04話 見晴らしのいい場所で、また。
風が吹き抜ける。
聞こえるのは、遠くの海の波が寄せる音だけ。
太陽はもう、水平線に沈もうとしていた。
凪はというと、まるで別人のように静かに、海を眺めている。
「あの日も、こんな夕焼けだったっけ……。」
彼女は、語り始める。
色褪せた風景を。
しまいこんでいた、昔の話を。
「私には、1人の息子がいたの。」
―――――――――
今でもはっきり覚えている。
あの痛みも、あの叫びも、そして……小さな命が、この世界に産声を上げた瞬間も。
何もかもが滲んで、涙か汗かもわからない視界の中で──確かに、その子は生まれてきた。
胸に抱いたその温もりは、どんな言葉よりも確かな実感で。
震える指で、頬を撫でた。
生きてる。この腕の中に、確かに、命がいる。
その時、ふと思い出した事がある。
いつの記憶かはわからない。
季節は春。ひだまりの中を歩いていた時。風が私の髪を揺らして、遠くへと通り過ぎていった。
その風は、花のような香りがした。
だけどそれは花そのものの匂いじゃない。
土の匂いと、誰かのぬくもりと、何か……懐かしいものが混じった、優しい香りだった。
涙がこぼれた。理由なんてわからなかった。
ただ、心の奥で何かがほどけて、静かにあたたかくなった。あの香りのように、誰かの心に静かに触れられる人になってほしいと思った。
姿が見えなくても、触れられなくても、そっとそばにいると感じさせられるような、そんな人に。
だから私は、その生まれて間もない赤子に、こう名前をつけた。
「薫」と。
そう、あなたよ。
ふふ、驚いた?
まぁまぁ、話は後にしてちょうだい。まだ終わっていないから。
それで私は、世界一の幸せ者になった。
本当に幸せだったの。
愛する人に囲まれて、笑いが絶えなくて。
でも、その幸せも、すぐに終わってしまう。
あなたが生まれて3年後、私の旦那さん、あなたの父親が、交通事故で亡くなってしまう。
私は悲しかった。あの人とずっと一緒だと思っていた。これから先も、あなたを育てながら幸せに暮らすのだと、信じて疑わなかった。
だけど、それが叶うことはなかった。
でも、泣いてなんかいられなかった。
悲しんでなんていられなかった。だって、あの人は言ったんだもの。
「薫をたのんだ。」
ってね。だから、私は女手1人で、あなたを育てると決めた。
それからは多忙な毎日だったわ。
朝早くからあなたのお弁当を作って、保育園へ預けて。そこから仕事に行って、あなたを迎えに行って。
確かに大変だった。休む暇なんて無かったし。
それでもね、あなたを立派に育てるって、決めたてたから。それが、あの人との約束だから。
それに何よりも、あなたを愛していたから。
それから年月が少し経って、その生活にも慣れてきた頃。だんだん体調が悪くなっていったの。
最初はただの風邪かな?って思っていたのだけれど、そこから体調は悪化する一方。
ある日咳き込んでしまって、ふと押さえた手のひらを見てみたらね、
血が付いていたの。
流石の私も病院に行ったわ。
そうしたら、がんですって。末期で、もう治らないって言われたわ。余命は3ヶ月。
神様ってひどいわよね。私からあの人を奪うだけでなく、私まで奪ってしまうなんて。
私は薫にも同じ思いをさせてしまうことが。
薫を1人にしてしまうことが、許せなかった。
けれど、病気はもう治らない。
その日から、私は病院に入院することになった。
なので、あなたは、おばあちゃんとおじいちゃんに預かってもらうことにしたの。
そこからは、あなたとの時間を大切にすることにしたわ。今まで仕事で取れなかった分、残りはあなたにだけ、時間を使おうと、そう思ったの。
おばあちゃん達に無理言ってね、毎日病院に通ってもらうことにした。あなたと会ってお話しする事が、楽しみで楽しみでしょうがなかった。
今日は何時に起きたのか。
朝ごはんは何を食べたのか。
テレビでは何を見たのか。
今なにに夢中で、何が好きで、何が嫌いで。
日常の些細なことから、特別なことまで。
いろんなお話をしたわ。
今でも鮮明に覚えている。本当よ?
