第二話 焼け跡屋敷の幽霊事件
その朝もおれとキャロラインとルイーズとコンスタンツェで朝食を取っていた。
玄関の戸をたたく音がした。
戸をあけると男が立っていた。
よく日に焼けた顔をした男で三十歳くらいだった。
いい歳をしているくせにもじもじとしていた。
人見知りをする子どものようにだ。
「こちらはマーカスよろず相談所で?」
「そうですよ。どうぞ。お入りください」
おれは男を長いすにすわらせた。
すぐにコンスタンツェが男にお茶を出した。
男から香辛料の匂いがした。
肉を焼く匂いみたいだった。
「で。どんな相談なんです?」
男が言いづらそうに口ごもった。
「そ。それが」
キャロラインが助け船を出した。
「おじさんの名前は?」
「あ。おれはシドニー・ストラウスです。それがですね」
よほど言いにくい用件らしくまた口ごもった。
「シドニーさんはグリーンバケット街で串焼き屋の露店を出してるんだよね? 串焼き屋は儲かってるの?」
「は。はい。朝から夜まで休むひまがありません。えっ? どうしてわかるんです?」
シドニーが目を見張った。
おれも不思議だった。
串焼き屋まではおれにも推測できそうだがグリーンバケット街だとなんでわかったのか?
「串焼き屋はあなたの手から串焼きの匂いがしてるからだよ。客として食べるだけじゃ手に匂いがつくほどにはならない。グリーンバケット街はあなたの日焼けだね」
「日焼け?」
「そう。露店で一日中まっ正面から日の光をあびるのはグリーンバケット街だけだもの。ほかの地区だとそこまで日焼けしないよ」
「なるほど」
「で。なんの相談なの?」
「それがですね。実は幽霊なんです」
おれはおどろいた。
「幽霊?」
シドニーがおれの顔を見た。
「信じられないでしょうが幽霊なんですよ」
すがるような目だった。
おれは真面目な顔をあえて作った。
「信じますよ。話してください」
シドニーがホッとした表情に変わった。
「濃い霧が出た夜でした。そろそろ店じまいをしようかと思ったところだったんです。霧の中から女があらわれましてね。フードを頭からかぶって頬から下しか見えませんでした。その女が串焼きを二十本注文するんです」
「ふむふむ。それで?」
「はい。店じまいをする時刻でしたから残りは十本分しかありませんでした。焼くのにもしばらくかかります。そう言うと女はカネを出して屋敷に届けてくれとたのむんです。二番地のタラ男爵の屋敷でした。二階の奥の部屋に置いて帰ればいい。そう言いました」
「置いて帰ったんですか?」
「ええ」
おれは首をかしげた。
「それのどこが幽霊なんですか? ただの串焼きの注文じゃないですか?」
シドニーが身を乗り出した。
「だってタラ男爵ですよ? 知らないんですかタラ男爵を?」
そんな男爵は知り合いにいない。
「知りません。タラ男爵ってなにものですか?」
シドニーから肩の力がぬけた。
「タラ男爵は自殺した男爵です。妻と娘を殺して焼身自殺しました。タラ男爵の屋敷は焼け跡になってて無人です」
「無人の屋敷に串焼きを届けたんですか?」
「はい。変だなと思ったときには女の姿が霧の中に消えてました。カネは受け取ってるので届けるしかありませんでした」
「屋敷に女はいなかったんですか?」
「女どころか誰もいません。タラ男爵の屋敷は天井も焼け落ちて廃墟になってます。かろうじて二階の一番奥の部屋まで行けるていどでした。階段も穴があいてローソクの光では登るのが怖かったです」
「屋敷に誰もいないか確認したんですか?」
「焼け残ってる部屋はぜんぶ見ました。けど誰もいませんでした」
「それでどうしたんです?」
「背すじがゾッとして寒気に襲われたのであわてて家に帰りました。ふとんをかぶってふるえながら寝ましたよ」
「それだけですか?」
「いえ。翌朝に気になったんでタラ男爵の屋敷に行ってみました。二階の一番奥の部屋に行くと昨夜おいて帰った串焼きがありませんでした」
「はあ? なくなってたんですか?」
「はい。串すらありませんでした。タラ男爵の娘さんがおれの串焼きを気に入ってましてね。メイドにちょくちょく買わせてたんです。フードの女は雰囲気がタラ男爵の妻のミラさんに似てました」
「つまりそのミラさんが娘に食べさせようと串焼きを買いに来た?」
ブルルとシドニーが全身をふるわせた。
「そうとしか思えません」
おれは首をかしげた。
シドニーはなにを相談に来たのだろう?
