初恋が溶けた黒い汁
※不快感を与える恐れのある描写が含まれています
好きなあの子を食べましょう。
ヒグラシの鳴く夕暮れ時に出会ったその言葉が、どういう訳か頭から離れなかった。
それは数日前、いつも通り自我すらも失いかけて退勤していた時の事だった。今までただ普通に通過していた帰り道に、ふと違和感を覚えた。
その違和感の正体が掴めずに、私はその場で暫く立ち尽くしていた。
見覚えの無い建物があると言うには少し私の記憶に疑わしい部分がある。それが更に困惑を加速させた。以前からあったと言われればそんな気もするし、以前は無かったと言われればやはりそうだと確信を得るだろう。
とにかく、私はいつもの街並みにその建物が馴染んでいる様を見て妙な引っ掛かりを感じたのだ。
その建物の入り口には暖簾があり、側には古い幟旗がある。
遠目で見ても老舗の店であると分かる出で立ちの建物を眺めていると、次第に吸い込まれるかのように体が勝手に歩き出した。
そして近付きよく見た幟旗に書かれていた商売文句が例の『好きなあの子を食べましょう』という一文だったのだ。
まるで意味の分からないその言葉に正気を取り戻した私は、その店をいかがわしい場所であると解釈してその場を後にした。
連日の疲れからか、そういう気持ちは薄れている。加えて珍しく定時で帰れたのだから別の事に時間を使いたかったのだ。
そんなことを思って立ち去った割に、どうやら私はまんまと魅入られてしまったらしい。
繰り返し、繰り返し。思考に隙間が出来れば囁くかのようにあの言葉が蘇る。
焦燥、疑念、好奇心。そして性欲とノスタルジー。どうにかなってしまいそうだった。
グルグルと押しては寄せる妄想と回想、そして記憶の混濁。その渦中で私はあの店へ行く決意を固めた。久しく感じていなかった感覚へ期待を寄せると同時に、気持ちを鎮めたかったのだ。
その日の夕暮れ時、強引に定時で上がった私は肋骨を叩きつける心臓に突き動かされながら例の店を目指し歩いた。
数日経って改めて見るその店は、相変わらず違和感があった。
さながら興味の無いアンティークショップにでも入ろうとしているかのようで、やっぱり帰ってしまおうかとも思ってしまう。
しかし瞬時に気を持ち直し入店すると、これまた奇妙な店内が目に入った。
少し遠くには小料理屋のカウンター席らしき物。すぐ目の前には骨董品が並べられた机の数々。
暗く深い色合いの内装からは、先程まさに感じたようなアンティークショップらしさが醸し出されていた。
思っていたのと違った。それでも入ってすぐ出て行くのも失礼かと思い後頭部を撫でつつ背を曲げて骨董品の数々を眺める。
私には価値の分からないそれらを一つ一つ確認していると、カウンター席の向こうから声を掛けられた。
その声は小さく言葉は難解で、何を言っているのか分からなかった。しかし何を言われたのかは分かる。席への案内だ。言われるがまま恐る恐る席に座ると、その時点で初めて他の客が居る事に気が付いた。それも満席だ。皆他の客には目もくれず、魂でも抜かれたかのように熱心にラーメンを啜り食べていた。
ここはラーメン屋だったのかと他の客の食べている物をこっそりと確認する。
澄んだスープにメンマ、海苔、卵に二枚のチャーシュー。オーソドックスを地で往く、食堂で出されるような癖の無い古めかしいラーメンだった。しかしそれ故に、怪しい物を出している店ではないという安心感がある。
カウンターの向こうの何者かが再び私に声をかける。今度は注文をしてほしいらしい。
想像とは違う店だったが、仕事終わりでタイミング良く空腹だった私は素直に醤油ラーメンを注文し、一休みでもしようと背もたれに身を預けた。
が、その瞬間カウンターの奥から長い手が伸び私の頭を掴んだ。そしてどこからか写真大の紙を一枚取ってその手は戻って行った。
一体何をしたのだ。何か取られたのかと確認するも、そもそもあんな大きさの紙は持っていなかった筈だ。
