有限時間
―――無理だ。
社の命運がかかる、大事な商談の日。正樹は、朝は強いというのが子供の頃からの自慢だった。勤務し続けたこの20年、一度も寝坊なんかしなかった。ましてや、1時間も寝過ごしす事なんて。
腕に目をやる。チッ…チッ…チッ…カチッ。精確無比に時が刻まれていく。9時まで、あと、5分。
「…どう考えても、30分はかかるよな。さらに渋滞ときたもんだ」
そう呟くと、深くため息をつく。進んでは止まり、また少し進んでは止まる。全く、ついてない。もう諦めるしかないか…
不意に、〈コンビニエンス〜何でもストア〉という文字が目に飛び込んで来た。
「何だあれ、新手のコンビニか。…しっかし、センスないなあ」
そういいながらも、ウインカーをあげ、引き寄せられるかのように駐車場へと入っていった。
「いらっしゃい」
ドアを押し開けると、小柄なお婆さんがレジに座っていた。店内を見渡すと、少しばかり電灯は暗いが、至って普通のコンビニのように見受けられる。多分、個人経営の店なのだろうと勝手に考え、缶コーヒーを一本取り、レジに持っていき、カウンターに置くと、
「あんたが欲しいのは?」
真っ直ぐこちらに視線を向けて、お婆さんが尋ねてきた。
「は…はい?何のことです?」
思わず聞き返す。
「ここは何でもストア。そんな物買いにはこんでしょう」
言葉に詰まる。フラリと入ってしまった事を少し後悔し始めていた。
「売るよ」
お婆さんは無言で砂時計を取り出した。
「砂時計、ですか。生憎なんですけど、時間がなくてそんなものを見ている余裕がないんです」
「だから売る、と」
お婆さんが紙を一枚取り出す。
“時間売買契約同意書”
唖然としながらも紙に目を通す。要約すると、何やら時間を取引できるようになるという。
どうせ大したものじゃないと思いながらも、
「ここに名前を書いたら時間を買えるんですよね?」
そう言うと、お婆さんはゆっくり頷き、砂時計をひっくり返し、カウンターに置いた。
店を出て車を走らせる。取り合えず遅れそうだという旨は先方に伝えたが、いくらなんでも30分は洒落にならないだろう。
―――減給は、免れないだろう…こんなことならいっそ、お婆さんが言ったことが本当ならいいのに。
迫りくる針を背後に感じながら、できる限り車をとばす。
会社の地下に車を止め、エレベーターに駆け込み、3のボタンを押す。ウィィィンという音をたて昇るエレベーター。
一息つき、時計を見る。9時3分前…なんてことだ、こんな日に限って時計が止まるなんて…
ドアが開くと同時に、受付に向かう。
「すみません、本日商談予定の川田正樹と申します。」
はい、どうぞ、と部屋に案内される。ネクタイを締め直しドアを開けて、開口一番
「遅れてしまい誠に申し訳ありませんでした!」
深く頭を下げ、恐る恐る顔を上げると、社長がポカンとした顔でこちらを見ていた。
「―――君」
「はいっ」
「まだ9時まで3分ある、遅刻などしていないじゃないか。遅れる可能性があるとの連絡にしろ、どうにか遅れないように走ってくる様子にしろ、君の会社は信用が出来そうだな。どれ、話をきこうか」
正樹は状況が飲み込めない中、どうにか商談を終えた。
「それじゃあ、どうするかは後で連絡するから。もっとも、期待してていいよ」にこっと笑い社長は退室した。
ホッと胸を撫で下ろす。腕にある時計は、今はまた精確に針を刻みだしていた。
「まさか本当に時間が買えるとは思わなかったよ…」
帰りに再び何でもストアを訪れた正樹はお婆さんに話し掛ける。
「で、いくら払えばいいんだい?」
尋ねるが、お婆さんは首を横に振る。
「時間はお金では買えんよ」
カウンターの砂時計は、ゆっくり、サーッという音をたて、砂を吐き出し続けている。
「ならどうすれば?無料なのかい?」
「…疑問は時間が解決することもある。どれ、今日は店じまいじゃ。さあ出た出た」
渋々店を出て会社に戻った。
そのまま、いつの間にか数ヶ月が経過した。
―――時間があるのはなんて素晴らしいことか。ここの所、仕事は上々で残業も無く、課長に昇進することもでき、家族と過ごせる時間もしっかりとれている。それもこれも、時間が買えるおかげだ。あのお婆さんに、お礼をしにいかなきゃな…などと考えていると、
「…ちょう!課長!!」
はっと気づく。しまった、ボーッとしすぎたか。
「もう来期の予算申請締切を1時間も過ぎてますよ。地震があったとはいえ、業務には差し支えなかったでしょう。もう2時ですよ。早く出してくださいね」
「地震…?地震なんてあったか?」
「らしくないですね。寝てたんですか?」
と言いながら、にこやかに笑いかけてくる。
「あ、や、すまん。今出すから」
頭をかきながら取り掛かる。
カタカタカタ。
俺には時間が味方についてる。こんなもの時計が5分進む間に終わるだろう。
「よし、でき…た?」
周りを見渡すと既に人影は無く、辺りは闇に包まれていた。
翌日。朝一番に何でもストアに向かう。あの婆さんに一言言ってやろうといきり立ってドアを開ける。
「いらっしゃい」
「婆さん、昨日は時間が買えなかった。どういうことだい?」
「昨日、昨日…ああ、そうだろうねえ。」
「そうだろうねえ、じゃないだろ。大体どうして時間が」
一瞬、お婆さんの目が見開かれたかと思うと、バタン、という音をたて、カバンが地面に落ちた。
…カウンターに置かれた、砂時計の最後の一粒が、今ゆっくりと落下を終えた。