幽霊の話をするだけなら瓦版屋に行くべきだ。
よろこんで書いてくれるだろう。
「それでおれにどうしろと?」
「フードの女を捕まえてくれませんか?」
「えっ? 幽霊を捕まえろ?」
「幽霊かどうかはわからないんです。その件があって一週後にまた濃い霧が出ましてね。やはり店じまいの時刻にフードの女があらわれたんです」
「また来たんですか?」
「ええ。今度はおれも身がまえてました。女はやはり串焼きを二十本注文してタラ男爵の屋敷に届けろと言いました。女がカネを出します。おれはその手を捕まえようと手をのばしました」
「それで?」
「でも女の手をつかむことができなかったんです。おれの手は霧をつかまえただけでした。ゾッとしましたがあわてて女を追いましたよ。でも身をひるがえした女は霧に消えたみたいに姿が見えなくなりました」
「そのあとまた串焼きを届けたんですか?」
「ええ。しかたないでしょう? 女はカネを落として行きましたからね。届けないでうらまれても怖いですから」
「では翌朝にタラ男爵の屋敷には?」
「行きました。やはり串焼きが消えてました。屋敷には誰もいませんでした」
「ふうむ。妙な話ですね?」
「でしょう? 気になってしかたないんですよ。また霧の濃い夜に女が来るかもしれません。そのときあなたが女を捕まえていただけませんか?」
「捕まえたと思っても霧のように手が空ぶりしたらどうするんです?」
「そのときはあきらめますよ。本物の幽霊でしょうからね。女に実体があればどうしてそんなことをしたのか聞きたいんです」
「なるほど。わかりました。つまり夜にあなたの露店を見張って女を捕まえろってわけですね?」
「はい。そうしていただけると助かります。で。見張り賃はいかほど?」
「毎夜見張るんですか?」
「ええ。いつ霧が出るかわかりませんからね。日暮れから店じまいの時刻まで見張ってください」
「ふむ。ではひと晩に銀貨五枚でいかがでしょう?」
「わかりました。取りあえず十日ほどおねがいします」
シドニーが銀貨五十枚を机につみあげて帰って行った。
おれはキャロラインとルイーズの顔を見た。
「いまの話どういうことだろうな?」
ルイーズがコンスタンツェにお茶を要求した。
「幽霊がいるってのは信じにくいわねえ。こんなのはどうかしら? 近所の主婦が食いしんぼうだったのよ。大量に食べるのを家族に知られたくなくてタラ男爵の廃墟に届けさせたの。きっとシドニーさんが帰るのを見はからって串焼きにむさぼりついたのよ」
おれは苦笑した。
そんな理由だと簡単にフードの女は捕まりそうだ。
おれはキャロラインに顔を向けた。
「キャロはどう思う?」
「わかんないよ。でもさ。タラ男爵は妻と娘を殺して焼身自殺したんだろ? レスター警部に聞けば詳細を教えてくれるかもしれないよ。生き残った使用人が串焼きを故人にそなえてるのかもしれない」
「なるほど」
おれたちは王都警察にレスター警部にたずねた。
レスター警部は報告書を書いていた。
王都警察にはさまざまな事件や事故が日々持ちこまれる。
王都は治安がいいが恋愛をめぐる傷害事件や商取引のいさかいなどはよく起こる。
人間がいるかぎり事件や事故のない日は来ないのだろう。
「やあダグ。きょうはなんだね?」
「警部。タラ男爵って知ってますか?」
「タラ男爵? ああ。妻と娘を道連れに無理心中した男か?」
「はい。どんな理由でタラ男爵は心中を?」
「妻が浮気をしたとうたがったんだ。ドレークが男爵からの依頼を受けて調査したよ」
「父が?」
「ああ。妻のミラさんに浮気の事実はなかった。だが男爵はドレークの言葉を信じなかった。どんどん疑心暗鬼が深まって最後は妻と娘を殺して焼身自殺をしたんだ。おかしくなってたんだろうな」
「じゃ奥さんは無実なのに殺された?」
「娘のメリッサさんもな。ミラさんは評判の美人だった。だが男爵はパッとしない男だった。自分に自信がなかったんだろう。ミラさんが浮気をしてるはずだとかたくなに思いこんだらしい。誰の言葉にも耳をかさなかったみたいだよ」
死ななければならない理由などないのに三人が死んだのか。
化けて出るのもいたしかたないな。
「使用人たちはどうなったんです? 殺された人とかは?」
