第6話「懐妊」
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戴冠式の熱狂が過ぎ去り、王宮に新たな秩序と日常が根付き始めた頃。
エリシュカ・イラ・イブラヒム王妃の身体に僅かな、しかし無視できぬ変化が現れ始めた。
それは、朝の目覚めの悪さ。
そして、特定の匂いに対する不快感。
公務に支障をきたすほどではなかったが、彼女の完璧に調整された日常のリズムを微かに狂わせるには十分だった。
エリシュカは自身の体調の変化を冷静に分析し、一つの可能性に行き着く。
侍医を呼び、診察を受けた結果は彼女の予測通りであった。
懐妊。
王国の次代を担う、新たな命の兆候。
侍医が喜びと共にその事実を告げた時もエリシュカの表情は常と変わらなかったが──しかしその胸の内には、経験したことのない複雑な感情が渦巻いていたのである。
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王妃懐妊の報は瞬く間に王宮を駆け巡り、多くの者に大きな喜びを以て迎えられた。
国王オレグはその知らせを聞いた瞬間、執務室の椅子から思わず立ち上がり、言葉にならない感嘆の声を漏らしたという。
「……エリシュカが、母に……私が、父に……」
彼はすぐにエリシュカの元へと駆けつけ、その手を強く握りしめた。
「エリシュカ! なんということだ……! 本当に、本当に……!」
もちろんイブラヒム公爵家にもこの吉報は届けられた。
父であるオスカー公爵は娘の懐妊を知るや否や、感極まって執務室で号泣したと伝え聞く。
そしてすぐさま王宮へ駆けつけ、エリシュカの顔を見るなり男泣きに泣いた。
「エリー! よくやった、よくやったぞ!」
王家も公爵家もそして王国の民草も、次期王位継承者の誕生に沸き立っていた。
しかしその喧騒の中心にいるエリシュカ自身は、周囲の熱狂とは裏腹に戸惑いを抱えていた。
母親になる。
それは彼女の人生設計において、当然組み込まれていた事象の一つではあった。
王妃としての責務。
血を繋ぐということの重要性。
頭では理解している。
だが自分の身体の中で、自分とは異なるもう一つの命が育まれているという事実は、彼女の合理的な思考を超えた計り知れない不安を呼び起こした。
そして、それ以上に彼女を悩ませたのは「愛」という感情への根源的な問いだった。
自分はこのまだ見ぬ我が子を愛することができるのだろうか。
愛とは一体何なのだろうか。
夫であるオレグに対して抱いている感情も、それが愛なのかどうか彼女にはまだ確信が持てない。
いかなる書物も、いかなる口伝もそれぞれ異なる愛の形を示すのだ。
中にはエリシュカをして悍ましいと思わしめる愛の形もあった。
エリシュカはそれが怖い。
自分にとっての「愛」が“そういうモノ”であった場合、どうすればよいと言うのか。
通常、このような悩みを抱く者は少ないだろう。
頭でっかちのエリシュカだからこその悩みと言えるだろう。
ともあれ、そんな漠然とした不安が、鉛のように彼女の心に重くのしかかっていたのである。
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一方、オレグは父になるという喜びに満たされていた。
この手で新しい命を抱き上げる日が来る──その想像だけで心は高揚した。
もちろん浮かれているばかりではなく、エリシュカの体調の配慮することは忘れていない。
ただ、体調とは別にオレグはエリシュカの様子に引っかかるものがあった。
──エリシュカは体調は良い日はいつも通りだ。冷静沈着に王妃としての務めを果たしている。だが……
エリシュカの時折見せる遠くを見るような眼差しや、ふとした瞬間の表情の翳りに、オレグは彼女が何かを内に抱えていることを感じ取っていた。
「エリシュカ、体調はどうだ? 何か辛いことはないか?」
オレグは執務の合間を縫ってはエリシュカの元を訪れ、彼女を気遣った。
「……大丈夫です、陛下。ご心配には及びません」
エリシュカはいつもそう答える。
だがその声にはどこか張り詰めたものが感じられた。
──余計な事はしない、言わない方が良いのだろうが
その辺は理屈ではわかっているが、しかし何かしたい。
何かできる事はないかと思ってしまう。
オレグにはエリシュカが抱える不安が何であるのかまだ具体的には分からなかったが、ただ彼女の側にいて、彼女を守りたいという強い想いが芽生えていた。
それは王としての責務とは異なる、夫としての、そして間もなく父となる男としての感情であった。
