第一話 宝石店主誘拐事件
第一話 宝石店主誘拐事件
父が殺された。
おれは冒険者だ。
泊まりがけで褐色熊を狩っていた。
王都にもどると王都警察のレスター警部がおれを待ちかまえていた。
「ダグ! たいへんだ! ドレークが殺された!」
ドレークというのはおれの父だ。
ドレーク・マーカス。
おれはダグラス・マーカスだ。
おれは眉を寄せた。
レスター警部がなにを言ったのかつかめなかった。
「なんですか警部? 父がどうしました?」
「落ち着いて聞けよダグ。殺されたんだ。殺害された」
まさかとおれは思った。
父はかつて冒険者だった。
だがひざから下を魔物に食われて冒険者をやめた。
そしてゴールドフォックス王国の王都で相談所を開設した。
マーカスよろず相談所だ。
冒険者ギルドや王都警察のあつかわない案件を解決していた。
おもに行方不明の犬や猫を捜すとか浮気調査などだ。
殺されるような重大事件にはかかわっていなかった。
「とにかく相談所を見てくれ。そのままにしてある」
おれはレスター警部に馬車に押しこまれた。
馬車はグロスナン街三番地にあるマーカスよろず相談所に向かった。
相談所はレンガの二階建てだ。
一階が相談所で二階が住居になっている。
建物の前には王都警察の警官たちが見張りをしていた。
野次馬たちがなにごとかと遠巻きに見ていた。
レスター警部がおれの手を引いて野次馬と警官たちをかきわけた。
相談所に入ると父が床に倒れていた。
おととい出かけるときはピンピンしていた。
それがいまは冷たくなっていた。
「わしはドレークにたのまれた調査の報告に来たんだ。そしたらこのありさまさ」
「殺されたってのはたしかなんですか? 病死ってことは?」
レスター警部が苦しげな顔になった。
「首を見てくれ」
「首?」
おれは父の首を見た。
首の右に赤紫の斑点があった。
「吹き矢のようなもので毒を打ちこまれたんだ。金虎草の毒だと思われる」
「きんこそう?」
「そう。タネから採れる猛毒だ。体内に入るとわずかな時間で心臓がとまる。目が紫に変色するのが特徴だよ」
父の見開いた目はたしかに紫に染まっていた。
レスター警部が父の腕を持ちあげた。
死後硬直はまだ解けてなかった。
「死後硬直のぐあいから死亡推定時は昨夜だ。相談所は午後八時までだから八時ぎりぎりに犯人が来たんだろう。近隣の住民はあらそう音を聞いてない。犯人はおそらく客としてやって来た。そしてすきを見てドレークの首に吹き矢を打ちこんだんだ」
おれは相談室を見回した。
荒らされた様子はない。
机の上の燭台ではローソクが完全に燃え尽きていた。
父はローソクを最後まで燃やすことはなかった。
ちいさくなった時点で交換していた。
ローソクが消えると完全にまっ暗になってなにもできなくなるからだ。
燃え尽きる前に次のローソクに火を移すのが父の習慣だった。
つまりローソクがちいさくなったときに父はすでに死んでいたということだ。
昼間にローソクをつけることはない。
夜に殺されたのは正しいだろう。
おれは机の引き出しをあけた。
革袋に金貨と銀貨がつまっていた。
強盗が父を殺したのではないらしい。
「ドレークのポケットの財布にも金貨が残ってたよ。犯人はカネ目当てじゃないな」
「なにも盗られてないんですか?」
「それはわからんよ。ダグ。きみにそれをたしかめてもらおうと思ってね」
おれはふたたび相談室を見回した。
おれが出かけるときと同じに見えた。
だが一カ所だけちがうところがあった。
本棚にならべられていた帳面にすき間が見えた。
相談所の記録をつけていたノートだ。
AからZまであったはずだった。
それのSだけがなくなっていた。
Sのつく依頼人や場所が書かれていた備忘録だった。
「Sのノートがありません」
「Sのノート? なんだねそれは?」
「Sからはじまる人名やことがらを書きとめてたノートです。相談の内容や日付がことこまかく書かれてました」
「ふむ。犯人はそのSのノートを持ち去ったということかね?」
「そうだと思います。父は几帳面でしたからね。書きこむときは机でしたし、書き終わったらかならず本棚にしまってました」
「机の上にもない。本棚にもない。そういうことかね?」
「はい。誰かが持って行ったとしか考えられません」
そのあと二階の私室もしらべた。
だが盗まれた物はなかった。
犯人が盗んだ物はSのノート一冊だけだった。
Sのノートにはなにが書かれていたのか?