「使用人は全員ぶじだった。ミラさんの悲鳴を聞いた執事とメイドが二階に駆けあがったんだ。そしたら男爵がミラさんとメリッサさんを刺し殺したあとだった。油を頭からかぶってた男爵がとめる間もなく自分にローソクの火をつけた。あっと言う間に火が燃え広がったそうだ。執事とメイドは自分たちが逃げるのが精一杯だったとさ」
「使用人たちはいまどこにいるんです?」
「タラ男爵の領地はヨーク子爵に接収されてね。その旧タラ男爵の領地の代官を執事がまかされた。メイドや料理人もその旧領地の代官屋敷にいるはずだよ」
「使用人たちが全員?」
「ああ。そもそも使用人たちはその領地の出身者ばかりだ。王都にいるより故郷で働きたいって言ってたよ。ドレークもその事件を聞いて心を痛めてた。おれが男爵を説得できていれば事件をふせげたのにってね」
おれたちは王都警察を出た。
キャロラインがヨーク子爵の領地に早馬を出した。
タラ男爵の使用人たちが幽霊さわぎの夜に領地にいたかを問い合わせるために。
次にペンタイレル街二番地にあるタラ男爵の屋敷に行った。
ペンタイレル街はグリーンバケット街のとなり町だ。
シドニー・ストラウスの屋台から徒歩で十分もかからない。
木造の二階建てで横に広い屋敷だった。
右翼が完全に焼け落ちていた。
右翼の二階でタラ男爵が焼身自殺をしたのだろう。
左翼は屋根が落ちているものの建物の形をたもっていた。
串焼き屋のシドニー・ストラウスが串焼きを置いたのは左翼の二階なのだろう。
ひと目で誰も住めないとわかる焼け跡だった。
おれたちが屋敷をながめていると近所のおばさんらしき女が寄って来た。
「あんたらその屋敷に用かい?」
おれはおばさんを見た。
四十代の主婦という感じだ。
けわしい顔をしていた。
「いえ。用というわけじゃ」
「そうかい。瓦版の取材じゃないよね?」
「はい。ちがいます」
「ああ。よかった」
おばさんの目つきがゆるんだ。
「なにがよかったんです? 瓦版の取材だとまずいんですか?」
「まずいに決まってるじゃないか。タラ男爵が自殺した直後は野次馬が押し寄せたんだ。夜中までうるさくってさ。ゴミはそこいら中に捨てやがるしね。こないだも串焼き屋のシドニーが屋敷の中に入るのを見たよ。幽霊が出るなんてうわさが立つとこまるんだ」
「野次馬が来るからですか?」
「そうだよ。興味本位の連中がわんさか来るんだ。やっと落ち着いたんだよ。またぞろ瓦版に書かれちゃ騒動がぶりかえしちまう」
「なるほど」
「そんなわけだからさ。あんたらも用がなけりゃとっとと帰っとくれよ。ここは幽霊屋敷じゃないんでね。あーあ。さっさと取り壊してくれないもんかねえ」
おばさんが腰に手をあてておれたちをにらんだ。
おれたちはすごすごとペンタイレル街をあとにした。
タラ男爵の屋敷は近所迷惑な名所になっているらしい。
相談所にもどっておれは備忘録をしらべた。
タラ男爵の件は通常の浮気調査として書かれていた。
ミラさんに浮気の痕跡はなかった。
タラ男爵は領地に月のうちの半分は行っていた。
自分の留守にミラさんが浮気をしていると思いこんだらしい。
父は通常の報告をしたようだ。
奥さんは浮気をしていませんと。
タラ男爵が無理心中をはかるなどとは思ってもみなかったのだろう。
報告書のさいごになぐり書きがあった。
ちくしょうと。
そのとき誰かが戸をたたいた。
おれは玄関の戸をあけた。
男が立っていた。
「おれはピーター・フランクリンだ。マーカスさんはいるかい?」
横柄な口調だった。
ピーターは三十五歳くらいだ。
ととのった顔をしたいわゆるハンサムだった。
「おれがそうだが?」
ピーターが相談室に踏みこんだ。
おれの横を通るときに串焼きの匂いが鼻に来た。
ピーターも串焼き屋のようだ。
ピーターの顔に日焼けはなかった。
正面から日のあたらない露店だとエリスン街だろうか。
ピーターが長いすにドスンと腰を落とした。
「あんたがマーカスかい。お茶くらい出せよ」
コンスタンツェがピーターの前にお茶を置いた。
キャロラインとルイーズは顔をしかめていた。
ろくな男じゃないなと。
おれも同じ感想だ。
「あんたはエリスン街の串焼き屋だろ?」
ピーターが得意顔になった。
「あんたはおれの客かよ? だがひとつかんちがいしてるぜ。エリスン街じゃなくペンタイレル街だ」
おれは苦笑した。
キャロラインほどうまくは行かないらしい。
「そうか。ペンタイレル街だったか。それでどんな用だ? 浮気調査か?」