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やがてエリシュカを本格的なつわりが襲った。
常に冷静さを失わなかった彼女が、食事の匂いだけで顔をしかめ、時には侍女の手を借りて寝室に戻らなければならないこともあった。
それでも、エリシュカは弱音一つ吐かなかった。
公務にも極力穴を開けまいと努め、体調の悪さを周囲に悟られぬよう細心の注意を払っていた。
だが、オレグの目をごまかすことはできない。
エリシュカの顔色の僅かな変化や、食欲のなさ、そして何よりも彼女が時折見せる、耐え忍ぶような表情に心を痛めていた。
「エリシュカ、無理はするな。少し休んだ方がいい」
オレグはそう言って彼女を気遣う。
時には彼女の好むであろう果物や、匂いの少ないスープなどを自ら用意して運んでくることもあった。
エリシュカはそんなオレグの気遣いを最初は戸惑いと共に受け止めていた。
王のやる事ではないからだ。
それにエリシュカには専門の宮廷医がついており、オレグがわざわざそんな事をする必要などない。
──陛下にこのような雑事をさせてはならない
そう思う一方でオレグの不器用な優しさが張り詰めた心を少しずつ解きほぐしていくのを感じていた。
特に夜、なかなか寝付けない時、オレグが黙って彼女をさすってくれることがあった。
その手の温かさと規則正しいリズムが、不思議と不快感を和らげ、かろうじて眠りにつくことができたりする。
そのような時、エリシュカは自分が一人ではないという感覚を覚えた。
家族以外でその様な思いを抱くのは初めての事である。
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そんなある日、外交任務で隣国に赴いていたシイナ・イラ・カリステが、一時帰国した。
彼女はエリシュカの懐妊と体調のすぐれない様子を伝え聞き、公務の合間を縫って王妃の私室を訪れたのである。
「エリシュカ様、ご懐妊おめでとうございます! そして、お加減が優れないとのこと、お見舞い申し上げます」
シイナは以前と変わらぬ屈託のない笑顔でエリシュカに挨拶した。
エリシュカはシイナの来訪を意外に思いながらも、彼女を招き入れた。
シイナはエリシュカの顔色を注意深く観察しながら、手土産として持参したハーブティーを侍女に淹れさせる。
「これは、つわりに効くと言われているハーブをブレンドしたものです。わたくしの知る“知識”によりますと、ですが」
シイナは悪戯っぽく片目をつぶった。
エリシュカはそのハーブティーの穏やかな香りに、少しだけ気分が和らぐのを感じた。
「ありがとう、シイナ。……あなたの“知識”には、いつも助けられるわね」
エリシュカの言葉には以前にはなかったような、わずかな親しみが込められていた。
シイナはエリシュカのその変化を敏感に感じ取り、嬉しそうに微笑んだ。
「それで、エリシュカ様。……何か、お悩みでもおありなのではなくて?」
シイナは単刀直入に切り出した。
彼女の“視る”力は、エリシュカが言葉にしない不安や葛藤を、おぼろげながらも感じ取っていたのかもしれない。
エリシュカは一瞬躊躇したが、やがてぽつりぽつりと自分の胸の内にある不安をシイナに語り始めた。
母親になることへの戸惑い。
愛という感情への理解の欠如。
そして自分が良い母親になれるのかという、漠然とした恐怖。
シイナはエリシュカの言葉を静かに、そして真剣に聞いていた。
エリシュカが全てを語り終えると、シイナは優しく微笑んで言った。
「母親になるという事も愛も──最初から完璧に理解できる人なんて、そうそういないと思います」
シイナは自分の前世の記憶や、そこで得た様々な「知識」を交えながら、エリシュカに語りかけた。
どれもこれもがふわっとした感覚的な話ではある。
何かの文献に基づいた知識ではなく、根拠はない。
しかしエリシュカはシイナの話す事に何というか、「納得感」を覚えて、心がわずかに軽くなった。
まあ種もあれば仕掛けもあるのだが。
要するに、視たのだ。
かつてはその行使にあたってエリシュカに目ざとく察知された読心の異能だが、いまやシイナはいくつかの外交的修羅場を経験し、その能力に磨きをかけている。
エリシュカを以てして、いつどこで何が読まれているのかを察知させないほどに。
やがて彼女は新王の元で女性としては初となる外務大臣となるが、それはまた別の話だ。
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予定日が近づき、王宮全体が新たな命の誕生を待ちわびる空気に包まれた。
そして、ある嵐の夜。
エリシュカに陣痛が訪れた。