犯人にとって都合の悪いことだろう。
だがおれは父のノートは読んでなかった。
読んでおけばよかったと痛切に後悔した。
そのときおれは思い出した。
「レスター警部。父はなんの調査をたのんだんです?」
「イアン・ハンターおよびその妻のイーディスに犯罪歴がないかをしらべてくれということだった」
「イアン・ハンター?」
聞いたことのない名だった。
「イアン・ハンターは王都の中堅商店の店員でな。犯罪歴はなかった。妻のイーディスも前歴はなかったよ。依頼人に前科がないかをしらべるのはドレークのくせだった。どんな依頼かは聞いてないがね」
おれは本棚の備忘録をひらいた。
だがイアン・ハンターの名は書かれてなかった。
受けたばかりの依頼なのだろう。
「これからイアン・ハンターに聞きこみに行くがいっしょに行くかい?」
おれはうなずいた。
「ええ」
おれとレスター警部は馬車に乗った。
レスター警部の部下も馬車でついて来る。
レスター警部は父と学友で飲み友だちだった。
学校を出て父は冒険者になった。
レスター警部は王都警察に入った。
それでも友情はずっとつづいていた。
祖父母と母が死んだあとおれは父に育てられた。
父は再婚しなかった。
父はおれのたったひとりの家族だった。
その父を殺した犯人をおれはゆるせない。
レスター警部にとっても親友を殺した犯人は他の殺人犯とはちがうだろう。
王都の繁華街であるロードスター街にメリルボーン商店は建っていた。
イアン・ハンターは二十代なかばの男だった。
平凡な顔立ちで気は弱そうに見えた。
レスター警部がイアンを店の外に連れ出した。
「昨夜ドレーク・マーカスさんが亡くなりましてね」
イアンが目を見張った。
「ドレークさんが死んだ!」
イアンのおどろきようは芝居とは思えなかった。
レスター警部はイアンの反応に表情を変えずに切り出した。
「イアンさんは昨夜どうされてましたか?」
「昨夜ですか? 昨夜もいつもどおりに午後八時まで店に出てましたよ。そのあと店じまいをして店をあとにしたのは午後九時すぎでしたね。そこから家に帰りました」
「ふむふむ。ドレークにはなんの依頼をしたんです?」
言いづらそうにイアンが顔を伏せた。
「妻の浮気調査です。近ごろ妻が私と顔を合わすとビクビクするんですよ。私が話しかけるとびっくりして飛びあがったりします。食事も肉の量が半分になりました」
「はあ? 肉の量が半分になった? そりゃどういうことですか?」
「私にもわかりません。ですが私への愛が冷めたってことじゃないでしょうか? 満足に食べさせなくてもかまわないと。料理にかけるおカネが半分にへった気がします」
ううむとレスター警部がうなった。
そういうこともあるのかもしれないと思ったらしい。
好きでなくなった男に毎日料理を作るのがわずらわしいと。
レスター警部が部下たちに他の店員の聞きこみをゆだねた。
イアンの言い分が正しいかの裏を取るためだ。
そのあいだにレスター警部とおれはイアンの家に向かった。
ハンター夫妻はウエストポート街の二番地で二階の一室を借りていた。
ふたり暮らしだ。
子どもはいない。
イアンの妻のイーディスは部屋の掃除をしていた。
「こんにちは奥さん。王都警察のレスターです」
「はあ? 王都警察?」
イーディスも二十代のなかばくらいだ。
かわいい顔をしていた。
レスター警部が王都警察だと名乗ってもびくついたところはなかった。
どうしてと首をかしげただけだった。
「昨夜ドレーク・マーカスさんが亡くなりましてね」
「はい? ドレーク・マーカスさんですか? どこのドレークさんでしょう?」
イーディスはまるでわからないという表情だった。
夫のイアンはイーディスに父のことは話してないのだろう。
お前の浮気調査をドレークさんに依頼した、などと言う夫はいないに決まっている。
「奥さんは昨夜なにをしてましたか?」
「昨夜ですか? ええと。夫の帰りを待って晩ご飯の用意をしてましたが?」
「お出かけにはなりませんでしたか?」
「ええ。出かけてはいません」
「旦那さんは何時ごろに帰宅されました?」
「いつもと同じに九時半ごろですわ。それからふたりでご飯を食べて寝ましたが?」
「旦那さんもそのあと外出はされませんでしたか?」
「はい。外出などしませんわよ」
イーディスは誠実そうに見えた。
だが女は外観ではわからない。
かわいい顔をしているだけに男から誘惑されやすいかもしれない。