「浮気? ばかな。女房と離婚してえんだ。だが女房のやつは離婚しねえって言いやがる。あんたが女房を説得して離婚に応じさせてくんねえか?」
「はあ? 奥さんを説得するのか?」
「そうだ。女房のマージョリーはおれより年上でな。結婚して十年以上たつのに子どももできやしねえ。かわいげもねえしよ。いいかげんいやになったから若い女をこさえたんだ」
「つまりあんたが浮気したわけか?」
「浮気じゃねえ。本気だ。セシル・トレーシーといってな。十八歳のピチピチだ。女房とちがってかわいいやつなんだ。実家は金持ちだしな」
「十八歳の女と結婚したいから奥さんと離婚したいと?」
「ああ。月末には串焼き王決定戦がひかえてておれはいそがしいんだ。マージョリーにかまってるひまはねえんだよ。五年連続一位だったローリングスのオヤジが引退したからな。去年まで二位だったおれが今年こそ一位になってやるのさ」
「串焼き王決定戦?」
「おうともさ。商業ギルドが毎年やるんだよ。王都中の串焼き屋を一同に集めてどの屋台がいちばん売れるかを競うんだ。一位になっても賞金は金貨十枚としょぼいけどな。瓦版に大きく載るんで売りあげが倍増するのさ。去年まで三位だったシドニー・ストラウスの野郎も一位をねらってやがるだろうからよ。もっとうめえ串焼きを作るために日々改良中なんだ」
「そのためにいそがしいからおれに奥さんを説き伏せろと?」
「そのとおりだ。来月までに離婚できねえとやべえんだよ」
「なんで来月なんだ?」
「いや。まあちょっとな」
「理由がわからねえと奥さんを説得しにくいが?」
「そうなのか? 実はよ。顔役の女に手を出しちまってな。カネか命かどっちかをえらべっておどされてるのさ。それの期限が来月いっぱいだ。金貨百枚を用意しろだとよ」
金貨百枚は一般人の給料の五ヶ月分ていどだ。
串焼き屋のひと月の売りあげがそんなにあるとは思えない。
おれは首をかしげた。
「どうして来月までに離婚したら金貨百枚になるんだ? あんたが浮気してるんだから奥さんが慰謝料を払うはずはねえよな?」
「セシルとの結婚が決まったらセシルの実家がカネを出してくれるのさ。結婚の準備金だとよ。おれの女をすべて精算しろってことらしい」
「奥さんにもカネを払うのか?」
「ばかな。なんで払わなきゃならねえ? 払うもんか。マージョリーはもう十年もおれのかせぎでメシを食ってんだぜ。おれが払ってもらいてえくらいだ」
うーんとおれはうなった。
奥さんにはいっさいカネをわたさずに離婚したいらしい。
手切れ金もなしでは奥さんだって納得しないだろう。
だが相談所なら銀貨五枚で解決してくれる。
それで離婚にこぎつけるなら最も安あがりだ。
虫のいい話だった。
「それでここに来たのか?」
「ああ。引き受けてくれよ。たのむぜ」
おれは考えた。
こんなろくでなしの依頼を受けるべきだろうか?
「わかった。引き受けよう」
「おお。助かるぜ。おれの家はペンタイレル街の五番地だ。おれが仕事をしてる昼間に説得してくれな」
ピーターが鼻息も荒く出て行った。
玄関の戸がしまるとルイーズがおれにつめ寄った。
「なんであんな依頼を受けるのよ? マージョリーさんがかわいそうじゃない?」
えっとおれはとまどった。
「いや。マージョリーさんがあんな男と結婚してるほうがかわいそうじゃないか? 離婚したほうがしあわせになれると踏んで引き受けたんだが?」
あらとルイーズが思案した。
「それはそうかも?」
「ああいうろくでなしの浮気男は邪魔になれば妻でも殺すぞ。どうしても離婚しないとなるとマージョリーさんの命があぶないかもしれない」
「なるほど」
ルイーズが納得したのでおれたちはペンタイレル街に向かった。
五番地の一階の部屋をフランクリン夫妻は借りていた。
マージョリーさんがおれたちを台所のテーブルにすわらせた。
「なんの用かしら?」
「旦那さんにたのまれて来ました。離婚してほしいそうなんですが?」
マージョリーさんがジロジロとおれを見た。
「あなた何者なの?」
「おれはダグラス・マーカスです。マーカスよろず相談所をやってます」
「ピーターがあなたに依頼したのね。いやよ。離婚しないわ」
「けど奥さん。旦那さんはすでに若い女とよろしくやってますよ? 離婚を承知しなくても捨てられるんじゃないですか?」
「でもあたしはピーターを愛してるの。離婚なんかぜったいにしないわ」
あんなろくでなしのどこがいいんだろ?
