第3話「王太子暗殺計画」
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王太子としての責務は学園のそれとは比較にならぬほど重く、そして実践的だ。
戴冠準備期間における第二段階は、「軍務・治安研修」。
その一環として、オレグは数週間にわたる国境視察へと赴くこととなった。
古い城壁が連なる北の国境線、峻険な山岳地帯に点在する要塞、そして荒涼とした大地を治める辺境伯の領地。
それらを巡回し、王国の盾たる軍備の現状をその目に焼き付けるのが目的である。
ちなみに王太子妃であるエリシュカは王宮における他の重要な政務、並びに王妃教育のさらなる深化のため、この度の視察には同行しないこととなっている。
オレグの出発を数日後に控えたある日の午後、エリシュカは自室で報告書に目を通していた。
それはイブラヒム公爵家が有する情報網、“耳”と呼ばれる間諜組織からもたらされた定期報告の一つ。
紙面を滑っていたエリシュカの目が、ふと、ある一点で停止した。
そこには、信じ難い、そして看過できぬ情報が記されていたのである。
「……なんですって?」
思わず、常の彼女からは考えられぬ様な驚愕を孕んだ声が漏れた。
報告書の一節──それは、度の国境視察の旅程に乗じる形で王太子オレグの暗殺を画策する動きがある、というものだった。
オレグはこの件に関して、露ほども知らされていない。
エリシュカは報告書を持つ手に、無意識のうちに力が籠もるのを感じた。
紙が、くしゃりと微かな音を立てる。
奇妙な感覚だった。
腹の底から、形容し難い不快感がせり上がってくる。
それは怒りというには冷たく、恐怖というには攻撃的な、どろりとした感情の塊。
オレグに対して、明確な愛を抱いているかと問われれば、エリシュカは即答できない。
彼への感情は、義務感であり、責任感であり、あるいは少しばかりの同情が混じった複雑なものだ。
だが、彼が死ぬかもしれない──その可能性を具体的に突きつけられた瞬間、エリシュカは自分でも驚くほどの強い不快感を覚えたのだ。
なぜ、これほどまでに心が乱されるのか。
夫だから? 王太子だから? それとも、最近ようやく少しだけ、ほんの少しだけ、理解し合えるようになったと感じ始めた相手だからだろうか。
分からない。
しかし、とにかく不快だった。
オレグが誰とも知れぬ輩の手によって命を奪われるという筋書きが、許し難いほどに。
エリシュカは一度深く息を吸い、そして静かに吐き出した。
感情を表に出すのは得策ではない。
特に、このような不穏な状況においては。
彼女は努めて冷静に、しかしその瞳の奥には氷のような光を宿して思考を巡らせ始めた。
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その日以来、エリシュカの纏う空気が微かに変化したことに、王宮の使用人や近習たちは敏感に気づき始めていた。
彼女は元より感情の起伏をあまり見せない女性であったが、ここ数日の彼女はまるで薄氷の上を歩くような、張り詰めた静けさを漂わせていたのだ。
「……王太子妃殿下、近頃何かご心痛な事でもおありなのでしょうか」
古参の侍女の一人が、同僚にそっと囁く。
「ええ、お顔の色も優れぬように見えるわ。いつもの怜悧な美しさにどこか影が差しているような……」
若い侍従たちはエリシュカとすれ違う際に、以前にも増して深く頭を垂れた。
彼女の視線が自分に向けられることを、本能的に恐れているかのように。
「妃殿下のあの眼差し……まるで全てを見透かされているようで、背筋が凍る思いがする」
「目をつけられぬ様にしなければ」
王宮内に仕える者たちは、エリシュカの微細な変化から得体の知れない不穏なものを感じ取り、ある者は警戒し、ある者は畏怖の念を抱き、またある者はただただ戦々恐々とするばかりであった。
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エリシュカの様子の変化は、当然ながら夫であるオレグの目にも明らかだった。
「……エリシュカ、どうしたのだ? 何か悩み事でもあるのか?」
夕食の席で、オレグは心配そうに声をかけた。
