山守は、悩み抜いた末に一つの決断を下した。

 ――生贄を捧げ、鬼の顕現を封じる。

 それは、黒目村に古くから伝わる禁忌の儀式。神の名を騙り、穢れを人に背負わせることで災厄を遠ざけるという、最も忌まわしい手段だった。

 選ばれたのは、燈の母だった。


「穢れの血を絶つことで、村は救われる」


 誰も声を上げなかった。むしろ、それが当然とでも言わんばかりに頷いていた。


 その夜。

 燈は家で、母の帰りを待っていた。山守の屋敷に呼ばれたまま、まだ戻らない。嫌な胸騒ぎがして、風の冷たさが異様に身に染みた。


 そして――空が、裂けた。


「おかあ……さん……?」


 家の外に、禍々しい影が揺れていた。風が鳴き、鳥が飛び去り、空気が歪む。燈は走った。裸足のまま、夜道を駆けた。

 屋敷の裏手、小さな祠の前。黒煙のような闇が渦を巻いていた。

 その中心に――母の姿があった。


「おかあっ……!」


 燈が叫ぶと、母がこちらを振り返った。けれど、その顔は静かだった。諦めでもなく、悲しみでもなく、ただ微笑んでいた。


「ごめんね、燈。どうか……生きて」


 その瞬間、闇が彼女を包んだ。炎のように燃え上がる鬼の気が空を貫き、辺りが真っ赤に染まった。

 燈は動けなかった。声も、涙も出なかった。ただ、心の奥に何かが焼きついた。

 ――母の声。あの最期の言葉だけが、燈の魂に残った。


 闇が明けたとき、村は静かだった。屋敷の祠は崩れ、山守の姿も消えていた。だが、燈は知っていた。

 あの闇は、終わってなどいない――。


 母の命を犠牲にしてなお、村を襲った穢れは消えず、山守忠右衛門自身がその鬼気を引き受け、鬼と成り果てたのだと知ったのは随分経ってからだった。

 ――村を守るために、己が鬼となる。


 それが、あの男の選んだ『答え』だったのだ。


 それから三年。

 燈は村を出て、宛てもなく彷徨った。鬼の声が絶えず聞こえた。山の中で飢え、谷に迷い込み、ただひとりで生きた。

 その間、誰とも話さなかった。ただ、時折夢に出る母の声と、あの夜に現れたもうひとりの男の記憶だけが、燈を支えていた。


 あの時、封印の印を掲げて闇に立ち向かっていた旅の僧がいた。冷たい目をしていたが、燈に向けた目は慈愛に満ちていた。


「ひとりなのか?……私と共に」


 差し出された手を振り払って燈は逃げだ。何故そうしたのかはわからなかったが、ただ全てが恐ろしかった。

 何も信じることが出来なかった。



 そして、天保六年。

 燈は、再び黒目村を訪れた。今は誰もいない村の井戸の前――そこに、かつての鬼の気が微かに残っていた。

 その時、井戸の向こうから現れたのが、桐原葵と蓮真だった。


「君は?」


「もしや、あの時の……」


 蓮真が小さく呟く。

 三年の時を経て、再び繋がる因縁。過去の傷は、まだ癒えてはいない。だが、あのとき母が遺した言葉が、燈の胸に灯をともしていた。


 ――生きて。


 そう願われた命であるのなら、自分はもう一度、鬼と向き合うことができるかもしれない。


 葵と共に、蓮真と共に、あの闇の先へ――




 第三節  蓮真ノ追憶


 夜営の火が落ちかけた頃、燈と百合丸は静かな寝息を立てていた。

 蓮真は焚き火の残光を前に、ひとり座していた。

 目を閉じる。浮かぶのは、あの人の面影。細く、白い指先で香を焚く姿。柔らかな笑みで人々に花を渡し、子どもたちの手を取って舞うように歩く姿。

 まるで、光のようだった――あの人は、沙耶(さや)

 