顔がいいのはたしかだが。
「旦那さんははっきり言って浮気性でしょう? 奥さんに苦労しかさせないんじゃないですか? いまのうちに離婚して新しい人生に踏み出すべきでは?」
「あんなろくでなしだけどやさしいときもあったのよ。若い女と結婚するって言ってるけどね。すぐにわかれるわよ。ピーターはあたしでなければだめなの」
「そうは思えませんがね。たしかに若い女とすぐ破綻するかもしれない。でも奥さんに愛想をつかせてるのも事実でしょう? 離婚したほうがいいと思いますけどね」
「いやよ。離婚はしない」
「しかしね。奥さん」
「うるさい! だまれ!」
「けど奥さん」
「帰れ! 帰ってよ! 誰がなんと言ってもあたしは離婚しません!」
おれたちは追い出された。
取りつく島もなかった。
しかたがなくシドニー・ストラウスの屋台を見張りに行った。
だがその夜は霧が出なくてフードの女も来なかった。
おれたちは昼間はマージョリーさんの説得に向かった。
しかしマージョリーさんは家にすら入れてくれなかった。
帰れとしか言わない。
屋台で串焼きを売っているピーター・フランクリンにそう報告した。
「ちっ。役に立たねえやつだぜ。やっぱおれが始末するしかねえか」
おれは聞き取れなかった。
「えっ? なんと言いました?」
「いや。なんでもねえよ。もうしばらく説得してくれ。気が変わるかもしんねえ」
「わかりました」
そんなことをしているあいだにヨーク子爵の領地から早馬がやって来た。
タラ男爵の使用人たちは幽霊さわぎの夜に全員が領地にいたそうだ。
おれたちは夜シドニーの屋台を見張った。
孤児院のエディとウルスラも駆り出して六人態勢でだった。
フードの女が幽霊だったら六人でも捕まえられないだろう。
逆に生身の女なら六人いれば誰かが捕まえるはずだ。
一週間がすぎたその夜ついに霧が出た。
濃密な霧だった。
手をのばしたら指先が見えなくなるほどの濃霧だ。
霧が出はじめて人通りもすくなくなった。
街角にはローソクを入れたランタンが霧にぼやけて光っていた。
シドニーの屋台にもランタンがふたつ吊りさがって照らしていた。
そろそろ店じまいかというころ不意に女があらわれた。
霧の中からとつぜんに出現した。
フードをまぶかにかぶっていた。
シドニーがハッと目を見開いた。
おれたちに合図をくれた。
「串焼きを二十本タラ男爵の屋敷に届けてくださいな」
女の声に聞きおぼえがあった。
だが誰の声だか思い出せなかった。
おれはダッと飛び出した。
フードの女がビクッと身をよじった。
おれの手は女を捕まえなかった。
女が身をひるがえした。
霧の中に消える。
キャロラインとルイーズとコンスタンツェも女に手をのばした。
しかし女は霧に溶けたみたいに捕まらなかった。
たくみにおれたちの手をかわしたみたいだ。
霧の中を女の足音が遠ざかった。
「ダグ。逃げられちゃったよ」
キャロラインが屋台にもどってそう報告した。
シドニーが青くなった顔をおれに向けた。
「やはり幽霊だったんですか?」
「いや。幽霊じゃないだろう。逃げる足音が聞こえた。だが勘がよさそうだ。敏捷でもあるらしい。声も聞きおぼえがあったぞ」
どうすべきかと考えていると軽い足音が近づいて来た。
霧の中から顔を出したのはウルスラだった。
そういえばとおれは思い出した。
エディとウルスラにもたのんでたっけ。
ウルスラは息を切らしていた。
走って来たのだろう。
「ウルスラひとりか? エディは?」
「エディは女を尾行してる。あたしたちは女を捕まえられなかったの。だけど女のあとをつけるのには成功したわ。女はペンタイレル街五番地のフランクリンって書かれた部屋に入ってったのよ。でもすぐに男といっしょに出て来たわ。三十五歳くらいのハンサムな男よ。ふたりで二番地のほうに歩いてった」
キャロラインが声をあげた。
「フードの女はマージョリーか! たいへんだ! 殺すつもりだぞ! ダグ! タラ男爵の屋敷だ!」
キャロラインが走り出した。
おれとルイーズとコンスタンツェとシドニーがキャロラインを追った。
おれは胸が絞めつけられた。
ピーターみたいなろくでなしの浮気男がマージョリーさんを殺そうとするかもしれないと考えていた。
なのにどうしてマージョリーさんに護衛をつけなかったのか?