ここ最近のエリシュカは以前にも増して口数が少なく、時折遠くを見るような、考え事をしている表情を浮かべることが多くなった。
オレグの胸には「また自分が何か粗相をしてしまったのではないか」という不安がよぎる。
帳簿の計算を間違えたことだろうか。
それとも、先日提出した視察計画の草案に不備があったのだろうか。
エリシュカは、オレグの問いかけに、ふと我に返ったように顔を上げた。
「……いいえ、殿下。何もございませんわ。ただ、少し考え事をしていただけです」
そう答えるエリシュカの声は常と変わらぬ落ち着いたものだったが、オレグには、彼女が何かを隠しているように思えてならなかった。
(また何か私がやらかしてしまったか……? いや、しかしそういう時ははっきりと言ってくるはずだ。 それに最近は以前より会話も増え、少しは打ち解けられてきたと思っていたのだが……)
オレグは内心で溜息をつく。
エリシュカの考えていることは、やはり彼には難解だった。
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エリシュカはこの件を自分一人の胸の内に留めておくべきではないと判断した。
そして彼女が相談相手として選んだのは、実の父親であるオスカー・フォン・イブラヒム公爵である。
“これからする事”の性質を考えると、オスカーに話を通しておいた方が良いとエリシュカは判断したのだ。
そう考えたエリシュカは、久しぶりにイブラヒム公爵邸の父の執務室を訪れることにした。
実を言うと、エリシュカは父親であるオスカーのことが少々苦手であった。
嫌いではない。
決して嫌いではないのだが、どうにも不得手なのだ。
その理由は──。
執務室の重厚な扉をノックすると、中から「入れ」という、鷹揚な、しかし威厳のある声が響いた。
エリシュカが扉を開けて一歩足を踏み入れると、大きな執務机の向こうで書類に目を通していたオスカーが顔を上げた。
そして、エリシュカの姿を認めた瞬間、その厳格な表情が、まるで雪解けのように一瞬で崩れた。
「おお! エリーではないか! どうしたのだ、まさかお前が儂に会いに来てくれるとは!」
オスカーは満面の笑みを浮かべ、椅子から立ち上がると大股でエリシュカに歩み寄り、その細い肩を大きな両手でがっしりと掴むと、そのまま力強く抱きしめた。
そう、オスカー・フォン・イブラヒム公爵は、娘であるエリシュカに対して、尋常ではないほど甘い父親なのである。
エリシュカは、この父のストレート過ぎる愛情表現を不快に思うわけではない。
むしろ、その裏表のない好意は理解できる。
しかし、どう対応してよいのか分からず、毎回少々困惑してしまうのだった。
彼女の世界は合理性と計算と、時に冷徹な判断で成り立っている。
このような何の前提も計算もなく、ただただ溢れ出るような感情の奔流にどう対処すればよいのか、エリシュカは未だにその術を心得ていない。
「お父様、ご壮健そうで何よりです」
エリシュカは父の腕の中で、やや窮屈そうにしながらも、平静を装って挨拶を述べた。
「うむ、エリーも元気そうで安心したぞ! それにしても、本当にどうしたのだ? 何か儂に頼み事でもあるのか? それとも、ただ顔を見せに来てくれただけか? それならば、儂は望外の喜びだが!」
オスカーはエリシュカを解放すると、その顔をしげしげと見つめながら、子供のように無邪気な喜びを隠そうともしない。
エリシュカは一つ咳払いをし、本題を切り出すことにした。
「お父様、お願いしたい儀がございます。……“左手”を、動かしてもよろしいでしょうか?」
エリシュカの言葉に、オスカーの表情から先程までの砕けた雰囲気がすっと消え、公爵としての怜悧な光が瞳に宿った。
“左手”──それは、イブラヒム公爵家が擁する私兵組織の一つを指す隠語である。
単純な情報収集を主とする“耳”とは異なり、“左手”はより直接的な工作や、時には武力行使も厭わない実働部隊としての側面を持っていた。
彼らは公爵家の影となり、その意向を秘密裏に、そして確実に遂行する者たちである。
イブラヒム公爵家が私有する武力であるため、エリシュカは形式上、当主であるオスカーの許可を求めた。
しかし、本来、彼女はそのような許可を求めなくとも“左手”を動かす事はできる。
