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序章  闇に蠢く者

 天保五年(一八三四年)――

 化政文化の余韻が未だ残る江戸の世は、一見して華やかではあったが、その陰で大雨や洪水による米不足、そして農村部ではコレラや天然痘などの疫病が蔓延し始めていた。


 明と暗が隣り合わせの時代である――。

 

 東山の麓に抱かれた桐原藩も例外ではなかった。それでもなお、この小国は清廉な藩政で知られ、貧しいながらも民は安寧を得ていた。

 城下には町家が立ち並び、子らの声が路地に響いていた。春には桜や藤の花が辺りを彩り、夏には蛍が小川を飛び交う。

 豊かな自然と清らかな政に支えられ、民はその恵みを享けて日々を営んでいた。

 

 しかし、いつからか人々は口に出せぬ違和を抱くようになっていった。

 井戸の水が濁る。犬の遠吠えが夜中響きわたる。田畑を渡る風が冷たく、鳥が一斉に飛び去る――。

 それは取るに足らぬ兆しに過ぎぬはずだった。


「夜道を歩くな」

 

 民の間で、ある噂が広まりつつあった。


「夜、山に入るな」


「鬼に食われるぞ――」


 最初はただの迷信だった。

 だが程なくして、藩士や旅人までもが忽然と姿を消した。


 藩は混乱を恐れ、事件を野盗の仕業として封じ込めようとしたが、それは真実から目を背ける行為でしかなかった。


 一方、その頃。

 若き侍・桐原葵(きりはら あおい)は、主君の密命により京へと赴いていた。

 剣術や兵法に優れ、主君の嫡男として将来を期待されながらも、葵にはある異質があった。

 彼は、人ならざるもの――、鬼を見ることができた。


 人には見えぬ気の流れを読み、時に鬼の気配を感じ取ることができる力。

 かつて鬼と遭遇したあの日、母は葵の身代わりとなって死んだ。

 そして葵自身は命を救われる代償として、力を与えられた。


 右腕に刻まれた鬼の痣は彼を戦いの場へと導き、孤独な日々が若き侍の心に濃い影を落としていた。


 ある夜――

 山道を進む葵の前に、一人の僧が現れた。

 その男の名は――蓮真(れんしん)


「桐原の者か。……お主、見えておるな」


「何のことだ」


「鬼の気だ。……この地の闇は、すでに人の手ではどうにもならぬ。だが、お主ならば抗えるやもしれぬ」


 蓮真は静かに言った。


「鬼はすでに、我らの日常に入り込んでいる」


「何を……」


 その言葉が終わらぬうちに、葵は遠くの山の麓から立ち昇る黒い霧を目にした。


 夜の山中、斬り落とされた首が転がり、地に血が散る。

 そこに立っていたのは、白髪をなびかせ、紅の瞳を持つ一人の男。

 彼は、静かに口角を上げて言った。


「久しいな、小僧。……あの夜のことを、まだ覚えているか?」


 葵の右手が熱を帯びる。


「その目、忘れたことなどない」


「あの女……名は、なんと言ったか……ああ、確か紫苑(しおん)といったか」


「……!」


 葵の握る刀の切先が怒りで震える。


「ククク……それでは私は切れぬぞ」


 薄く笑うその口元は血で濡れたように赤い。

 刹那、葵は右腕の激しい痛みに呻いた。


「私の名は、影月(えいげつ)――」


「影月……」


「いずれまた、近いうちに会うだろう」


 そう言い残して、その姿は溶けるように闇に消えた。

 葵は再びその名を呟いた。


 影月――母の仇、いずれ必ず。

 

 鬼の力を宿しながら、鬼を斬る宿命を背負った男、桐原 葵の戦いの序章がここに始まる。

 

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