レスター警部とおれは二番地の建物を出た。
レスター警部が部下たちに周辺での聞きこみを指示した。
イーディスの言葉が本当かをたしかめるためにだ。
殺人の捜査はレスター警部にゆだねておれは葬儀の手配に追われた。
おれはおれ自身の手で父を殺した犯人を突きとめたかった。
だが冒険者のおれにはその技術も人手も持ち合わせてなかった。
おれは瓦版屋で父の葬式の日取りを刷ってもらった。
刷りあがった紙を酒場や各ギルドに貼り出した。
近所の家々にも配った。
父の知り合いには郵便で通知した。
そうして教会で葬式にのぞんだ。
式が終わって墓地に父のひつぎを埋めた。
参列者の中にキャロライン・ワーグナーとルイーズ・シルバーフォックスがいた。
キャロライン・ワーグナーとルイーズ・シルバーフォックスは王立冒険者学園で同級生だった。
キャロラインは子爵家のひとり娘でルイーズは公爵家の三女だ。
どちらも貴族の令嬢で冒険者学園では異例の変わり者だった。
キャロラインとルイーズは幼稚舎からの腐れ縁でふたりとも冒険者になりたがっていた。
キャロラインは十二歳の少年なみの身長しかない未成熟な身体だった。
胸もぺったんこでお尻も小さい。
最初に会ったときは少年だと思った。
自分のことをボクと呼んでいたし。
金髪をみじかく刈りこんだ美少年だとおれは思った。
おれたちが学園の二年生のときにキャロラインの両親が馬車の事故で他界した。
そのとき親戚に子爵家を乗っ取られそうになったのをおれが阻止した。
それまでキャロラインはただの同級生のひとりにすぎなかった。
貴族の令嬢と平民のおれでは話す機会もなかった。
だがおれは腕っぷしに自信があった。
助けてとすがられるといやとは言えなかった。
キャロラインの親戚たちを全員ぶんなぐってたたきのめしてやった。
二度と子爵家に口出しするなと。
そのあと王家が正式にキャロラインを子爵に認定した。
キャロライン・ワーグナー子爵の誕生だった。
ルイーズは王国でただふたりしかいない公爵の三女だ。
初代国王の弟ふたりが公爵家になった過去がある。
王家のゴールドフォックス家からシルバーフォックス家とブロンズフォックス家に分家したかっこうだ。
ルイーズはそのシルバーフォックス家の三女だった。
王国で第二位の貴族の娘だ。
長い銀髪がクルクルと巻き毛になっていていかにも貴族令嬢という感じだった。
クラスの中でルイーズと対等に話せるのはキャロラインだけだった。
おれはもちろん話したことはなかった。
しかしキャロラインがおれに恩を着て話しかけるようになったからルイーズとも会話するようになった。
ルイーズはキャロラインと正反対に女らしい体型をしていた。
豊満な胸によく発達したヒップで女の色気を発散していた。
キャロライン以上におれには近寄りがたい女だった。
母や祖母が早くに死んでおれは父とふたり暮らしだった。
女に接したことがないから女の相手は苦手だ。
特にルイーズのように女らしい女はあつかいにこまる。
おれたち三人は冒険者学園を卒業した。
おれとルイーズは冒険者になった。
キャロラインは子爵を継いだために冒険者にはならなかった。
おれとルイーズはパーティを組んだ。
だがすぐにルイーズは冒険者をやめた。
虫が多いだとか野山を歩くのが疲れるとかの不平でいっぱいになったせいだ。
公爵家の三女だからわがまま放題なわけだ。
あこがれるのと実際の冒険者はちがったということだろう。
王都で育った貴族令嬢に冒険者なんて地味な仕事は向いてないにちがいない。
そのキャロラインとルイーズが喪服に身をつつんでおれのとなりにいた。
ルイーズのうしろには侍女のコンスタンツェもひかえていた。
埋葬がとどこおりなくすんでキャロラインがおれの顔を見た。
「ところでさ。ダグはこれからどうするの? 冒険者をつづけるの?」
おれは葬式のあいだ考えていた。
父のあとを継ごうと。
「いや。冒険者はやめる。父のあとを継いで相談所をやろうと思う。そのあいだに犯人が捕まるだろう」
犯人が捕まれば裁判にかけられる。
冒険者だと泊まりの仕事もしょっちゅうだ。
裁判を傍聴することができないだろう。
おれは犯人がどうして父を殺したのか知りたかった。
「ふうん。ダグが相談所の所長かあ。似合いそうだね」
ルイーズがけげんな顔をおれに向けた。
「ねえダグ。相談所ってどんな仕事? なにをするわけ?」
おれは首をかしげた。