というのも、イブラヒム公爵家の実権は事実上、エリシュカが掌握しているからだ。
現当主はオスカーであり、次期当主はエリシュカの弟であるセインと定められてはいるが、この父と弟は、言ってしまえばエリシュカの描く盤面の上で動く駒、あるいは飾りとしての意味合いが強い。
だが、それはエリシュカが得意とする謀略や策略を巡らせて彼らを傀儡にしたからではない。
ただ単に、エリシュカがあまりにも優秀過ぎた。
その明晰な頭脳、的確な判断力、そして冷徹とも言える実行力は公爵家の運営において不可欠なものとなり、ごくごく自然な流れとして、彼女の元に権力が集中していっただけのことであった。
オスカーは尋ねる。
「そうか。血は流れるか?」
「恐らくは」
エリシュカの即答に、オスカーは頷く。
「なるべく穏当な方法を取ってほしいが、それ相応の理由があるのだろう。もちろん構わんぞ、エリー。好きにしなさい。何か儂に手伝えることがあれば、遠慮なく申すがよい。ただ、お前ならわかっているかと思うが、予断を以て動いてはならぬぞ」
「ありがとうございます、お父様。ある程度情報は握っておりますが、もちろんより詳細な裏を取ってから動くつもりです」
エリシュカが言うと、オスカーは「ならばよい」と頷く。
謀略にも血が流れるものとそうでないものがあり、大抵後者を取るエリシュカが前者を取るという事は、相応の理由があるのだろうと考えたからだ。
オスカーは血なまぐさい話を変えるように「そういえば──」と何かを言いかけた。
しかし、その言葉は、執務室の扉が勢いよく開かれる音によって遮られた。
「姉上! お帰りなさいませ!」
ノックもなしに飛び込んできたのは、まだ十歳にも満たないであろう少年だった。
エリシュカの弟、セイン・フォン・イブラヒムである。
セインは姉の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせ短い脚で一生懸命に駆け寄ってきた。
そして、何の躊躇もなくエリシュカの腰のあたりにぎゅっと抱きついた。
「姉上、お久しぶりです! 会いたかったです!」
エリシュカとしてはこの弟のセインもまた実は少し苦手な存在であった。
というのも──やはり、このストレート過ぎる愛情表現にどう対応すればよいのか、その“上手いやり方”をエリシュカは知らないからだ。
彼女はセインの頭にそっと手を置きながらも、やや硬直した表情を浮かべてしまう。
「これ、セイン。エリーが困っておるだろう」
オスカーが、苦笑しながらも優しくセインを窘めた。
その言葉を聞いたエリシュカは、やや困ったような、なんとも言えない表情で父を見つめた。
(お父様も、先ほど私に抱きついていらっしゃいましたけれど……)
とは、口には出さなかったが。
オスカー、そしてセイン──エリシュカの家族。
彼女は、この二人を嫌いではなかった。
しかし、明確に苦手ではある。
なぜならば彼らがエリシュカの理解の範疇を超えるほどに、“合理的”ではないからだ。
エリシュカは、イブラヒム公爵家の血を引いてはいるものの、その出生には複雑な事情があった。
オスカーの正妻の子ではなく、また、セインとは母親が異なる。
彼女自身は自分のことを完全な“家族の一員”とは認識しきれていない部分がある。
それにも関わらず、オスカーもセインも、何の疑いもなくエリシュカを家族として愛し、その愛情を惜しげもなく表現してくる。
その思考回路が、エリシュカにはどうしても理解できないのだ。
だが、それでも彼らの向ける純粋な好意を、嫌だと感じたことは一度もなかった。
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父の許可を得たエリシュカはイブラヒム家の情報網を駆使し、水面下で迅速に動き始めた。
“耳”からもたらされる断片的な情報を繋ぎ合わせ、“左手”を使って慎重に裏付けを取る。
その結果、オレグ王太子の失脚──ひいては暗殺を画策している中心人物が、一人の貴族へと収斂していった。
マルレーン伯爵。
古くから続く貴族ではあるが、近年その影響力には陰りが見え始め、現状の王家や主流派閥に対して不満を募らせている人物の一人としてリストアップされていた男だ。
