第5話「戴冠」
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王国の偉大なる太陽が沈んだ。
国王陛下崩御の報は王国中を瞬く間に駆け巡った。
オレグはその知らせを父王の寝室の扉の前で聞いた。
(覚悟はしていたが)
深い悲しみが暴風となって心を荒れ狂わせる。
しかしそれを表に出す事はなかった──少なくとも、今この場では。
国王陛下の崩御はすなわち王太子の即位を意味する。
この瞬間から、彼はこの王国の最高責任者であり、民草の運命をその双肩に担う存在となるのだ。
オレグは固く拳を握りしめ、溢れそうになる涙を意志の力で押しとどめた。
その時、ふわりと彼の隣に静かな気配が寄り添った。
エリシュカである。
彼の妻であり、そして間もなく王妃となる女性。
エリシュカは何も言わなかったが、オレグの指にそっと触れた。
(冷え性なのだな)
こんな時なのに、そんな場違いな事が頭をよぎる。
途端、不思議とオレグの心の激流は鎮まっていった。
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国王崩御から戴冠式までの日々は、嵐のように過ぎ去っていった。
国葬の準備と執行。
摂政評議会との協議。
諸外国への使節派遣。
そして新王としての最初の政務。
オレグはかつて戴冠準備期間に叩き込まれた知識と経験を総動員して、これらの難局に立ち向かった。
摂政評議会への陪席で学んだ国家予算の審議、外交儀礼、税制、軍制、宗教史。
国境視察で目の当たりにした軍備の現状。
地方統治の代行で培った歳入歳出の管理能力。
裁判長の代理として起草した判決草案。
それら一つ一つの経験が、今の彼を支える血肉となっている。
エリシュカは多くを語らず、オレグを助け続けた。
オレグが困難な判断を迫られた際には、的確な情報と冷静な分析を提示する。
(もしエリシュカがいなければ私は駄目になっていただろう)
オレグの偽らざる心境であった。
そうして一日、また一日と過ぎゆき──
戴冠式当日。
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王都の大聖堂は、早朝から集まった民衆の熱気に包まれていた。
貴族、聖職者、平民、身分を問わず、多くの人々が新王の誕生をその目で見届けようと、息を詰めてその瞬間を待っている。
大聖堂の重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
先導する聖職者たちに続き、深紅のベルベットのマントを身に纏ったオレグがエリシュカを伴って姿を現した。
エリシュカは純白のドレスに、イブラヒム公爵家に伝わるサファイアの宝飾品を身に着けている。
オレグの精悍さとエリシュカの美しさに民衆の間から、どよめきと歓声が沸き起こった。
「オレグ陛下、万歳!」
「エリシュカ妃殿下、万歳!」
その声は波のように広がり、大聖堂全体を揺るがすかのようだった。
オレグはゆっくりと祭壇へと進み、大司教の前に跪く。
古式に則った儀式が、厳かに執り行われていった。
聖油を塗られ、神聖な祈りの言葉が捧げられる。
やがて大司教が歴代国王に受け継がれてきた王笏と宝珠をオレグに授け、そしてついに、黄金に輝く王冠がオレグの頭上に置かれた。
オレグは立ち上がり、民衆に向き直る。
「シュタウフェンベルク朝、国王オレグは神と始祖の名において誓う!」
「我が命ある限り、この国の法と正義を守り、国民の幸福と繁栄のために尽くすことを!」
再び、割れんばかりの歓声が巻き起こる。
熱狂的な祝福の嵐の中で、オレグはそっと隣に立つエリシュカを見た。
相変わらずの無表情──しかし、それなりに長くエリシュカを見てきたオレグには、エリシュカが何も感じていない、考えていない訳ではない事がよくわかっている。
(君の目には、今の私はどう映っているのだろうな)
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エリシュカはオレグの成長を誰よりも間近で見てきた。
かつて学園のサロンで婚約破棄を告げた未熟な王子は、今や一国を背負う王としての風格を身に着けつつある。
その変化は彼女にとっても感慨深いものであった。
そしてその変化の一端を自分が担えたことに、エリシュカは密かな充足感を覚えていた。
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戴冠式の喧騒がようやく収まり、夜の帳が王宮を包み込んだ頃。
オレグとエリシュカは、王の私室で二人きりの時間を過ごしていた。
窓の外には、祝賀の花火が時折夜空を彩っている。
オレグは一日の緊張から解放され、リラックスした様子でエリシュカへ話しかけた。
「……疲れただろう、エリシュカ」
オレグは暖炉の前に置かれた長椅子に腰を下ろしながら、エリシュカに声をかけた。
「いいえ、陛下こそ。お疲れ様でございました」
エリシュカはほんの僅かに微笑み、オレグの隣に腰を下ろす。
「エリシュカ。……今日は、ありがとう。君が隣にいてくれたから、私は最後まで務めを果たすことができた」
「陛下のお力になれたのであれば、それ以上の喜びはございません」
エリシュカはそう答えながら、オレグの顔をじっと見つめる。
オレグもエリシュカを見つめ返す。
(これは……まさか)
オレグが何かある種の覚悟を決めて、エリシュカの腰に腕を回そうとしたその時。
エリシュカがふと何かを思い出したように、口を開いた。
「陛下。……一つ、ご報告しなければならないことがございます」
「何だ?」
「マルレーン伯爵の残党の件でございますが」
オレグの表情が、わずかに引き締まる。
「ああ……彼らはどうなった? まだ不穏な動きを見せているのか?」
「いいえ。……彼らを“処理”するのではなく、取り込むことに成功いたしました。随分と返答を保留しておりましたが、陛下の戴冠式を見て考えを決めたようですね。それに、陛下自ら彼らと対話の機会を持った事も大きかったのかと」
エリシュカの言葉に、オレグは安堵の息を漏らした。
マルレーン伯爵の死後、その残党たちは新たな火種となりかねない存在だった。
エリシュカは当初、彼らを徹底的に排除することも考えていた。
以前の彼女ならば、躊躇なくそうしただろう。
「陛下の器量が彼らの心を変えたのでしょう」
エリシュカは続ける。
「彼らは新しい王がただ力で支配するのではなく、対話と理解を重んじる方であると知った。だからこそ剣を収め、忠誠を誓うことを選んだのだとおもいます」
オレグは、エリシュカの手をそっと握った。
彼女の手は、やはり少し冷たい。
だがそれでよいのだ、とオレグは思う。
冷たいのならば、自分が暖めようと──なんとなくそう思った。
「エリシュカ」
オレグはエリシュカの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「私は、君と共にこの国を治めていきたい。君の知恵と力を、私に貸してほしい。そして……これからも、私の隣にいてほしい」
これは国王ではなく、オレグとしての言葉である。
エリシュカはオレグの手をそっと握り返した。
彼女の胸の内には様々な感情が渦巻いていた。
まだ名前のつけられない、温かくて力強い何か。
これが愛なのだろうか、と思わなくもないがやはりまだ分からない。
ただなんとなく、それが尊いものだと思った。
エリシュカはゆっくりと口を開く。
「……はい、陛下。わたくしはいついかなる時も陛下の剣となり、盾となり、そして最も信頼できる者としてお側にいたいとおもいます。この命ある限り、陛下と共に」
それがこの時のエリシュカの──愛という言葉をまだ完全には理解しきれていない彼女にとっての最大限の誓いの言葉だった。