レスター警部にたのめば部下を貸してくれたはずなのに。
マージョリーさんが殺されたらおれの手落ちだ。
おれはあせりで足がもつれるほど急いだ。
風が出て来た。
空にはぶ厚い黒雲も湧き出した。
カミナリの音が近づいて来た。
タラ男爵の屋敷に着いた。
エディが屋敷の前にいた。
「あっダグ。ふたりは中に入ってったよ。おれどうすればいいかわかんなくて」
「いいんだ。おまえはここにいろ」
殺人に発展するかもしれないのに十三歳の子どもを連れてはいけない。
おれが先頭に立って屋敷に駆けこんだ。
一階には誰もいなかった。
おれたちは二階への階段をのぼった。
屋敷の中はまっ暗だ。
しかし空にいなづまが光ってそのたびに屋敷の中を照らした。
屋根が焼け落ちているから頭上の雷光が屋敷の中まで射しこんで来た。
おれは早足で二階の部屋をのぞきこんだ。
二階のいちばん奥の部屋にふたりの人間の影絵が見えた。
刃物をふりかざしていまにも刺し殺しそうだった。
「あぶない!」
おれは部屋に飛びこんだ。
刃物をふりかざしているやつにタックルをかました。
「キャッ!」
むにゅっとした手ごたえだった。
「なんだ?」
そのときカミナリが光った。
おれがつかまえているやつの顔が白光に浮かびあがった。
マージョリーさんだった。
「殺してやる!」
髪をふり乱したマージョリーさんがナイフでおれに切りかかった。
おれはナイフをにぎる手首をつかんだ。
力には自信があった。
女と力くらべをして負けるはずはない。
手首を絞めあげるとマージョリーさんがナイフを放した。
またカミナリが光った。
床に尻をつけていたのはピーターだった。
ふところが不自然にふくらんでいた。
なにかをふところに入れているらしい。
おれはマージョリーさんをうしろ手にしばりあげた。
幽霊を捕まえたときを考えて持っていたなわだ。
マージョリーさんが観念してふてくされた。
「けっ。好きにしやがれ」
ピーターが床から立ちあがった。
「ちくしょう。このあばずれ。おれを殺そうとしやがった」
おれはキャロラインの顔をうかがった。
おれはピーターがマージョリーさんを殺すとばかり思っていた。
離婚に応じない妻を廃屋で刺し殺すと。
キャロラインがニコッと笑った。
「どうしてマージョリーさんが夫のピーターを殺すのか? そんな顔だね? マージョリーさんはピーターをほかの女にわたしたくなかったんだ。ほかの女と結婚させるならいっそ殺してしまおうとたくらんだんだよ」
おれは疑問に感じた。
キャロラインはマージョリーさんがピーターを殺すつもりなのを知っていたみたいだ。
「キャロはそれがわかってたのか?」
「いいや。さっきまでわからなかった。フードの女がマージョリーさんだと知ったときに全貌が理解できたんだよ」
「どういうことだ?」
「マージョリーさんはピーターを殺す計画を立てたんだ。このタラ男爵の屋敷でピーターを殺そうとね。でも自分が逮捕されるのはいやだった。ろくでなしの浮気男のために縛り首になりたくなかったんだろうね。だから犯人を別に仕立てあげようと考えた」
「犯人を別に仕立てる?」
「そう。ピーターは前年の串焼き王決定戦で二位だった。三位はシドニー・ストラウスさんだ。シドニーさんはピーターが死ねば串焼き王決定戦で一位になれる。ピーターを殺す動機があるんだよ」
「あっ。それでマージョリーさんはシドニーさんの串焼きをこのタラ男爵の屋敷に届けさせたのか?」
「うん。シドニーさんはピーターを殺す犯人役にえらばれたんだ。ピーターがこの屋敷で刺殺体で発見されるだろ? 王都警察は捜査に乗り出す。そのときシドニーさんがこの屋敷に来てたのを近所の人が目撃してるとさ。警察はどう思うだろうねえ?」
「シドニーさんが殺人の下見をしてたと思う?」
「そのとおり。シドニーさんは警察に取り調べられる。警察は訊くだろうさ。どうしておまえはタラ男爵の屋敷に行ったとね。シドニーさんが答える。女の幽霊が串焼きをタラ男爵の屋敷に届けろと注文しましたと。警察は信じるだろうか?」
「しないだろうな」