彼は王太子がオレグであることに強い不満を抱き、より自分たちに都合の良い、操りやすい別の血筋の者を王位に据えようと画策しているらしい。
そのために、度の国境視察は絶好の機会だと捉えているようだった。
エリシュカは、マルレーン伯爵邸の見取り図、彼の派閥に属する者たちのリスト、最近の資金の流れなどを記した書類を前に、静かに思考を巡らせる。
取り得る対策はいくつもあった。
もっとも物騒な手段としては、マルレーン伯爵とその主要な協力者たちを、視察が始まる前に“処理”してしまうこと。
“左手”を使えば、それは決して不可能なことではない。
穏当な手段としては、集めた証拠を国王陛下や摂政評議会に突きつけ、法の下に裁いてもらうこと。
しかしそれでは時間がかかりすぎるし、政治的な駆け引きの中で伯爵が上手く立ち回り、罪を逃れる可能性も否定できない。
本来の、エリシュカ・イブラヒム的な思考からすれば、この暗殺計画の情報を利用し、マルレーン伯爵とその派閥に対して揺さぶりをかけ、彼らを事実上支配下に置くことで、イブラヒム公爵家の影響力をさらに増大させるという手が、もっとも“実入り”が大きいと言えた。
だがその選択肢を検討した瞬間、エリシュカの脳裏に、血を流して倒れるオレグの姿が不意に浮かんだ。
そしてまたしても、あの強烈な不快感が彼女の胸を鷲掴みにした。
まるで自分の身体の一部が引き裂かれるような、そんな感覚。
(……なぜ、これほどまでに)
この感情は合理的な判断を鈍らせる。
それは分かっている。
しかしそれでも、オレグが傷つく可能性を彼女は許容できなかった。
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それから数日が過ぎ、オレグの国境視察への出発を明日に控えた日のことだった。
オレグは、王太子としての威厳と、そしてどこか少年のような高揚感を滲ませながら、エリシュカに語りかけた。
「エリシュカ、いよいよ明日からだな。この視察、必ずや成功させてみせる。父上や評議会の連中にも、私が次期国王として相応しい器であることを示してやらねばな。君が共に来てくれれば更に心強いのだが、王宮を頼む」
その言葉には以前のような自信のなさや不安の色は余りない。
エリシュカはそんなオレグの様子を静かに見つめ、いつも通りの落ち着いた声音で応じた。
「ええ、殿下。王都のことはお任せください。殿下お一人でこの視察を立派に成し遂げられると信じておりますわ。お戻りを心待ちにしております」
その時、ふとオレグが何かを思い出したように、少し眉を顰めて口を開いた。
「そういえば、エリシュカ。聞いたか? マルレーン伯爵が今朝方、急死したそうだ」
エリシュカの表情は、僅かにも揺るがない。
「マルレーン伯爵が……? それは初耳ですわ」
「ああ。なんでも、昨夜まではピンピンしていたらしいのだが、今朝になって寝室で冷たくなっているのが発見されたとか。原因は不明だそうだが……近頃、少し顔色が悪そうには見えたが、まさかこんなに急に亡くなるとはな。何だか、少し気味が悪い話だ」
オレグはどこか不安そうな、落ち着かない様子で言葉を続けた。
そんなオレグに対してエリシュカは、ほんの僅かに口元に淡い笑みを浮かべると、こともなげにこう言った。
「そうですの。……案外、何か悪いものでも召し上がってしまわれたのかもしれませんわね」
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オレグが出立する朝は、空の低い位置に薄墨色の雲が垂れ込めていた。
王太子としての威厳を示すべく誂えられた深緑の旅装束に身を包んだオレグは、どこか落ち着かない様子で自室の窓から王宮の前庭を見下ろしている。
数騎の近衛兵と数名の供回りの者たちが、すでに馬を曳いて待機しているのが見えた。
これから数週間に及ぶ国境視察──それは次期国王たるオレグにとって、避けては通れぬ重要な責務であった。
昨夜、マルレーン伯爵の急死という不可解な出来事を聞かされ、一抹の気味の悪さを感じてはいたが、それ以上に、この視察を成功させねばならぬという使命感が彼の胸を満たしていた。
扉が控えめにノックされ、エリシュカが入室を告げる。