 蓮真がかつて、命を賭して愛したひと。


 出会いは、都の片隅。

 祓い師として任を帯び、陰の気配を追う蓮真の前に、沙耶は現れた。

 小さな社でひとり舞を捧げ、古びた木像に花を手向ける彼女の姿は、どこか神秘的で、美しかった。

 ただの巫女かと問えば、彼女は首を横に振った。


「私には、祈るしかできないのです」


 その声に、かすかな影を感じた。

 だが蓮真は、それ以上を問わなかった。

 祓い師である己が、光にすがるように彼女に惹かれていたのだから。


 沙耶は、ときおり「鬼の夢」を見ると言った。焔に包まれ、泣き叫ぶ者の記憶。愛しい者を喰らう鬼の断末魔。

 その夢に脅かされる夜、蓮真は香を焚き、彼女を腕に抱いた。


「鬼とは、恐ろしいだけのものではないのですね」


 そう言った沙耶の声は、どこか遠く聞こえた。蓮真はそのとき、すでに気づいていたのかもしれない。

 彼女の中に眠るなにかに。


 やがて、ふたりは結ばれた。

 僧である己が、戒を破ることへの躊躇いはあった。だが蓮真は、それを超えてでも沙耶と共に在りたかった。


「この傷……」


 沙耶の指先が蓮真の右肩をなぞる。そこには、未だ完全には癒えていない傷跡があった。


「大したものではない、もう痛みは感じない。」


「……私は、一人が恐ろしいと感じたことなどなかった。貴方と出会うまでは……」


「心配ない。お前を一人にすることなどない」


 その穏やかな日々は、永遠には続かなかった――。


 ある夜、沙耶は突然、目に見えぬ影に囚われた。蓮真の術でも祓いきれぬ、深く、重い闇。

 彼女の身体に鬼の痣が浮かび、その目に宿る光は、蓮真のことすら識別しなくなっていた。


「沙耶……お願いだ。戻ってくれ……!」


 哀願する声が、虚空に吸われる。

 彼女の唇からこぼれたのは、聞いたこともない鬼の言葉。その声音が、蓮真の心を裂いた。


 そして、あの日。


 祓いの場にて、蓮真は術を構えた。五芒星の中心に立つ沙耶。彼女は何も言わなかった。ただ、静かに微笑んでいた。

 それが――蓮真の記憶にある最後の沙耶の顔だった。


「我が魂、此処に留まらず――鎮まりの符となれ」


 蓮真は、涙を隠しながら印を結んだ。鬼と化した彼女を、完全なる封へと導くために。それが唯一、彼女の魂を穢さずに終わらせる手段だった。


 術の終わり、蓮真はひとり、崩れ落ちた。胸の奥にぽっかりと空いたその穴は、今も埋まっていない。


「……あれが俺の、罪だ」


 誰に語るでもなく、焚き火の揺らぎにそう呟く。

 沙耶の存在は、蓮真の術に今も影を落としている。どれだけの鬼を封じようとも、あの夜の痛みだけは薄れない。


 だが――それでも蓮真は、歩む。

 今や葵が、そして燈が、自分と同じ選択の岐路に立っている。

 過去に囚われた者たちが、未来に一歩踏み出すために。

 そのために蓮真は、術を振るうのだ。


 静かに立ち上がり、夜空を仰ぐ。星はどこまでも遠く、そして優しかった。

 沙耶よ。

 あの時、君が最後に浮かべた笑みは、赦しだったのか。それとも、別れの覚悟だったのか。


 いずれその答えにたどり着く日が来るのなら――

 俺は、その手で鬼を封じ続けよう。

 光の名のもとに。



 


 第四節  幕間ノ兆(まくあいのきざし)


 ──月はまだ登っていない。

 沈黙と冷気に包まれた山間の小道。草も木も息を潜め、夜の帳が静かに降りようとしていた。

 だが、その静寂を踏みにじるように、複数の影が木立の間をすり抜けていく。

 漆黒の羽織に、無機質な面をつけた者たち。

 それは、清眼党(せいがんとう)の一団だった。


「……反応、あり。気配、微弱なれど、鬼性確認」


 先頭をゆく男が呟いた。白磁の仮面の下で、感情は揺れない。まるで精密な機械のように、任務を告げる口調だった。


「対象、潜伏経路を移動中。周囲に人間の痕跡あり──」


 その言葉に、数人の構成員が手にした空断刀を抜く。

 鬼気に応じて刃がうっすらと淡い青光を放ち、空間に歪みを刻んだ。

 風が止まった。──否、止まったように感じた。


 それは理の眼が開かれた印だった。常の理を断ち、不条理を是とする者を斬る、無慈悲な眼。


「処理開始。封刀陣(ふうとうじん)、展開」


 号令と同時に、彼らは足を止めた。山の地に五芒の陣を敷き、次の瞬間、闇よりそれが現れた。

 赤黒く膨れた腕。片目だけが異様に肥大化した顔。

 かつて人であったもの──今は、名もなき鬼と化した存在。

 刃が交差する。だが、その瞬間──。


「……妙だな」


 一人の構成員が呟いた。

 鬼は抵抗らしい抵抗をせず、その場に崩れ落ちたのだ。


「鬼性、極端に薄い。これは……」


 構成員たちの間に、微かに疑念が走る。

 その疑念に応えるように、空気が一変した。

 ──音もなく、空間が揺れた。

 風ではない。地鳴りでもない。それは、時間すら歪める何かの到来。


「……来たか」


 森の奥より現れた影が一つ。白銀の髪、紅の瞳、黒と白の狭間を歩む存在。

 影月であった。


 清眼党の者たちが警戒の気を高める。だが、影月は微動だにせず、ただ言葉を落とした。


「器は、揃いつつある。残るはひとつ」


「……何のことだ?」


 仮面の下から鋭い声が飛ぶが、影月は答えず、夜気に溶けるように姿を消した。

 残された清眼党の者たちは、その場に残る影の余韻に、ただ無言で刀を構えるしかなかった。

 