「苦しい言いわけとしか思わないだろうね。かくしてシドニーさんがピーター殺害の犯人として裁判にかけられる。動機があって目撃者がいれば無罪にはならないだろうねえ。無人のタラ男爵の屋敷に串焼きを届けるなんてさ。誰が聞いてもおかしい話にしか聞こえないもの。一方のマージョリーさんはシドニーさんを犯人候補にすればピーターを殺しても逮捕されないですむ」
「シドニーさんを犯人に仕立てるためにこの屋敷で目撃させるのが狙いだった? それでシドニーさんに串焼きをこの屋敷まで届けさせた?」
「そう。シドニーさんはピーター・フランクリンを殺すつもりなんかない。だから堂々と屋敷に入ってた。近所の人の目も気にしない。そのせいで目撃されてた」
「計画殺人の布石が幽霊さわぎだったのか。自分が縛り首になりたくないからって無関係のシドニーさんを死刑台に送りこむ? 悪女のきわみだな」
その悪女をどうすべきかおれは考えながらピーターを見た。
ピーターにケガはなかった。
マージョリーは計画殺人をもくろんだが殺人は未遂だった。
ゴールドフォックス王国の法律では殺人未遂は懲役刑だ。
しかしピーターにケガもさせてないから一年か二年の懲役で出て来るのでは?
毒蛇のような女がそんな短期間で刑務所から出ていいのか?
ルイーズがおれの顔を見た。
「レスター警部を呼んで逮捕させましょう」
おれはうなずいた。
それがいいだろう。
あとの判断は王都警察と裁判所にまかせるべきだ。
おれは殺人を未然にふせげてよかったと胸をなでおろした。
そのときシドニーさんが口をはさんだ。
「待ってください。どうして彼女は夫を殺そうとしたんですか?」
シドニーさんは今回の最大の被害者と言っていい。
マージョリーの計画が成功していたら死刑になっていたかもしれない。
事件の全貌を知る権利があるだろう。
「夫のピーターがマージョリーと離婚して若い女と結婚したがったんだ。でもマージョリーはピーターを愛してた」
ピーターがペッと唾を床に吐いた。
「けっ。気持ちわりぃ。さっさとその女を警察に引きわたせよ。殺人未遂なら離婚も認められるはずだ。おれはセシルと結婚する。そんな女はもう無関係だ。死のうが生きようがおれとは関係ねえな」
マージョリーがすがりつく顔でピーターを見た。
「ピーター!」
やるせない表情だった。
悪女のくせに愛があふれていた。
「うるせえんだよ。てめえみたいなあばずれと結婚したのがまちがいだったんだ。二度とてめえのツラなんか見たくねえよ。さっさとくたばれクソ女」
マージョリーが涙を流しはじめた。
シドニーさんが意を決した表情になった。
「マージョリーさん! おれと結婚してください!」
えっとおれたち全員がシドニーさんの顔を見た。
シドニーさんが泣いているマージョリーの正面に立った。
「こんなろくでなし男とは離婚しておれと結婚してください。しあわせにしますから」
キャロラインが眉をしかめた。
「シドニーさん。その女はあなたを死刑台に送りこもうとした悪女だよ? そんな女と結婚するわけ?」
「おれは頭がキレて気の強い女が好きなんだ。マージョリーさんはおれの理想だ。ぜひ結婚したい。結婚してくれマージョリーさん」
キャロラインが肩をすくめた。
だめだこりゃと。
マージョリーが涙目でシドニーさんを見た。
シドニーさんはピーターのようにハンサムではない。
だが誠実そうだ。
「浮気したら殺すわよ? それでもいいの?」
「きみに殺されるなら本望だ。おれと結婚してほしい」
マージョリーの目がおよいだ。
どうしようかと悩んだ目だった。
ピーターとはもう修復不可能だ。
それならシドニーさんでいいか。
そんな目の色だった。
見つめ合うシドニーさんとマージョリーにおれはマージョリーのなわをほどいた。
シドニーさんとマージョリーが抱き合った。
ピーターがひたいに青すじを立てた。
「おいおい。その女をゆるすのかよ? そいつはおれを殺そうとしたんだぜ?」
キャロラインがピーターをにらみつけた。
「あなたにマージョリーさんを責める資格はないと思うな。あなたはふところになにを持ってるんだい?」
うっとピーターがひるんだ。
「なんだっていいだろ。おまえにゃ関係ねえ」
