第2話「戴冠準備期間」
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学園を卒業した王太子は、ただちに王冠を戴くわけではない。
王位は国家の屋台骨であり、粗削りの青年が軽々しく据わる椅子ではないからだ。
そのため本王国では、卒業直後から数年間を「戴冠準備期間」と呼び、若き王位継承者に徹底した実務教育を叩き込む慣習がある。
立法・財務・軍務・宗教などを昼夜なく講義され、空き時間には評議会を傍聴し、さらに夜半は翌日の質問書を準備する。
王太子教育、王妃教育も似たようなものだが、こちらはより実践的といえる。
王や王妃がこういった知識を身に着ける必要がそもそもあるのかという向きもあるが、それは平時の話である。
例えば戦時中などに於いては王にあらゆる権限が集中するため、数字・地図・兵站が読めない王では、的外れな勅令で被害が拡大する恐れもある。
王妃も同様だ。
王妃もまたこの国ではただのお飾りではなく、王を実務的に補佐できる能力がなければならない。
エリシュカ・イラ・イブラヒムは正式に王太子妃となったその日から、同じ課業をほぼ同じ量で受けた。
王妃は“装飾”ではなく、王の判断を補佐し儀礼を主宰する半ば官職であるというのが宮廷の伝統だからだ。
もっとも、彼女の場合は公爵家秘蔵の家庭教師団によって幼少の頃より鍛え上げられており、議場の専門用語にも怯むことがなかった。
一方のオレグ・アレクサンドル・フォン・シュタウフェンベルク──。
若き王太子は、学園時代「政治経済は卒業試験ぎりぎりで可」の評価表を懐に抱いたまま、評議会の大書院に放り込まれたのである。
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昼下がりの書庫。
オレグは山のような帳簿に埋もれていた。
評議員たちが投げつけてきたのは、直轄三州の歳入歳出報告書、掌に乗るほどの小さな銀貨から国庫債発行残高までを列挙した紙束。
「……どうして、合計値と前年度残が百ソルダ単位でずれるんだ……?」
額を押さえてうめく声が、静かな閲覧室にこだました。
隣席ではエリシュカがさらさらと羽根ペンを走らせ、差分を一行で算出している。
それを横目にするたび、オレグの胃はさらに重くなった。
「殿下、ここは端数の切り捨てではなく旧暦月換算の利子が潜っております。こちらの式で一行目を調整なさって」
エリシュカは淡々と助言する。
エリシュカはこの手の計算を間違える事はない。
対照的にオレグは三行目でつまずき、ペン先をたびたび引き裂いた。
結局、帳簿は夕刻までに一割も進まないまま。
講義室の鐘が鳴ると、オレグは椅子の背にぐったりと身を投げた。
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夜。王太子私邸の小食堂。
「殿下、お口に合いませんか?」と給仕が問うが、オレグは黙ってスープをかき混ぜるばかり。
書庫での惨敗が心に鉛を沈めていた。
対面のエリシュカは、主菜を三口で食べ終えたところで手を止め、静かに彼を観察した。
──なぜ、元気がないのだろう。
成績が芳しくなければ次の課題を復習し、もう一度挑めばよいだけの話だ。
出来るまで学ぶ、それだけ。
そう思いながらも、彼女は口に出せずにいた。
自分の感覚が常人離れしている自覚はある。
不用意に励ませば、かえって逆効果かもしれない。
悩んだ挙げ句、エリシュカはある人物を呼びつけることにした。
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深夜。
「失礼しまーす……夜中なので小声で失礼を……」
エリシュカの私室にシイナ・イラ・カリステ男爵令嬢が姿を現した。
寝間着の上に薄手のマント、髪は乱れている。
エリシュカは卓に湯気立つハーブ茶を置いた。
「夜分済まないわね。少し相談があるの」
「殿下絡み、ですね?」
シイナは椅子に腰を下ろしつつ即答した。
“視る”までもない──と言わんばかりの笑み。
エリシュカは小さく瞬きし、単刀直入に要件を述べた。
オレグの沈鬱の理由を知りたい、と。
シイナはカップをくるりと回し、ため息交じりに笑った。
