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最終話「雪解け、花が咲く」

 §


 水が流れるように歳月が過ぎ去っていった。


 それは王国にかつてないほどの安定と繁栄をもたらした輝かしい一時期であった。


 オレグの治世は後世の歴史家たちによって「賢帝と慈愛の王妃の時代」と称されることになる。


 若き日のオレグが、戴冠準備期間に摂政評議会で傍聴し学んだ国家予算や法案審議の知識は、彼の治世において公平かつ先見性のある政策の礎となった。


 かつて教育係から受けた外交儀礼、税制、軍制、宗教史の講義は、彼の判断に深みと広がりを与えた。


 軍務・治安研修の一環として国境の要塞や辺境伯領を巡回し、その目で軍備状況を把握した経験は、王国の防衛力を揺るぎないものとし、長きにわたる平和の実現に貢献した。


 小規模ながらも税収のある直轄領を任され歳入歳出を管理した行政実習は、国家財政の健全化と地方行政の効率化に繋がり、民の暮らしを豊かにした。


 上訴審に出席し判決草案を起草した経験は、彼の裁判における公正さを育み、法の下の平等を求める人々の心の拠り所となった。


 §


 オレグの側には、常にエリシュカがいた。


 いや、エリシュカの隣には常にオレグがいたというべきか。


 かつて「氷の公爵令嬢」と畏怖されたエリシュカ──しかしその合理の冷たい刃はいつしか慈愛の鞘に収められた。


 とはいっても、要所要所で刃が抜き放たれる事もあったのだが。


 それはまた別の話である。


 ともあれ、二人の治世はまさに賢明さと慈愛が両輪となって国を動かす、理想的な形であったと言えよう。


 §


 オレグとエリシュカの間に生まれた長男アレクセイは、両親の愛情と優れた教育を受けて立派な青年に成長していた。


 父オレグの公正さと誠実さ、母エリシュカの明晰な頭脳と深い洞察力を受け継いだ彼は、次期国王としての資質を十分に備えていた。


 まあそんな彼も悩みがなかったかといえばそうではない。


 幼い頃、アレクセイは母エリシュカの感情表現の乏しさに時折戸惑いを覚えることもあったのだ。


 母は自分を愛してくれていないのではないか、と幼心に不安を感じた夜もあった。


 しかしそんな時、父オレグはいつも優しくアレクセイを抱きしめ、語り聞かせた。


「母上はな、言葉にするのが少し苦手なだけなのだ。だが、お前のことを誰よりも深く愛している。それは私が保証する」と。


 エリシュカ自身もアレクセイや、後に生まれた孫たちとの触れ合いの中でゆっくりと、しかし確実に変わっていった。


 かつては計算されたものでなければ浮かべられなかった微笑みが、孫のたわいない仕草にごく自然に、そして心からの喜びと共に表れるようになった。


 硬かった表情は和らぎ、その瞳には常に優しい光が灯るようになった。


 オレグはエリシュカのその変化を誰よりも喜び、そして深く愛し続けた。


 そうしてさらに歳月が流れ──オレグとエリシュカは、穏やかな老境へと入っていった。


 豊かな白髪は賢帝としての威厳を、深く刻まれた皺は慈愛の王妃としての温かさを、それぞれ物語っている。


 息子アレクセイはすでに王位を継ぎ、父オレグと母エリシュカが築き上げた平和と繁栄をさらに発展させるべく、賢君として国を治めていた。


 エリシュカもいまや笑顔を絶やさぬお祖母ちゃんである。


 まあだからといって、彼女を知るものは決して王家に対して不敬を働いたりはしなかったが。


 §


 巡り巡る月日。


 穏やかで平和な日常が続き──。


 エリシュカの体力は徐々に衰え、床に伏せがちになる日が増えていった。


 病ではない。


 老いである。


 かつてはいくつかの指示、いくつかの仕込みで王国侵略を目論む敵対国家の策謀をひっくり返し、挙句の果てには同士討ちさせた恐るべき権謀術数も老いには勝てない。


 オレグは献身的に弱ったエリシュカを看病した。


 若い頃のように彼女の少し冷たい手を優しく握り、過ぎ去りし日々の思い出を語り合った。


 初めて会った学園のサロンでのこと。


 ぎこちない新婚生活。


 共に乗り越えた数々の試練。


 アレクセイが生まれた時の、あの言葉にできないほどの感動。


 そんな中、エリシュカはオレグの変わらぬ愛情に満たされながら、自分の命の灯火が、静かに消えようとしていることを悟っていた。


 §


 ある静かな午後だった。


 窓から差し込む柔らかな陽光が、寝室を穏やかに照らしている。


 エリシュカはベッドの上で静かに横になっていた。


(そろそろね)


 そう思うと、ふと寂しくなってしまったエリシュカはゆっくりと手を伸ばす。


「エリシュカは手を繋ぐのが好きだな」


 オレグがそう言ってエリシュカの手を握る。


(オレグ……)


 私はまだ元気です、と力の限りを握り返そうと試みるエリシュカだが。


 指は僅かに震えるばかりで、思うようには動いてくれない。


「オレグ……あなた……」


 声は、かろうじて出た。


 伝えたい言葉があった。


「わたくしは──若い頃から、愛というものが……わかり、ませんでした……」


 そうだ。


 エリシュカは公爵家の令嬢として、ただ義務と体面だけを胸に刻み生きてきた。


「公爵家の務め……王家の体面……そればかりを考えて……」


 隣でオレグが静かに首を振る気配がした。


 オレグの手がエリシュカの手を優しく、しかし強く握りしめてくれる。


 その温かさが、途切れそうな意識を繋ぎとめてくれているようだった。


「でもいま、こうしてあなたに手を握ってもらって、いると……この温かさが……嗚呼、これが、愛なのだ、と……よう、やく……ふ、ふふ、私は、()()し、て……」


 エリシュカの言葉はそこで途切れた。


 息を引き取ったのだ。


 オレグは涙を流すことなく、ただ穏やかな目でエリシュカの安らかな顔を見つめていた。


 長い間、人生を共にしてきた最愛の妻を見送る事が出来た満足感があった。


 そうしてオレグはエリシュカの手を握ったまま、ゆっくりと目を閉じる。


 §


 やがて夕餉の時刻が近づき、様子を見に来たのは息子であり現国王であるアレクセイだった。


 寝室の扉を静かに開け、ベッドに近づく。


 母エリシュカは安らかな顔で眠っているように見えた。


 父オレグは母の手を握ったまま、椅子に深く腰掛け目を閉じている。


「父上。母上のご様子は……」


 アレクセイが声をかけたが、オレグからの返事はなかった。


 アレクセイは一瞬息を呑み、父の肩にそっと手を触れた。


(これは)


 見れば、二人は手を繋いだまま、まるで同じ夢を見ているかのように静かに息絶えていた。


 アレクセイは一瞬、唇を強くかみしめる。


 ややあってぽつりと呟いた。


 誰に向けての言葉でもない。


 言ってみれば、事実の確認である。


「父上は母上を愛しておられたからな」


 アレクセイはしばしその場に佇んでいたが、やがて侍従を呼び、2人の崩御を静かに告げた。


 (了)


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