産室には侍医や熟練の産婆たちが慌ただしく立ち働き、オレグは落ち着かない様子で産室の前を何度も往復していた。
長い、長い時間が過ぎていく。
エリシュカの苦しげな息遣いと、侍医たちの励ます声が時折扉の向こうから漏れ聞こえてくる。
オレグはただ祈るような気持ちで、その時を待った。
夜が明け、嵐が嘘のように過ぎ去った早朝。
産室の扉が開き、疲れ切った表情の侍医が姿を現した。
そしてオレグに向かって深々と頭を下げた。
「陛下……おめでとうございます! 王子様でございます! 母子ともにお健やかでございます!」
その言葉を聞いた瞬間、オレグの目から熱いものが止めどなく溢れ出た。
よろめくように産室に入り、侍女に抱かれた小さな赤子と、ベッドの上でぐったりとしながらも穏やかな表情を浮かべているエリシュカの姿を見る。
「エリシュカ……! よく、頑張ってくれた……!」
オレグはエリシュカの手を握り、その額に感謝の口づけを落とした。
エリシュカは弱々しくも、オレグに微笑み返した。
やがて産着に包まれた赤子が、エリシュカの腕にそっと手渡される。
そうしてエリシュカは、初めて自分の子を腕に抱いた。
想像していたよりもずっと小さく、そして温かいずっしりとした命の重み。
赤子はエリシュカの腕の中で安心しきったようにすやすやと眠っている。
エリシュカはその小さな顔を言葉もなく見つめていた。
胸の奥からは今まで感じたことのない温かくて柔らかい感情が、泉のように湧き上がってくる。
喜びとも安堵とも、あるいは畏敬ともつかない、名状し難い感情の奔流だった。
この小さな命は、自分の中から生まれてきたのだ。
その事実がエリシュカの心を強く揺さぶった。
長男はアレクセイと名付けられた。
未来の国王となるべき、希望の光。
オレグはアレクセイを抱き上げ、その小さな頬に何度もキスをした。
その光景を静かに見つめるエリシュカ。
言葉にできない感情が心を優しく満たしていく。
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アレクセイの誕生は王宮に新たな日常をもたらした。
基本的には喜びに満ちた日常だが──しかし少なからぬ混乱も伴うものだった。
王侯貴族の慣習として、乳母が養育の大部分を担うのが通例である。
事実、アレクセイのためにも優秀な乳母が何人も選定され、万全の体制が整えられていた。
しかしエリシュカは可能な限り自分の手でアレクセイの世話をしようと努めた。
それは、彼女の合理性と徹底主義の表れでもある。
次期国王たるアレクセイの養育は、王妃としての最重要責務の一つ。
他人の手に完全に委ねることで、万が一にも自身の意図しない影響が及ぶことをエリシュカは許容できなかったのだ。
彼女は乳母たちから授乳や沐浴、寝かしつけといった日々の世話のやり方を学び、自らも積極的に関わった。
オレグもまたエリシュカの方針を支持し、積極的に子育てに参加した。
国王としての激務の合間を縫ってはアレクセイの元へ駆けつけ、不器用ながらも愛情深く世話を焼いた。
彼にとってエリシュカと共にアレクセイを育てることはただの義務ではなく、純粋な喜びであり、そして、エリシュカとの間に新しい「家族」の形を築き上げていくための大切な営みだったからだ。
余談だが夜泣きは、新米の父母であるオレグとエリシュカにとって大きな試練となった。
アレクセイは夜になると決まって甲高い声で泣き出し、なかなか泣き止まない。
オレグはエリシュカを気遣い、率先して夜中に何度も起きてアレクセイをあやした。
この辺も本来は乳母が対応するのだが、完全に乳母任せにするといった事はしなかった。
抱き上げて部屋を歩き回ったり、お世辞にも上手いとは言えない子守唄を歌ってみたり。
その結果、オレグは慢性的な寝不足に陥ってしまったが、それでも文句一つ言わなかった。
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ある日の午後。
エリシュカはアレクセイを腕に抱きながら、窓辺の椅子に腰掛けていた。
アレクセイは腕の中で心地よさそうに眠っている。
エリシュカは思わずその小さな頬にそっと指で触れた。
その時、眠っていたはずのアレクセイが小さな手を伸ばし、エリシュカの指をぎゅっと握った。
それは本当に小さなか弱い力だった。
しかしその瞬間、エリシュカの心臓がドクンと大きく高鳴った。
自分の指を握る、我が子の小さな手。
エリシュカは思う。
──愛は見えない。触れもしない……ただ、もしこの手に触れる事ができたなら
あるいはこの様な温かいものなのかもしれない、と。