彼女はいつものように感情の読めぬ静かな表情で、オレグの前に進み出た。
「殿下、ご出発の時刻が近づいてまいりました」
その声には抑揚がなく、まるで時計の針が進むのを告げるかのように淡々としている。
オレグはエリシュカに向き直り、わずかに頷いた。
「ああ、わかっている。……王都のことは頼んだぞ、エリシュカ」
先日の会話──エリシュカを毛嫌いなどしていないし、苦手でもなくなった、と告げた時の彼女の、ほんの一瞬見せたきょとんとした顔と、その後の微かな笑みが、オレグの脳裏に焼き付いている。
あれ以来、エリシュカの態度は表面的には何も変わらない。
だが、オレグの中では、彼女に対する何かが確実に変化し始めていた。
「はい、殿下。王宮の諸事は滞りなく進めます故、ご安心くださいませ」
エリシュカは静かに頭を下げる。
その仕草は完璧で、非の打ち所がない。
しかし、オレグには、その完璧さが以前ほど冷たく感じられなくなっていた。
「……では、行ってくる」
オレグは短く告げ、エリシュカの横を通り過ぎようとした。
その時、不意にエリシュカが口を開いた。
「殿下」
オレグは足を止め、振り返る。
「道中、お身体にはくれぐれもお気をつけて。……北の気候は変わりやすいと聞き及んでおります」
エリシュカの言葉は、やはり感情を排した事務的な響きを帯びていた。
しかし、その内容はオレグの健康を気遣うものであり、彼にとってそれは予期せぬものであった。
オレグは一瞬言葉に詰まり、そしてややあって、「……ああ」と短く応じるのが精一杯だった。
何か言葉を返すべきかとも思ったが、適切な言葉が見つからない。
結局、オレグはそれ以上何も言わずに部屋を後にした。
後に残されたエリシュカは、オレグの背中が扉の向こうに消えるのを、しばし無言で見送っていた。
彼女の胸の内にどのような感情が去来していたのか、その表情からはうかがい知ることはできない。
ただ、窓の外でオレグを乗せた一行がゆっくりと王宮の門を出ていくのを、彼女はいつまでも見つめていた。
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北の国境地帯は、オレグの想像を絶するほどに荒涼としていた。
王都の華やかさとは無縁の、岩と痩せた土、そして吹きすさぶ風が支配する世界
古い城壁は風雪に耐えかねて所々崩れ、峻険な山岳地帯に点在する砦は、まるで忘れ去られた巨人の骸のように見えた。
オレグは数日をかけて、それらの軍事施設を精力的に視察して回った。
兵士たちの士気は決して低いわけではなかったが、装備の旧式化や物資の不足は明らかだった。
辺境伯──齢六十を過ぎたであろう、日に焼け、皺の深い顔を持つ老将は、オレグに対して実直に窮状を訴えた。
「殿下にご覧いただいた通り、我々は常に人手も物資も不足しております。それでも、王国の盾たる誇りを胸に、日夜北の蛮族の侵入に備えておりますが……」
オレグは辺境伯の言葉を真摯に受け止め、改善を約束する。
夜、辺境伯の質素な館の一室で、オレグは灯火の下で羊皮紙に向かっていた。
これは国王陛下への定期報告とは別に、彼が自発的に認めているものだった。
宛先は、エリシュカ・イラ・イブラヒム
何を思ったのか、彼は旅立つ前に、エリシュカに「道中の様子を知らせる」と、自分でも思いがけず口走ってしまっていたのだ。
エリシュカは特に表情を変えることもなく、「承知いたしました」とだけ答えた。
その反応に、オレグは少しばかり拍子抜けしたものの、一度口にした以上、実行せねばならぬと感じている。
(さて、何を書いたものか……)
オレグはペンを握ったまま、しばし逡巡する。
エリシュカに手紙を書くなど、初めての経験だった。
彼女はどのような内容を期待しているのだろうか。
いや、そもそも何かを期待しているのだろうか。
結局、オレグは当たり障りのない内容から書き始めた。
『エリシュカへ。北の国境地帯は想像以上に厳しい環境だが、視察は順調に進んでいる。こちらの兵士たちは皆、忠誠心に厚く、頼もしい限りだ。ただ、装備の更新については早急な対応が必要だと感じている。王都は変わりないか。君も無理はせぬように』
そこまで書いて、オレグはふとペンを止めた。
(……これでは、あまりに事務的すぎるか?)