一応鞄の中も確認し何も取られていない事に安心した私は、何故か異様に長い腕の事には何の疑問も持たずに再び背もたれに身を預けた。
やがて数分が経ち、先程の長い腕が湯気の立つ丼を両手で持って現れた。それと同時に、全て食べられる素材で作ってあるというよく分からない説明を受けた。
そりゃラーメンなんだから丼に入ってる物は何だって食べられるだろうと思いつつ割り箸を割り目の前に置かれた丼を覗き込むと、変な物が入っていた。
今なら分かるが、あの時明らかに脳が理解を拒んでいた。それ故に"見慣れないトッピング"がどのような形をしていたのか一目で判別できなかったのだろう。
閉じた目を擦り、もう一度開く。徐々に解像度が上がってゆく視界の中心にそのトッピングを据えて暫し目を凝らしていると、次第に受け入れがたい光景が浮かんできた。
とてもリアルな、人を模した何かがスープに浸かっているのだ。箸で触れてみると皮膚や肉の奥にある骨の感触までもが細かく再現されているのが分かる。
本物の人間が小さくなってラーメンを風呂にしているようだと私は思った。帰りに銭湯にでも行こうか、などと考えた覚えがある。動揺していたのだろう。目の前に置かれた食べ物について、正常な感想を抱けずにいたのだ。
それもその筈。その"トッピング"は、どういう訳か私の初恋の人物の姿をしていた。
取り乱しかけている事に気が付いた私はグッと強く瞼を閉じ、平静を取り戻すように箸を置いて指先で軽く目を押さえた。
自分は今幟旗に書いてあった通りのサービスを受けている。だがまさかこういう意味だとは思わないだろう。
深くため息をついて、店側としては客の要望に応えただけだと諦めにも似た感情を抱いた私は再び箸を手に取って麺を啜った。
正直、その時点で既に本心では"それ"を食べたいと、舌触りを確認したいと思ってしまっていた。理性が邪魔をしていたが。
度胸もなく覚悟も出来ないまま、私はただ時間をかけてラーメンのみを食べていた。
やがて澄んだスープに彼女だけが残っている状態になってようやく私は異変に気が付いた。彼女の体が先程と比べて明らかに小さくなっているのだ。
このままではスープに溶けて消えてしまうと焦った私は、理性を説得する間もなく慌てて彼女を口に含んだ。
舌触りは最悪だった。
スープへ溶けるのと同時に汁気を吸った彼女は骨までブヨブヨになってしまっていた。それに加えて輪郭もドロドロになりかけており、まるで餅を煮込んだかのような食感だった。
先程まであった理性は完全に崩れ去っていた。
私の心にある感情は落胆だけだった。『最初の方に食べていれば』。そんな後悔しか無かった。
焦燥、性欲、ノスタルジー。渦を巻く妄想と回想はさらに大きく燃え広がり、私を飲み込んだ。
そして不完全燃焼のまま代金を払った私は銭湯へ行こうと思った事も忘れて帰宅し、眠った。
人としての良識やこれまで積み上げてきた自分自身への信頼、価値観。その全てが崩れ去ったような気持ちだ。
でもそれでよかったのかもしれない。移り行く日常は変わらなかった。これまで通りの振る舞いを続ける限りは、きっとこれからも変わらないのだろう。
もう一度あの店へ行きたい。そう思って私は今日も明日も生きる。それだけの事なのだろう。
結局、あれ以降私はあの店へ一度も行けていない。どれだけ探しても見つからないのだ。
退勤の際に通る道にあった事は確かなのだが、微かに残る記憶を辿っても明らかにあの建物とは異なるただの住宅にしかたどり着けない。
きっと私には二度と機会が巡って来ない。その事を察しつつも、どうしても諦めることが出来ないでいる。
これは忠告ではなく、あくまでも"私が勧めているだけ”という気持ちで聞いてほしい。
もし君にその機会が巡ってきたら、一番最初に"あれ"を食べるといい。最初は尻込みするだろうが、後悔はしないだろう。