 一方その頃、葵たち四人は、立ち寄った村の外れでひとときの休息をとっていた。

 夜風が冷たくなるにつれ、焚き火の熱が心地よい。


「……なぁ、お前ら、最近気づいてるか?」


 茶を啜りながら、百合丸がぽつりと呟く。


「気配が……似てきてるんだよ。あの夜の、火の匂いに」


 葵が眉をひそめる。


「火……? どの夜だ」


 百合丸はしばし口を閉ざした。

 焚き火の揺らめく炎を見つめながら、ぽつりと続ける。


「昔、俺の生まれた村が──燃えたんだ」


 沈黙。蓮真と燈も、手を止めて彼を見つめる。


「……どうしてかは、もう忘れちまった。でもな……あの時、煙の中にいたものの気配が……最近、近づいてきてる気がするんだよ」


 それは、冗談めかした彼の語り口とは異なり、どこか切実だった。

 焚き火が小さく爆ぜた音だけが、しばし静寂の中を満たした──。


 夜は、誰にも平等に降り注ぐ。だが、その夜を通じて蠢く理は、決して平等ではない。

 運命の糸はすでに引かれ、舞台の幕は次の場面を迎えようとしていた。

 

 ──そして、百合丸の過去が再び、炎を上げる。





 第五節  炎の残響(えんのざんき)


 ──それは、焼ける音だった。


 乾いた木の軋み、はぜる火の音、焼け落ちる家屋の悲鳴。そして、あの夜はまだ終わっていない。


「百合兄、いかないで──!」


 少女の声が、煙の奥から響いていた。

 ──けれど、振り返ることは許されなかった。

 任務。それがすべてだった。

 

 百合丸は、組織に育てられた影だった。その存在は名もなく、感情もいらず、ただ命じられた対象を処理することが唯一の意味だった。

 標的は、村の巫女。『鬼に魅入られた』と報告された女。その巫女が器となる兆しを見せたと──清眼党とは異なる組織筋からの情報があった。

 鬼の器は拡がる──それが、彼らの教えだった。

 巫女を生かせば、村ごと穢れる。それを防ぐには、証ごと焼き払うしかない。

 命令は、『村ごと処理せよ』だった。

 標的に情を持てば、処分されるのは任務者自身。忍びに迷いは許されない。

 百合丸はその掟のもとに生きていた。


 ──だが。


 彼の妹・柚花(ゆずか)が、巫女とともにいた。


「この人は違う!鬼なんかじゃない……っ!」


 小さな身体で巫女を庇うように立つ少女。その瞳は、恐怖ではなく、信じる強さで満ちていた。

 ……兄のことも、信じていた。だから、叫んだのだ。


「百合兄、行かないで……!」


 だが、その言葉を振り払って、百合丸は飛び退いた。

 既に火は放たれていた。指令通り、複数箇所から火薬を仕込み、逃げ場を絶つ配置だった。


 ──撤退命令。

 ──完遂印。

 ──目撃者は、処理対象に含まれる。


 妹の存在を報告すれば、百合丸自身が処理対象になりかねなかった。

 彼は、忍びとして生きることを選んだ。

 ……そのはずだった。



 ──現在。


「……百合丸?」


 焚き火の前で、燈が問いかける。彼の手が、止まっていた。


「悪い。ちと、煙が目にしみただけだよ」


 軽く笑うその顔に、いつもの軽薄さはなかった。


「……俺にはな、誰かを救う資格なんてないんだよ。命令だった。それだけだ。そう思ってきた。そう言い聞かせてきた。でもな……」


 焚き火の揺らめく炎に、その瞳が揺れる。


「最近、また近づいてきてるんだよ。あの夜の匂いが。……煙と、血と、あの目の気配が」


「あの目?」


 葵が問うた。


「……火の中で、俺を見てた。人とは言えねぇ……けど、鬼とも違う……」


 その時、遠くで風が止まったような気がした。

 ──気配が、また一歩、近づいてきている。




 第六節  契約ノ痕(けいやくのあと)