それでね、ある日、あなたがこんなことを言ったの。
「お母さん、僕、本物の象さんやきりんさんに会いたい!」
「そうね、動物園に行けば、会えるわよ。おばあちゃんにお願いして、連れていってもらいなさい?」
「やだ!」
やだ?あら珍しい。この子が私に反発するなんて。
「あら、どうして?」
「だって僕は、お母さんと行きたいんだ。あと、他にも僕知ってるよ?水族館には、お魚さんがいっぱいいるって!水族館にも行きたい!」
それを聞いて、私は涙が止まらなかった。
母親として当たり前のことができてないんだ。
そんな悲痛な現実が、悲しかった。
「ごめんね、薫。私……一緒に行けないの。」
「どうして?」
「お母さんは病気なの。だから、病院で治してもらわないといけないの。」
「だったら、病気が治ったら行こうね!約束!」
絶対に叶える事のできない約束。
そんなことはわかっていた。わかっていたのに。
断ることなんて、できなかった。
「ええ、約束よ。」
その日は、私が死ぬ前日だった。
次の日。
おばあちゃんとおじいちゃんに、私は遠いところへ旅立ったと、そう伝えて欲しいと頼んだ。
きっと今の薫に、"死ぬ"ということは、理解できないと思ったから。
自分は母親として、何もしてあげられなかった。
何一つ、薫に残してあげられなかった。
それが、悔しかった。
そんなことをぼんやり考えていた。
はっと気づいたら、
世界は音を失っていた。
病室の時計の針は動いていたけど、その音が聞こえなかった。
春の風がカーテンを揺らしていたけど、その空気に肌は触れなかった。
窓の外から朝の光が差し込んでいたけど、温かさは感じなかった。
──いや、それよりも。
ベッドの上に横たわっている“私”を、見下ろしている自分がいた。
「……え?」
声は出ていない。
口が動いたのに、音は生まれなかった。
慌てて歩み寄ろうとする。でも足音も、床の感触もなかった。
私は死んだのだった。
死んだら無に帰ると思っていたけれど、現実にとどまれるのだろうか。生前、よく聞いていた、幽霊になったのだろうかと、そう思った。
そこから私は、あなたのそばにいる事にした。
実際に触れられなくても。
声は届かなくても。
そばにいて、見守ろうと思った。
それが母親としてできる、最後のことだと思ったから。
数年後。私はある人に出会うの。
私のことが見えていると言う、ある男に。
その人に教えてもらった。
霊界という存在について、現界にとどまるとどうなるのかについて。
そして、どうすれば人間が幽霊を見ることができるのか、について。
いろいろ方法は聞いたが、どれも難しくて、私にはできなかった。
そうしてあなたのそばにいながら、
色んなところへ行った。
もし薫が私のことを見えるようになったら、どこに行こうかしら。
そんなことを考えながら、色々なところに行ったわ。
そんな中、私がいない時に。
あなたが余命宣告を受けていたなんてね……。
ごめんなさい、ずっと一緒にいてあげるって思っていたのに、そんな大事な場面に立ち会えなかった……。
その時の私は、余命宣告を受けていた、なんて知らなかったけれど、
あなたの心に、"隙間"ができているのがわかったの。
今しかない。
そう思った私は、あなたに声を掛けたのよ。
嬉しかった。あなたと久しぶりに話せて。
嬉しすぎて涙が出そうだったわ。
それと同時に、悲しかった。
あなたが余命を宣告されているのを知って。
もう長くないことを、知って。
だから、私は決めたわ。
私はあなたとの"約束"を果たそうと。
それで、何があったのか、全てを話そうと。
―――――――――
「じゃあ、あなたは、僕の、お母さん、?」
「ええ、そうよ。驚いた?」
少し照れたように笑う。
だから知っていたのか。僕のことを。
僕が何が好きで、何が嫌いで。
何を思っていて、何を考えていたのかを。
「それじゃあ、どうして凪なんて仮名を?」
「仮名じゃないわよ。私の旧姓なの。だってつまらないでしょう?最初から私の正体を明かしてしまったら。」
なんだそれ。でも、母さんらしいと思った。ばあばから聞いていた、母さんの性格と一致していたからだ。いつもおちゃらけていて、ふわふわとしていて。でも、誰よりも優しい。
「じゃあ、もし僕が、知らない人だからと行って相手にしなかったら、どうしてたの?」
「それないわ。だってあなたはあの人と似て、優しいからね。」
全てお見通しか。
「じゃあ、ずっと見ていてくれたんだね、僕のことを」
「当たり前でしょう?だって私は、あなたの母親だもの。」
そう言って凪……いや、母さんは、僕を抱きしめる。まるで赤子を抱くように、大切なものを抱えるように、優しい手つきだった。
あぁ、覚えてる。この感覚。母さんはいつも、こうやって抱きしめてくれた。