父は行方不明の犬や猫を捜したり浮気調査をしていた。
だが依頼人しだいだ。
王都警察と冒険者ギルドで相手にしてもらえない依頼者が来る。
マーカスよろず相談所だ。
浮気調査いたしますと広告していたわけではなかった。
「雑用だろうな。相談者しだいだよ」
「そうなんだ。おもしろそうね」
そこにレスター警部が寄って来た。
「すまないなダグ。ドレークの葬式だっていうのに犯人はまだ捕まえてないんだ。もうしばらく待ってくれ」
「いいんですよ警部。ああ。そうだ。紹介しましょう。このふたりは」
キャロラインとルイーズを紹介しようとしたおれの口をレスター警部がとめた。
「いや。知ってるよ。シルバーフォックス家のルイーズ嬢とキャロライン・ワーグナー子爵だろ」
「なんで知ってるんです?」
ルイーズもキャロラインも社交的とは言えない。
つき合いのあるのはおれくらいだ。
「王都に住む貴族とその家族は王都警察の警護対象なんだ。だから似顔絵を警察内で配ってる。街で見かけたら気をつかうようにとね」
「なるほど。キャロ。ルイーズ。こちらは父の親友で王都警察のレスター警部だ。父の事件を担当してくれてる」
おれはレスター警部をキャロラインとルイーズに紹介した。
ふたりが頭をさげるとレスター警部は墓地から出て行った。
捜査があるのだろう。
いそがしい中を葬式に来てくれたらしい。
おれはその他の参列者にあいさつを終えて帰宅の途についた。
そんなおれにキャロラインとルイーズとコンスタンツェがついて来た。
「なんでお前らがついて来るんだ? お前らの家とは逆方向だろ?」
キャロラインがおれの右腕に腕をからめた。
「いや。落ち込んでるダグをなぐさめようとね」
ルイーズもおれの左腕に腕をからませた。
「そうよ。ひさしぶりに会ったんじゃない。お茶くらいいれなさいよ」
キャロラインは二十二歳になった現在でも十二歳の少年体型だ。
みじかい金髪でズボンをはいていた。
それに対してルイーズは豊満さが増していた。
胸が学園時代よりも大きくなっていた。
おれはとまどいながら相談所にもどった。
玄関を入ってすぐが相談室で奥に台所とトイレと二階にあがる階段がある。
キャロラインが相談室を見回した。
「ふうん。ダグのお父さんはここで仕事してたんだ」
ルイーズがコンスタンツェに命令した。
「コンスタンツェ。お茶」
黒髪でおかっぱ頭のコンスタンツェがうなずいた。
「はい。お嬢さま」
コンスタンツェが奥の台所にスタスタと入って行く。
キャロラインとルイーズが来客用の長いすに腰をすえた。
しばらくしてコンスタンツェがお茶をはこんで来た。
コンスタンツェは二十五歳くらいだ。
メイド服を着ている。
王国第二位の貴族の侍女だけあってしっかりと教育がなされていた。
お茶のいれかたも完璧だった。
おれや父ではこんな味にならない。
おれたちがお茶を飲んでいると玄関の戸をたたく音が聞こえた。
「どうぞ。お入りください」
おれが声をかけると中年の紳士が入って来た。
パリッとした背広姿で鼻の下にヒゲをたくわえていた。
「あんたがマーカスさんかね? どんな相談でも受けてくれるのかな?」
おれは苦笑した。
「相談によりますね。話してください。それからです」
キャロラインとルイーズが長いすを紳士にゆずった。
コンスタンツェがお茶を紳士に出した。
紳士が大げさに手をふりながら話しはじめた。
シャツのそでが背広からのぞいた。
そで口に黄色い染みが点としてついていた。
カラシの黄色みたいだった。
この紳士はどこかでクラブサンドイッチでも食べたらしい。
とある伯爵がカードゲームのときに食べやすいからと作らせていま流行している。
おそらくかみついたときにカラシがそで口に飛んだのだろう。
「わしはダントン・ワイラーだ。きのう王立競馬で大穴をあてましてな。オーチャード街の酒場で祝杯をあげたんだよ。そのあと記憶があいまいでね。どこかで帽子とステッキを置き忘れたらしいんだ。お気に入りの帽子とステッキなんだよ。捜してもらえまいか?」
おれは目をおよがせた。
帽子とステッキを捜せ?
そんなもの見つかるのか?
「その酒場に置き忘れたということは?」
「いや。酒場を出たときはかぶってたんだ。ステッキも持ってたよ」
「そのあとどこに行ったんです?」
「それをおぼえてりゃ苦労しないよ。酔っぱらって店に入ったような入らなかったような」
本人がおぼえてない店に置き忘れた帽子とステッキ?
雲をつかむような話だ。
「馬車に置き忘れたとか?」
「馬車組合の遺失物取扱所にも行ったがね。ないと言われたよ」
そのときキャロラインが口をはさんだ。
「ワイラーさん。失礼だけどね。そのシャツはきのう着てたシャツかな?」
ワイラー氏が首をかしげた。
どういう意図かわからないようだ。
おれも意味不明な問いだった。
ワイラー氏がキャロラインの顔を見つめた。
「たしかにそのとおりだがそれが?」
「競馬に行くときは洗い立てのシャツだったんだよね? 白色がくすんでないもの」
「ああ。そうだよ。でもどうして?」
「あなたのシャツのそで口に黄色い染みがついてる。それクラブサンドイッチのカラシの染みじゃない?」
「クラブサンドイッチのカラシの染み?」
ワイラー氏が右の手首を見た。
かすかに黄色い染みがついている。
ワイラー氏が首をかしげた。
「クラブサンドイッチにかぶりついたときについたのかな?」
キャロラインが問いのつづきを投げた。
「朝からクラブサンドイッチを食べた?」
「うんにゃ。朝はトーストとベーコンエッグだった」
「じゃ昨夜の酒場でクラブサンドイッチを食べたの?」
「いいや。酒場ではエールとウイスキーを飲んだだけだ」
「ならそのあとでクラブサンドイッチを出す場所に行ったんだよ。あなたは競馬をする。ほかのギャンブルもするよね? カードゲームもするんじゃない? 大穴をあててふところによゆうがあった。酔って気分も上々だった。カードをしに倶楽部に行ったんじゃないの?」
「あっ! そ。そういえば」
「カードをするときは帽子もぬぐしステッキも置く。置き忘れたとすればその倶楽部じゃないかな?」
ワイラー氏が立ちあがった。
「指摘されれば思い出したよ。そのとおりだと思うな。で。相談料はいかほどかな?」
「銀貨二枚」
ワイラー氏が財布から銀貨を二枚つまみ出してキャロラインにわたした。
ワイラー氏が相談所をあとにしておれはあっけに取られた。
ワイラー氏のそで口の染みにはおれも気づいていた。
クラブサンドイッチはカードゲームのときに食べやすいとまで連想していた。
なのにワイラー氏が倶楽部でカードをしたと気づかなかった。
競馬をこのむ者ならカード遊びも好きに決まっている。
カードに熱くなって帽子とステッキを忘れて帰るのもよくあることだろう。
どうしてそこに気づかなかったのか?
「はいダグ。本日最初の収入」
キャロラインが机に銀貨を置いた。
おれはキャロラインの顔をまじまじと見た。
「あれで銀貨二枚は高くないか?」
食堂のランチが銀貨一枚だ。
わずか五分ほどの問答でランチ二食分はいかがなものか?
「お気に入りの帽子とステッキだって言ってたよ? それがすぐに見つかるなら安いものじゃない?」
ううむとおれはうなった。
おれが引き受けていたらどうなっただろう?
オーチャード街中の店をたずねてまわったか?
クラブサンドイッチから倶楽部にたどりつけただろうか?
首尾よくたどりつけたとしていくら請求すべきか?
一日中あるきまわって銀貨二枚は安すぎる。
だが帽子とステッキを捜すだけに金貨を要求するわけにも行かない。
銀貨二枚は妥当な額かもしれない。
おれが悩んでいるとルイーズが帰りじたくをはじめた。
「あたしこれから用があるの。となりのアレクサンドロス帝国のパリス王太子が文化交流に来るのよ。十日間の日程でね。うちはこれでも公爵だからさ。家族そろって接待をしなきゃならないのよ」
「貴族っていろいろ雑用があるんだな」
おれはルイーズとキャロラインが貴族だとともすれば忘れる。
ふたりとも気さくにつき合ってくれるせいだ。
「そうなのよ。でも雑用ってばかりでもないの。パリス王太子の婚約者はアリアドネといってね。宝石がことのほか好きなのよ。それでパリス王太子はおみやげに宝石を買って帰るつもりなの」
「はあ? それで?」
おれはルイーズがなんの説明をしているのかわからなかった。
「それでね。王家は宝物庫からめぼしい宝石を売るつもりなのよ。今年は水害の被害が大きかったからさ。王家も財政が苦しいのよね。となりのアレクサンドロス帝国はわがゴールドフォックス王国の十倍以上の国だからおカネもあるのよ」
「なるほど。金持ちのアレクサンドロス帝国に宝石を売って水害被害にあてようと?」
「そうなの。わが家も領地が水害にやられたからね。家宝の宝石をあたしたち姉妹が身につけてパリス王太子に見せて買わせようってわけよ。アレクサンドロス帝国は新興国で文化的にはおくれてるからね」
「いいカモなわけだ」
「ひっどーい。そんな言い方ってないわ。あるところからおカネをちょうだいしようってだけじゃない」
言い換えても中身は同じだとおれはあきれた。
ようは成りあがりの田舎者に宝石を売りつけようってことだ。
おれはキャロラインを見た。
「キャロはパリス王太子の接待に呼ばれてないのか?」
「ボクも晩餐会に招待されてるよ。でもひと晩だけだ。子爵だからその他おおぜいのひとりだよ」
「なるほど。王国に二軒しかない公爵家とはちがうものな」
ルイーズとコンスタンツェが帰った。
おれは備忘録にいまのワイラー氏の件を書きこみはじめた。
そこに戸をたたく音がひびいた。
「はい。どうぞ」
声をかけると四十代くらいのおばさんが入って来た。
「聞いとくれよあんた」
おばさんが入るなりしゃべり出した。
「あたしゃね。ボートマン街で仕立て屋をやってるスーザン・ハブリックってもんだけどさ。そりゃもううるさいのなんのってたまらないんだ。あれをやめさせてくんないかね」
「はあ? なにがうるさいんです?」
「となりの取り立てに決まってるじゃないか」
「取り立て? なにを取り立てるんですか?」
「決まってるだろ。借金さね」
「借金ですか?」
「そうさ。わが家のとなりはガラス工房でね。サミュエル・カーンとシオドア・カーンって兄弟がやってるんだ。サミュエルとシオドアの兄弟は腕がいい。色つきガラスの切り子細工はそりゃもうほれぼれする出来さね。王都一のガラス職人だろうよ」
口から先に生まれたようなおばさんだとおれは思った。
だから口をはさむよりうながすだけがいいだろう。
「はい。それで?」
「ところが兄弟は酒好きのギャンブル好きと来てる。タチの悪い高利貸しに借金して返せなくなったらしいんだ。それで毎日借金取りが来るのさ」
「その借金取りがうるさいと?」
「そうなんだ。昼間はこっちも仕事してるからいいんだけどさ。真夜中までガタガタさわぎやがるんだよ。うるさくて寝られやしない」
「夜中にさわぐのをやめさせろ。そういうわけですか?」
「ああ。そのとおりさ。王都警察に言っても相手にしてくれなかったんだ」
高利貸しを取り締まる法律はなかった。
夜中にさわいではいけないという法律もない。
夜中にさわいではいけないのは常識だ。
そんな非常識なやつは近所で相手にされなくなる。
つまり王都警察は口出しができないわけだ。
「わかりました。やってみましょう」
「そうかい。じゃさっそく来ておくれ」
おばさんがおれの手を引っぱって立たせた。
おばさんに引かれるままおれとキャロラインはボートマン街に馬車で乗りつけた。
「ほらほら来たよ。あいつらだ」
いかにもチンピラという服装の五人組がこちらに向かって来た。
五人はカーンガラス工房と看板がかかっている家の前で足をとめた。
「おいサミュエル! いるのはわかってるんだ! カネを返せ! 返さねえと利子がどんどんふくらむぞ! すでに金貨五百枚になってる! このままだと千枚まであっと言う間だぞ!」
王都の一般人の年収が約金貨二百五十枚だ。
二年分の年収を一気に返済するのは無理だろう。
ガラス工房の中から返事はなかった。
五人組の首謀者らしき男がまた怒鳴った。
「来月までに払わねえとガラス工房は借金のカタに召しあげられるぞ! それでもいいのか!」
たしかに昼間でもやかましい大声だった。
真夜中までこの調子でやられればたまったものではないだろう。
おばさんがおれを五人組に押し出した。
「早くあいつらに釘を刺しとくれよ」
おれは首謀者の男に声をかけた。
「おいあんた」
「なんだ! なんの用だよてめえ!」
首謀者はけんか腰だった。
「落ち着けよ。あんたの声が大きすぎるって近所から苦情で出てるんだ。静かにしてくれないか」
「なにをぉ! おれだって遊んでるんじゃねえんだ! 仕事をしてるんだよ! てめえにとやかく言われるすじあいはねえ!」
首謀者が左手でおれの胸ぐらをつかんだ。
腕におぼえがあるのだろう。
だがおれだって腕っぷしには自信があった。
このていどのチンピラなら五人相手にしたって平気だ。
「取り立てをやめろって言ってるんじゃない。昼間はかまわないから夜は静かにしろと言ってるだけだ」
「うるせえんだよてめえ! おれの邪魔をするな!」
首謀者が右手をふりあげた。
おれは胸ぐらをつかむ首謀者の左手首をがっしりとにぎりしめた。
「おれの名前を聞いたことがないか? 冒険者のダグラス・マーカスってんだが?」
「けっ! そんな名前知ったことか!」
男たちのひとりがおれの名前を聞いて顔を青くした。
首謀者の背中を指でつついた。
「兄貴。まずいですぜ。そいつ怪力のダグだ。褐色熊を素手で倒したって冒険者ですぜ」
首謀者が脂汗を流しはじめた。
おれが絞めあげる左手が痛くてたまらないのだろう。
おれはさらに力をこめた。
「日が落ちたあとの取り立てをやめてくれるな?」
首謀者が顔をしかめた。
「ちくしょう! やめる! やめるからその手を放してくれぇ!」
おれは首謀者の左手を解放してやった。
首謀者が左手をふった。
左手は血がとまってまっ白になっていた。
「次に夜中に取り立てに来やがったらな。手足の骨をことごとくへし折るぞ。よくおぼえとけ」
おれのおどしに五人の男が逃げ出した。
おばさんが感謝のまなざしでおれを見た。
「ありがとうよ。これで今夜から安眠できるさね。で。相談料はいかほどかい?」
キャロラインが口をはさんだ。
「銀貨五枚だよ」
おばさんが財布から銀貨五枚をくれた。
おばさんが自宅にもどった。
おれはこれからどうすればいいかと考えた。
気になったのはイアン・ハンターだった。
レスター警部はイアンが父と依頼の件でもめて殺害したと推測しているみたいだ。
だがおれにはイアンはただの依頼人としか思えなかった。
妻の浮気を心配する夫としか。
イアンが父を殺した犯人でなければおれはイアンの依頼を引きつぐべきではないか?
妻イーディスの浮気調査をするべきでは?
おれとキャロラインはイアンに会うべくロードスター街のメリルボーン商店に向かった。
メリルボーン商店の周辺ではレスター警部の部下たちが姿を隠して見張っていた。
おれとキャロラインはメリルボーン商店の倉庫でイアンと向き合った。
「イアンさん。父はあなたの依頼を受けたんですか?」
「そう。一日に銀貨五枚の約束で取りあえず十日間イーディスを見張るって言ってたよ」
「おれが父の仕事を引きつごうと思うんですがあらためて依頼されますか?」
「やってくれるかい? ありがたい。イーディスに浮気されてると思うと胸が苦しくてたまらないんだ。このままじゃ病気になっちまう。浮気されてると悲しいけどさ。宙ぶらりんよりはましだよ」
「わかりました。では十日間イーディスさんを見張りましょう」
おれとキャロラインはメリルボーン商店を出た。
おれの感触ではイアン・ハンターは父を殺した犯人ではなかった。
おれとキャロラインはウエストポート街の二番地に向かった。
イアン・ハンターの部屋を見張る。
レスター警部の部下たちもイーディスを見張っていた。
一時間ほどしてイーディスが部屋を出た。
買い物かごをさげていた。
夕食の買い出しに行くらしい。
繁華街の婦人服店で足をとめた。
ウインドーにかざられたマネキンの服をしばらく見つめていた。
だが店には入らずに露店に向かった。
露店で野菜と果物と肉を買った。
ひとつひとつを吟味して少量ずつを買いこんだ。
そのあとは寄り道をせずに部屋にもどった。
夜になってイアンが帰宅した。
それからもしばらく見張ったがイアンもイーディスも出て来なかった。
あしたも仕事があるから晩メシを食べて寝るのだろう。
イーディスは買い物に出かけただけだった。
男に会ってなかったし、男が部屋に来てもいなかった。
おれとキャロラインは交代でトイレを行きながらただ見張っていた。
おれはふと疑問をおぼえた。
父はひとりだ。
用を足したくなったらどうしたのだろう?