 ──薬が、切れていた。


 胸の奥が焼けつくように痛む。冷や汗が背を這い、視界がかすむ。


 だが百合丸は、誰にも悟らせぬように笑みを浮かべた。


「悪い。ちょっと――」


 焚き火の明かりも届かぬその場所で、百合丸は一人、膝をついていた。

 ──妹の声が、聞こえる気がした。


「まさか、まだ生きていたとはな」


 影から現れたのは、清眼党の一人。白磁の仮面、空断刀の光。


「毒に侵された器の欠片──処分対象、百合丸」


 静かな宣告。


「へぇ……やっぱ、バレてたか」


 百合丸は笑った。だが、その声の奥には諦めも怒りもない。ただ静かだった。


「清眼党と、あいつら──俺がいた裏が繋がってたってのも、本当なんだな?」


 仮面の下から返事はなかった。ただ一歩、清眼党の者が進み出る。


「巫女と器を焼いた作戦は、あの時点で必要と判断された」


「必要……? それで妹を焼いたってのか。巫女に器の兆候があると見たのは……お前らの判断だろ」


「……その少女にも、微弱な鬼気が確認されていた」


 その言葉に、百合丸の表情が消えた。


「──柚花は、器だったのか?」


 清眼党の者は黙していた。沈黙。それが答えだった。

 百合丸の身体に、紫紺の痣が浮かび上がる。鬼毒の発作。


「あの夜、俺は逃げた。いや、任務を全うしたつもりだった。だが──」


 ──火の中、妹は微笑んでいた。


「兄さん、ありがと……ってな」


 あの時、柚花は鬼気に呑まれかけていた。それでも最後まで、兄を信じてくれた。彼は、妹の鬼化を知りながら、殺せなかった。

 その手を振りほどいて逃げた。

 ──その手が、鬼毒を残した。


「清眼党のやり方は、ただ斬るだけだ。だがな……」


 彼は腰の袋から、ひとつの小瓶を取り出した。中には、柚花の血から精製した解毒薬。


「……あの夜、俺は情けを選んだ。そしてこの毒と、生きていくことにしたんだ」


「処分する」


 清眼党の者が刀を抜く。だが、その刃は振るわれなかった。


「──やめて」


 背後から聞こえたのは、燈の声だった。


「百合丸さんは……鬼になんて、なってない。私は声が聞こえる。彼の中に、叫びがある……生きようとする声が」


 清眼党の者は一瞬、動きを止めた。その目に揺らぎはない──はずだった。

 だが次の瞬間、彼の腰の符札がわずかに震えた。


「共鳴──対象、鬼気の波動、安定」


 彼の使う術具は、鬼気の乱れを感知し、自動記録する仕組みだった。百合丸の気配は、毒の痕跡はあれど、不安定な暴走気とは無縁だった。

 ──殺すべきかどうかを決めるのは、感情ではない。理だ。

 そして今、術具は彼の理を揺らがせていた。


「……報告を上げる。対象、生存──猶予を与える」


 その言葉を残し、清眼党の者は闇に紛れて姿を消した。


 「……助かったな、俺」


 百合丸が口元に皮肉な笑みを浮かべた。だが、その目は伏せられていた。


「どうして……逃げなかったんですか?」


 燈の問いに、彼は静かに答えた。


「もう逃げるの、飽きたんだよ。……柚花の声を、また夢で聞いたんだ。お兄ちゃん、まだ終わってないよってな」


 彼は小瓶を見つめる。


「……だったら、もう少し足掻いてみるかって、そう思っただけさ」



 焚き火のそばで、葵と蓮真が湯を沸かしていた。


「おう、戻ったぞ。なんかあったか?」


 百合丸が軽く手を振ると、葵が眉をひそめた。


「顔色が悪いな。大丈夫か?」


「……ま、薬がちと切れてただけさ」


 湯気の中に静寂が降りる。しばらくして、百合丸は小さく呟いた。


「……なぁ、俺の話、聞いてくれるか?」


 その言葉に、葵はすぐに頷いた。


「いつだって、そのつもりだ」


 蓮真が黙って茶を差し出す。燈は、焚き火を見つめたまま、微かにうなずいた。

 ──夜が、静かに更けていく。だが、その静けさの奥には、確かに何かが芽吹いていた。


 その夜、誰も気づかなかった。


 宿の屋根の上、白銀の髪の者が、静かに彼らを見下ろしていた。


「器は揃いつつある」


 影月は呟いた。


「残るは、理を破る者のみ」


 ──夜は明けようとしていた。

 だが、これから迎える朝は、静かなものではない。

 それは、選ばれなかった者たちの物語が動き出す、運命の夜明けだった。

 

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