まるで業務報告書のようだ。
しかし、エリシュカ相手にこれ以上くだけた内容を書くのも躊躇われる。
しばらく悩んだ末、オレグは最後に一文だけ付け加えることにした。
『……出発の朝の言葉、感謝する』
それで精一杯だった。
彼は手紙を侍従に託し、しばし北の夜空に浮かぶ月を見上げていた。
冷たい風が頬を撫でる。
王都では感じることのない、厳しい自然の息吹。
(美しい月だ。空気が澄んでいるからだろう。……エリシュカ、君にも見せてやりたかった)
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オレグが北方へ視察している間、王都ではエリシュカがオレグの不在を預かり、王太子妃としての務めを淡々とこなしていた。
摂政評議会への陪席、山積する陳情書の処理、王妃教育のさらなる深化のための講義──それらを、彼女は寸分の狂いもなく、効率的に処理していく。
その姿は、まるで精巧な機械のようだと評する者もいたが、彼女の的確な判断と処理能力は、多くの者から信頼を得ていた。
オレグが出発してから一週間ほど経ったある日の午後、エリシュカの元に辺境からの伝令が届けられた。
それはオレグからの初めての手紙だった。
侍女から封書を受け取ったエリシュカは、その場で封を切ることはせず、自室に戻ってから、ようやく一人でそれを開いた。
簡潔な、そしてやはりどこか事務的な文面
しかし、エリシュカの目は最後の一文に留まった。
『……出発の朝の言葉、感謝する』
エリシュカは、その一文を何度も読み返した。
表情に変化はなかったが、その胸の内には形容し難い、微かなさざ波のようなものが立つのを感じていた。
(感謝……? あの程度の言葉に、なぜ……)
エリシュカには理解できなかった。
彼女が発した言葉は社交辞令にも近い、当たり障りのないものだったはずだ。
それでも、オレグはそれを「感謝する」と記してきた。
エリシュカはしばらくその手紙を眺めていたが、やがてそれを丁寧に畳むと、机の引き出しの奥深くへとしまった。
そして羊皮紙を取り出し、羽根ペンをインクに浸す。
返事を書かねばならない。
しかしどのような言葉を綴ればよいのか、彼女もまた迷っていた。
オレグの言葉に対する返答は?
あるいはもっと別の、王都の日常を伝えるべきか。
彼女のペンは、なかなか進まなかった。
その一方で、マルレーン伯爵の件に関する後始末は着実に進められていた。
“左手”を通じて集められた情報は、伯爵の協力者たちのリスト、資金の流れ、そして彼らが次に何を画策していたのかを白日の下に晒していた。
エリシュカはそれらの情報を冷静に分析し、必要な指示を的確に与えていく。
ある者は社会的に抹殺され、ある者は巧妙な罠にはめられて自滅し、またある者は“事故”に見せかけてこの世から姿を消した。
血生臭い作業だったが、エリシュカの心は揺るがない。
これは、王家と、そしてオレグを守るために必要な措置であると、彼女は確信していたからだ。
だが時折、ふとした瞬間にあの報告書の一節──オレグ暗殺計画──が脳裏をよぎることがあった。
その度に、彼女の胸には、あの得体の知れない不快感が蘇る。
まるで冷たい手が心臓を鷲掴みにするような感覚
(なぜ、これほどまでに……殿下の身に何かが起こる可能性を考えると、冷静ではいられないのか)
それは、彼女の合理的な思考では説明のつかない感情だった。
夫だから? 王太子だから?
それだけでは、この感情の強さを説明できないように思えた。
エリシュカは、その感情の正体を見極めようとしながらも、それを心の奥底に押し込めるようにして、再びペンを握った。
結局、彼女がオレグへの返信として選んだのは、ごく簡潔な、そしてやはり当たり障りのない言葉だった。
『オレグ殿下。お手紙、拝受いたしました。視察が順調とのこと、何よりに存じます。王都は平穏無事、特筆すべきことはございません。殿下も引き続きご自愛専一にお過ごしくださいませ。エリシュカ』
そこに個人的な感情を一切込めることなく、ただ事実だけを記した。
しかし最後に「エリシュカ」と署名するペン先は、ほんのわずかに震えていたことを彼女自身は気づかない。
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エリシュカからの返信がオレグの元に届いたのは、彼が辺境伯の領地を離れ、次の視察地である山岳要塞へと向かう道中のことだった。
伝令から手紙を受け取ったオレグは、すぐにその場で封を開いた。
エリシュカらしい、簡潔で無駄のない文面
期待していたわけではないが、やはり彼女からの個人的な言葉や、感情の滲むような表現は見当たらない。
オレグは、小さくため息をついた。
(まあ、エリシュカだからな……)
そう思う一方で、ほんの少しだけ失望している自分に気づく。
しかし、手紙を最後まで読み進めたオレグはふとあることに気づいた。
エリシュカの署名だ。
それは、ただ「エリシュカ」とだけ記されていた。
通常、公式な文書であれば「王太子妃エリシュカ」あるいは「エリシュカ・イラ・イブラヒム」と署名するのが通例だ。
この簡素な署名は、彼女がこれを私的な手紙と認識している証なのだろうか。
そう思うと、オレグは胸にわずかな温かいものが込み上げてくるのを感じた。
その夜、オレグは再びエリシュカへの手紙をしたためる。
『エリシュカ。返信ありがとう。王都が平穏で何よりだ。古い要塞の堅固さには目を見張るものがある。ああいうものには石ではなく歴史が積まれているのだと感じた。ところで君は王都でどのようなことを考えて日々を過ごしているのだろうか。そんな事は面と向かって聞けばよいとは思うのだが、いい機会だと思うので聞かせてくれ。私はもっと君の事を知りたいと思っている』
最後の一文は彼にとってかなり勇気のいるものだった。
エリシュカがこれにどう応じるか、想像もつかない。
しかしオレグはエリシュカの「心」にもう少し触れてみたいと、そう感じ始めていたのだ。
§
オレグからの二度目の手紙を受け取ったエリシュカは執務室で一人、内容を静かに読み返していた。
『私はもっと君の事を知りたいと思っている』
その一文はエリシュカの胸に、これまで感じたことのない種類の戸惑いと、そして微かな期待のようなものを呼び起こした。
(私の事……)
エリシュカは自分の考えや感情をありのままに言葉にすることをこれまでほとんどしてこなかった。
それは貴族にとって不要なことであり、時には危険なことでもある事を知っているからである。
しかし、オレグはそれを聞いてみたいと言う。
なぜだろうか。
彼は、自分の何を理解したいというのだろうか。
エリシュカは窓の外に目をやった。
王都の空は今日も変わらず広がっている。
彼女の日々は政務と儀礼と、そして見えぬ敵との闘争に明け暮れている。
そこに、オレグが期待するような言葉などあるのだろうか。
(そのまま書けば随分と殺伐とした内容になってしまいそうですが)
自然とオレグが喜びそうな言葉を模索していることに気づき、戸惑うエリシュカ。
彼女の中で、オレグという存在が少しずつ、しかし確実に大きくなっているのを感じていた。
それは夫だから、王太子だからという義務感だけではない──もっと個人的な、そして説明のつかない感情であった。
だがそれを認めることは、彼女にとって容易なことではなかった。
なぜなら、それは彼女がこれまで築き上げてきた合理性と効率性の世界に、亀裂を入れる可能性を秘めていたからだ。
それでもエリシュカはオレグの問いかけに、何らかの形で応えなければならないと感じていた。
ゆっくりと羊皮紙に向かい、ペンを握る。
その瞳には深い思慮の色が浮かんでいた。
悩ましい──しかしエリシュカはその「悩ましさ」を煩わしいとは思わなかった。