「そうかな? どうしてあなたはマージョリーさんにさそわれるままこんな廃墟に来たわけ? あなたのふところには刃物が入ってるんでしょ? すきを見てその刃物でマージョリーさんを殺すつもりだった。そうだよね? マージョリーさんが先手を取っただけでしょ?」
「ち! ちがう! おれは!」
「ちがわない。あなたは離婚に応じないマージョリーさんを殺したかったんだ。来月までにどうしても金貨百枚が必要だったからだよ。でないと殺されるからね。マージョリーさんに廃墟にさそわれていい機会だと思った。でも刃物を取り出す前にマージョリーさんに襲われた。そうでしょ?」
「うっ。ううっ」
ピーターのハンサムな顔がゆがんだ。
似た者夫婦だとおれは思った。
妻も夫もおたがいを殺そうと思っていたわけか。
キャロラインが糾弾する声からさとす声に切り替えた。
「マージョリーさんを殺人未遂で警察に突き出すならあなたも警察に逮捕させるよ。ここはひとつなかったことにすべきじゃないかな? マージョリーさんはあなたに切りかからなかった。あなたもマージョリーさんに刃物をふるわなかった」
ピーターが思案した。
しばらくしてうなずいた。
殺されかけて腹が立つが自分も逮捕されたらセシルとの結婚話は消える。
そう判断したのだろう。
しぶしぶという顔でピーターが帰って行った。
キャロラインが抱き合うシドニーさんとマージョリーに声をかけた。
「シドニーさんとマージョリーさんはどうするの?」
シドニーさんが答えた。
「おれがマージョリーさんを引き取ります。離婚手つづきをして結婚しますよ。あんな男と一瞬でもいっしょにいさせません」
シドニーさんがマージョリーの肩を抱いて歩きはじめた。
マージョリーもシドニーさんに寄りかかっていた。
さっきまでピーターを愛してたんじゃなかったのかとおれはあきれた。
女の変わり身の早さにはびっくりだ。
カミナリは遠くに去っていた。
霧も風に散らされて消えていた。
シドニーさんたちと屋敷の前でわかれた。
おれはエディとウルスラに銀貨をわたした。
「ご苦労さん。エディとウルスラのおかげで事件が解決したよ」
「えへへ。それはなによりだ。また雇ってくれよな」
帰りの馬車の中でルイーズがあきれた声を出した。
「男って信じられない。どうしてあんな毒蛇みたいな女がいいのよ? 寝てる間に殺されるんじゃない?」
おれも信じられない。
「だが毒がいいんだろうな。強烈だ。刺激的な女に惹かれるんだろうさ」
「そんなものかしら? でもピーターみたいなろくでなしを好きになる女もわからない。たしかにハンサムだけどね」
「顔がよければそれでいいんじゃないか?」
おれには女心などわからない。
キャロラインが口をはさんだ。
「ろくでなしだから好きになるってのもあるよ。ボクも腕っぷししか取り柄のない男に惚れてる。どうしてそんな男がいいのか自分でもわかんない」
ルイーズがうなずいた。
「なるほど。それはそうかも」
キャロラインとルイーズがおれを見た。
「おい。腕っぷししか取り柄のない男っておれか?」
キャロラインが肩をすくめた。
「さあ? どうだろうねえ?」
そのあとおれの追求をキャロラインはのらりくらりとかわしつづけた。
この話には後日談がある。
シドニーさんとマージョリーは結婚した。
マージョリーはなにを思ったのか王立劇団の試験を受けた。
女優になったマージョリーはめきめきと頭角をあらわした。
王立芸術祭の最優秀女優賞を五年連続で受賞した。
特に夫を殺す悪女の役では右に出る者がいなかった。
実際に夫を殺す直前まで行った経験があるからリアリティは抜群だ。
マージョリーはおれたちに初日の切符を毎回送ってくれた。
毒蛇のような悪女の演技は見る者すべての背すじを凍らせた。
だが舞台で毒を吐き出すぶん私生活はおだやからしい。
シドニーさんは焼き肉の店を三軒出すまでに事業を拡大させた。
子どもも三人生まれてしあわせに暮らしている。
ピーターはセシルと結婚したが一年もたたずに離婚した。
ピーターの浮気が原因だった。
ピーターは歳を取って容貌がおとろえた。
酒とギャンブルにおぼれて最後は賭場のケンカで刺し殺された。
瓦版のすみにそんな事件記事が載っていた。