「自信喪失以外の何者でもありません」
「……理解が及ばないわ。出来ぬ課題は出来るまで努力すればよろしいだけでは?」
「こういうのは理屈ではないんです」
エリシュカは瞬き二度。
何もわかっていなさそうなエリシュカに、シイナははあと溜息を一つつく。
シイナは身振り手振りを交え、猛烈な勢いでまくしたてる。
「殿下はですね、“あまりに優秀な奥方”と並べられ続けて、己の凡庸さを思い知らされているんです。こんなの誰だって凹むでしょう?」
「しかし、私が補えば済む話では……」
「それが男心を傷付けるんですってば!」
ずばり言い切るシイナ。
身分差を考えるとこれは無礼極まりない態度なのだが、エリシュカは叱責せずむしろ熱心に耳を傾ける。
シイナの体質──“心を視る”能力の価値をよく理解しているからだ。
叱れば宝の持ち腐れ。受け止めて活かす方が得策と心得ている。
当のシイナは椅子の背に寄りかかり、前世のブラック企業を思い出していた。
(あのパワハラ課長より百万倍マシだわ……)
上司としてのエリシュカは自分をしっかりと評価してくれる。
ただ、油断はできないとも思っていた。
なぜなら、エリシュカという令嬢の心の色を視た事があるからだ。
(この人はゴミ箱にゴミを捨てるように平然と人を“処分”できる)
貴族というのはまあそういう生き物ではあるのだが、エリシュカはどんな貴族よりも貴族らしい側面がある。
「要は、エリシュカ様が殿下に“本音”をぶつけることです。ご自身の言葉で殿下を評価していると伝えて差し上げれば、それだけで元気になりますよ」
エリシュカは難しい顔で黙考した。
恋慕を語るのかと問えば、シイナは首を横に振る。
「愛とか好きとか、そこまで踏み込まなくていいんです。殿下の努力を“見ている”と、ただ伝える。それだけで男は案外立ち直るんですから」
エリシュカは静かに立ち上がった。
「……わかったわ。感謝するわね、シイナ」
「いえいえ、ご褒美はお給金アップで!」
「前向きに検討するわ」
エリシュカが“検討する”といえば本当に検討してくれる──シイナはそれがよくわかっているので、期待を込めてにこりと笑った。
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翌日。私邸の小書斎。
古地図を広げた卓に、オレグはうなだれていた。
その日は良く晴れたさわやかな朝だったが、それとは対照的にオレグは陰鬱そのものであった。
「オレグ様」
エリシュカは扉を閉じ、柔らかな足取りで近づいた。
彼女の両手には一冊のノート──昨夜遅くまで作った“要点整理”が綴じられている。
「これを。昨夜の帳簿、利子計算の近道を書き出しました。お役に立てるかと」
「……ありがとう」
受け取ったものの声は沈んでいる。
エリシュカは深呼吸してから切り出した。
「オレグ様、私はどうやら感情の機微に疎いようで──なぜオレグ様が塞いでいるのかが良くわかりません」
それを聞いてオレグは苦笑した。
エリシュカは別にオレグを馬鹿にしているわけでもなんでもなく、本当に言葉通りの事を考えているのだとなんとなくわかったのだ。
「君が優秀すぎてね。並んで歩く自信が失せていたんだ。私がどんなに学んでも無意味で──結局君さえ居ればよいのではないかと思っていた」
「人には向き不向きがありますから。私は問題を解決したり、障害を排除する事には長けていますが、味方を作る事には向いていません。国の舵取りをする者の資質とは言えないでしょう。殿下もかつては私を毛嫌いし、今も苦手としておりますし」
皮肉などではなく、ただ事実を述べているだけの口調。
オレグはなんとなく気まずくなって苦笑した。
「君は私を見下していないのだな」
「意味がありませんから」
エリシュカの返答はすげない。
だがそれがエリシュカという女性なのだとオレグは思う。
「分かった。だったら一つ認識をただそう……」
そういってオレグは咳払いをする。
エリシュカはオレグの言葉を待った。
そして──
「私はもうエリシュカを毛嫌いなどしていないし、今日、君を苦手とすることもなくなった」
エリシュカは一瞬きょとんとし、それからほんのわずかに笑みを浮かべて「そうですか」と答えた。