どんなに怖かったときも、不安だったときも。
すごく安心したのを、覚えている。
過去の記憶がフラッシュバックする。
この人は、僕の母さんなんだ。
たとえ幽霊でも、紛れもない、本物なんだ。
自然と涙が溢れる。
「母さん……!ずっと、ずっと、会いたかったよぉ……!」
「ごめんね、不安だったよね、辛かったよね。ひとりにしてごめんね。こんな母親で、ごめんね……」
「ちがう、ちがうよ、母さんは立派だよ。父さんを失った時も、僕に悲しい顔は決して見せなかった。不器用ながらも僕も一緒にいてくれた、僕の大切な、たった1人の母さんだよ……!」
「ありがとう、ありがとう、薫……。」
僕は久しぶりに、母さんの胸の中で泣いた。
涙が枯れるまで。
僕が泣き止むまで、母さんは静かに、僕の頭を撫でていてくれた。
――――――――――
「それじゃあ、母さんの未練は、僕との約束を果たすっていうことだったの?」
母さんと2人で海を眺めながら、問いかける。
「ええ、その通りよ」
「それじゃあ、母さんの未練は、もうないの?」
「無いって言ったら嘘になるけれど、、。そうね、もう満足よ。あなたに会えたんだもの。それだけで十分」
「じゃあ、もう成仏してしまうの?」
「ええ。その通りよ。もう行かなくちゃ」
そういうと、母さんの足元が光りだす。とても優しい光だ。暖かくて、包み込むような。
「もっと一緒にいたいなんて、我が儘言っちゃダメよ?こうして一緒にいること自体、奇跡なんだから。」
わかってる。わかってるけど。
やっぱり、もっと一緒にいたい、離れたく無い。
しかし、それは口にはしない。なぜなら、母さんもそう思ってるだろうから。そんなこと、口にしなくてもわかるだろうから。
「薫。あなたに言っておかなければならないことがあるの。」
「うん、なんでも言って」
「薫……あなたはこれから先、そんなに長くは生きられない。それが、この世界の理――あなたの運命。
……それでもね、私は悲しくなんてないの。
だって、あなたはそれを知ってなお、
誰よりも“生きよう”としてくれたから。
笑って、泣いて、怒って、愛して、
そんなふうに、命を全部抱きしめてくれる子に育ってくれたから。」
一つ一つ噛み締めるように、母さんは言葉を紡ぐ。
「あなたは言ってたわね。これからの3年間を、どう過ごそうか悩んでいると。だから、私からのお願い。」
母さんはにっこり笑って、僕に言う。
「現界にはね、私と同じように“想い”を遺したまま、
行き場を失って彷徨っている人たちがいるの。
大切な人に言えなかった言葉。
抱きしめられなかった手。
伝えられなかった「ありがとう」や「ごめんね」。
その全部が、心に刺さったまま、
あの人たちを“この世”に繋ぎ止めてる。
私みたいに、もう一度だけでいいから、
大切な人に想いを伝えたいって……そう願ってる。
薫。
あなたは――きっと、誰よりもその痛みに寄り添える子。
だから、もしこの先、
あなたの前に、そういう人が現れたら……
その手を取ってあげてほしいの。
その人の涙を、ちゃんと受け止めて。
未練を断ち切って、“次”へと送り出してあげて。
それがきっと、
この世界にあなたが生まれてきた、もう一つの意味。
……お願いね、薫。
あなたの“残された時間”が、
誰かの“未来を繋ぐ時間”になりますように。」
そう言って、母さんは光に包まれる。
「大丈夫だよ。またきっと会える。それが今世じゃなくても、必ず、どこかで。」
そう言って見送る。
「ふふっ、愛してるわ、薫ーーーー」
そう言って、母さんは光と共に消えてしまった。
触れた温もりも、声の余韻も、
まるで夢みたいに薄れていく。
これでよかったのだろうか。
母さんは、ちゃんと成仏できただろうか。
……いや、考えていてもしょうがないな。
そうして彼は歩きだす。
涙が頬を伝っても、歩みは止めなかった。
胸の奥に遺された声が、彼の背を押していた。
母の想いを背負って、彼は歩き出す。
残り少ない自分の時間を、誰かのために使うため。
2020年4月10日
「こんなところかな」
パタンとノートを閉じる。
これは、いわゆる記録帳である。
限られた時間のなかで出会った、“この世に取り残された人たち”の、“終わり”と“再生”の記憶。
そして──
自分自身が、誰かを想い、生きたという、証。
彼は立ち上がる。
また誰かの灯火を、見つけるために。
「ご飯よー、降りてきなさーい」
ばあばの声が聞こえる。
「はーい」
そう返事をして、部屋を後にするのだった。
今回はとても長くなってしまいました……。
でも、この物語の根底に関わる重要な話だったので、
どうか許してください……。
これからは、1日に1、2話のペースで書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします!