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第4話「告白」

§


 北の荒野での数週間はオレグ・アレクサンドル・フォン・シュタウフェンベルクという青年を確実に変えていた。


 王都の喧騒から遠く離れた辺境の地。


 書物で学ぶ知識だけでは決して得られぬ厳しい現実と、そこに生きる人々の息遣い。


 吹きすさぶ風の冷たさ、痩せた土地の厳しさ、そして何よりも、王国の盾とならんとする兵士たちの飾り気のない忠誠心。


 それら全てがオレグの心に深く刻み込まれ、彼を精神的に成長させた。


 そして王都への帰還。


 帰還後のオレグの纏う雰囲気は、出発前とはどこか異なっていた。


 顔つきは精悍さを増し、浮ついた雰囲気はそぎ落とされている。


 彼を出迎えたエリシュカはその変化を敏感に感じ取っていた。


 王太子妃としての公務を終え私室に戻ったエリシュカの元へ、オレグが訪れたのはその日の夕刻のことだった。


「……エリシュカ、今は話せるか?」


 エリシュカは静かに立ち上がり、夫を迎えた。


「はい、大丈夫です。それで話とは? 


「ああ。……その、エリシュカ」


 オレグは少し言い淀みながらも、言葉を続ける。


「今回の視察、君からの手紙が……その、励みになった。……感謝する」


「感謝、ですか……殿下のお役に立てたのでしたら、何よりでございます」


 彼女が返したのはやはり模範的な、感情の読めぬ言葉。


 だがオレグはもはやそれで気を悪くするようなことはなかった。


 彼はエリシュカの言葉の裏にあるものを探ろうとするのではなく、ただ、彼女の存在そのものに意識を向け始めている。


 この数週間の文通が、目に見えぬ細い糸のように二人を繋ぎ始めていたのかもしれない。


 §


 オレグの帰還は、王宮内に一時の安堵をもたらした。


 オレグの変わりようは明らかで、次期王の成長を喜ぶ者は多かった。


 しかしその水面下では、新たな不穏の種が静かに芽吹き始めている。


 マルレーン伯爵の残党だ。


 伯爵の死によって完全に沈黙したわけではなかった。


 ある者は恐怖から身を潜め、またある者はこれを好機と捉え、新たな権力争いの駒として動き出そうとしていたのだ。


 オレグとエリシュカという若い王太子夫妻の台頭を快く思わぬ古い貴族たちも、虎視眈々と彼らの失脚を狙っている。


 賢い王は要らぬ、というのがそういった者たちの総意である。


 そんな彼らはオレグの経験不足や、エリシュカの冷徹と評される性格を攻撃の材料とし、様々な噂や陰謀を宮廷内に流布させようと画策していた。


 謀略の淀んだ水が、じわじわと王宮全体に広がりつつあった。


 §


 エリシュカは、その不穏な空気を敏感に察知していた。


 彼女の情報網“耳”は、宮廷内の些細な噂話から、貴族たちの密談に至るまで、あらゆる情報を彼女の元へともたらす。


 マルレーン伯爵の残党が、新たな庇護者を求めて蠢いていること。


 一部の保守的な貴族たちが、オレグの政策案に対して執拗な反対工作を準備していること。


 以前の彼女であれば、これらの情報を元に独力で事を処理し、敵対勢力を排除、あるいは無力化していただろう。


 オレグに余計な心労をかける必要はない、と。


 しかし今のエリシュカの心には、わずかな変化が生じていた。


 オレグは成長した。


 そしてエリシュカに対し「もっと君の事を知りたい」と言った。


 それは、彼がエリシュカを単なる政略結婚の相手としてではなく、一人の人間として、そして共に歩むべきパートナーとして見始めている証ではないだろうか。


 良くも悪くも、エリシュカは相手の対応によって自分の対応を変える部分がある。


 オレグが“そういうつもり”であるなら、自分もそうでなければという思いがあった。


 ()に対しては容赦のかけらもないエリシュカではあるが、妙に律義な所もあるのだ。


 §


 その日の夜。


 エリシュカがオレグの私室の扉を叩くと、ややあって「入れ」という声がした。


 エリシュカが中に入ると、オレグは書見台に置かれた分厚い書物から顔を上げ、少し意外そうな表情で彼女を迎えた。


「エリシュカか。どうしたのだ、何か急ぎの用件か?」


「いいえ、殿下。急ぎではございません。ただ……殿下にお伝えしておかなければならない儀がございまして」


 エリシュカは静かにそう切り出した。


 その表情はいつものように落ち着いているが、その瞳の奥にわずかな緊張の色が宿っているのをオレグは見逃さなかった。


「……座ってくれ」


 オレグは書物を閉じ、エリシュカに椅子を勧める。


 エリシュカは軽く会釈して腰を下ろした。


 しばしの沈黙。


 エリシュカは言葉を選んでいるようだった。


 やがて意を決したように口を開く。


「殿下。……先日、急死なされたマルレーン伯爵の件でございますが」


 オレグの眉がわずかに動く。


「ああ、彼の死因は未だ不明だと聞いているが……それが何か?」


「……殿下がお留守の間に、わたくしが“処理”いたしました」


 エリシュカの声は淡々としていた。


 しかしその言葉の内容はオレグにとって衝撃的なものだった。


「処理……した、だと? エリシュカ、それは、一体どういう……」


 オレグの声には動揺が隠せない。


 エリシュカの言う「処理」が、ただならぬ事であると彼は直感的に理解した。


 エリシュカはオレグの視線を真っ直ぐに受け止めながら、続ける。


「マルレーン伯爵は殿下の度の国境視察に乗じ、殿下の暗殺を画策しておりました。わたくしはその情報を掴み、そして“処理”を実行いたしました」


「実行した」という言葉の冷たさに、オレグは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 暗殺計画。


 そしてエリシュカによるその首謀者の排除。


 それは貴族社会の裏側で時折起こりうる陰惨な出来事ではあったが、自分の妻が、それもこれほど直接的に関与していたという事実は、オレグに強い衝撃とそして複雑な感情を抱かせた。


 彼はしばし言葉を失い、エリシュカの顔を凝視する。


 彼女の表情は変わらない。


 まるで天気の話でもするかのように淡々と事実を述べている。


「……マルレーン伯爵が私の暗殺を画策していたという事について、もしその証拠などがあったならば、君が手を下さずとも王国法で彼は死刑となる。なのに君が露見の危険をおかしてでも手を汚したのはなぜだ?」


 オレグの声はかろうじて平静を保ってはいたが、その内には強い抵抗と、そしてどこか非難めいた響きが含まれていた。


 彼の中にはまだ理想主義的な、どこか青臭い部分が残っている。


 貴族同士の策謀による死は、この世界では決して珍しいことではない。


 だが、自分の妻であるエリシュカがそのような血腥い手段を冷徹に実行したという事実を、彼は簡単には受け入れられなかった。


 心のどこかでエリシュカはそうであってほしくない、という思いがあったのかもしれない。


 エリシュカはオレグの言葉を静かに聞いていた。


「仰る通りです。私も自分が取った手段について疑問に思わないでもありません」


 意外な言葉だった。


 エリシュカが自らの行動に疑問を抱くなど、オレグは想像もしていなかった。


「ですがこうも思うのです。もしマルレーン伯爵の策謀が単に殿下の失脚のみを狙ったものならば、私もあのような手段を取らなかったでしょう。ですが彼は殿下の抹殺を画策しておりました。策には策で、命には命で応じるのが私のやり方でございます。もう一つ理由をあげるとすれば、裁判の場ともなればそれは王国中の話題となります。殿下が戴冠するにあたって、臣下となる人物から暗殺者を差し向けられるような者だと噂されればそれは瑕となりましょう」


 エリシュカの言葉は冷徹な論理に裏打ちされていた。


 彼女の言うことには確かに一理ある。


 王太子の暗殺計画が公になれば、それは王家の威信に関わる。


 エリシュカはそれを避けるために、最も確実で、そして最も迅速な手段を選んだのだ。


 オレグは暫く何かを考えこむように黙り込んだ。


 エリシュカの論理は理解できる。


 しかしそれでも、彼の心の中の抵抗感が完全に消えたわけではなかった。


(だから、考えるのだ)


 そう、オレグは考える。


 自分の感情、自分の物差しだけではなく、他人の感情、他人の物差しを使って考える。


 やがてオレグは顔を上げ、絞り出すような声で言った。


「もし仮に君が同じ様に命を狙われたとしたら、と考えてみた。そうしたら──なんというか、君に対する抵抗というか、そういうものがなくなった」


 エリシュカはその言葉にわずかに目を見開いた。


 そしてすぐにいつもの無表情に戻り、静かに応じた。


「そうですか」


 と。


 オレグはエリシュカのその反応にもどかしさを感じながらも、さらに言葉を重ねた。


 個人的に一番気になっている部分でもある。


「もしかして……君は私の為に怒ってくれたのか?」


 エリシュカはオレグの問いにしばし沈黙した。


 そしてまるで遠い記憶を手繰り寄せるかのように、ゆっくりと答える。


「あの不快感を“怒る”と表現するのならば、そうかもしれません」


 その言葉はオレグの胸に深く染み入った。


 不快感。


 エリシュカは自分が命を狙われたことに対してそれを感じていたのだ。


 そしてその感情が、彼女をあの冷徹な行動へと駆り立てたのかもしれない。


 それは、オレグがこれまでエリシュカに抱いていたイメージとはかけ離れたものだった。


「そうか……わかった」


 オレグは深く息を吐き出した。


 心の中の抵抗感が、霧が晴れるように消えていくのを感じる。


「ただ、その……今後は、私にも相談してほしい。君が一人で全てを抱え込む必要はない。私も、君の力になりたいと思っている」


 それはオレグの偽らざる本心だった。


 エリシュカの能力を信頼していないわけではない。


 だが彼女が危険な橋を渡るのを、黙って見ていることはできなかった。


「それと最後に一つ聞かせてほしいのだが、なぜそれを私に話した? 何も言わなければ私の事だ、君が裏で何をしてようが気付かなかっただろう」


「私の事を知りたいと以前仰っておりましたので」


「そう、か……。そうだな」


 オレグは苦笑する。


「今後は何事も殿下に相談をしようと思っております。処理するかしないかはその時判断しようかと」


 処理とはつまり、そういう事なのだろう。


「あ、ああ……そうしてくれ……」


 オレグはエリシュカの貴族特有の冷たさにやや引いてしまうが、なぜかそれでもエリシュカが怖い、忌まわしいといった忌避感が湧きおこらないのだった。


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