トイレに行っているあいだに対象者が出かけるかもしれない。
男が部屋に来るかもしれない。
几帳面な父がそんな穴のあいた仕事をするとは思えなかった。
そこへレスター警部があらわれて部下たちの報告を聞きはじめた。
おれはレスター警部の肩をたたいた。
「レスター警部。父はひとりで浮気調査をしてたんですかね? 相棒とか助手はいなかったんですか?」
「ああ。それかい。ドレークは浮気調査に孤児をつかってたよ」
「孤児?」
「そう。グロスナン街の五番地にある王立孤児院だ。そこの子たちを仕込んでた。わしのところにもちょくちょく使いとして来てたよ」
なるほどとおれは納得した。
翌日だ。
おれとキャロラインはその孤児院に行った。
教会のとなりが孤児院だった。
教会のシスターが孤児たちのめんどうを見ていた。
シスターに話すと男の子を連れて来た。
「エディ・アルバート。十三歳ですわ。ドレークさんはエディと気が合ってました」
エディが頭をさげた。
「お兄さんはドレークの息子かい? 目元がそっくりだな。ドレークはおれたちをガキだからってバカにしなかったよ。ダチだって言ってた」
「父はきみに浮気調査をたのんだのかい?」
「おうともさ。昼間はひとりあたりの日当が銀貨一枚でね。夜中は銀貨二枚だったよ。お兄さんもおれたちを雇ってくれるかい?」
「ああ。雇われてくれるかい?」
「いいぜ。浮気調査一件におれたち四人であたるんだ。昼間なら銀貨四枚だぜ。それでいいなら誰に貼りつくかを教えてくれ」
エディは頭の回転が速そうな男の子だった。
父が気に入ったのも納得だった。
おれはすこし考えた。
「おれたちはふたりいる。だからきみたちもふたりでいい。それでもよければ協力してくれ」
「ああ。それでけっこうだ。おれとウルスラでいい。で。対象者は?」
ウルスラは女の子だった。
十二歳だというがキャロラインより胸が大きかった。
おれはエディの仕事を観察することにした。
エディとウルスラは二階と一階に分散して見張った。
イーディスが買い物かごを手に部屋を出た。
エディはイーディスのあとをすぐに追わなかった。
イーディスが建物を離れたあとでおもむろに階下におりた。
建物の壁にチョークで矢印が書かれていた。
ウルスラが書いたらしい。
エディはその矢印をたよりに追いはじめた。
しばらくしてエディがウルスラに追いついた。
イーディスはまた婦人服店の前で服を見ていた。
エディとウルスラがイーディスのあとをつける。
イーディスは露店で野菜と果物と肉を買った。
男に会わなかったし、寄り道もせずに部屋にもどった。
男が部屋に来ることもなかった。
そのまま夜になってイアンが帰宅した。
しばらく待ってもイアンとイーディスが外出する気配はなかった。
おれはエディとウルスラに日当をわたした。
銀貨を受け取ったエディとウルスラが笑顔で帰って行った。
父に仕込まれただけあって役に立ちそうな子たちだった。
イーディスの一日はずっと同じことのくり返しだった。
部屋を出るのは買い物に行くときだけだ。
その買い物も婦人服店の前で立ちどまるだけでほかに寄り道はしない。
日曜日にはイアンとふたりで教会に出かけた。
そのあと公園でハトにパンくずをやった。
ただイアンに対してぎくしゃくしているように見えた。
びくついているというか。
おどおどとしていた。
なにかを隠しているといったふうだった。
浮気をしている妻という感じがした。
しかしイーディスに近づく男はいなかった。
どういうことだろうとおれは首をかしげた。
おれはイーディスを見張りながらしばらく放置していた瓦版を読んだ。
父が殺されたせいで瓦版を読む気になれなかったからだ。
瓦版には王都で発生した妙な誘拐事件が書かれていた。
「キャロ。ここんとこの瓦版を読んでるか? 誘拐事件だけど?」
「読んだよ。あの変な誘拐事件だろ? パン屋のオヤジが覆面をした男たちに誘拐された?」
「そう。パン屋の店じまいをしてるときにふたり組の男に誘拐されたらしい」
「それで狭い部屋にとじこめられて一日中パンを焼かされたってね」
「うまいパンを焼くまで家に帰さない。そうおどされたって話だな」
「うん。一週間目にやっと男たちを納得させるパンが焼けたってね」
「ああ。目隠しをしてパン屋にもどされたそうだ。日当として一日につき銀貨四枚をもらったとさ」
「盗られたものはなにもなかった。危害もくわえられなかった。家族に身代金を要求したわけでもない。一週間パンを焼かされつづけただけだ。おまけに日当を払ってくれた」
「妙な事件だよなあ。それのつづきがこっちの瓦版に載ってるぞ」
「どんな?」
「今度は防具屋のオヤジが誘拐されたってさ」
「防具屋のオヤジ?」
「そう。やはり狭い部屋に監禁された」
「それで?」
「こわれた防具を修理させられたそうだ。新品同然になるまでいくつも修理させられたとさ。なにも盗られず、虐待もされなかった。身代金をもとめられたわけでもない。防具を修理させられただけだ」
「防具屋のオヤジも日当をもらったの?」
「ああ。防具屋のオヤジは八日目に解放されたそうだ。八日分の日当で銀貨三十二枚をもらったってさ」
「ううむ。変な誘拐犯だねえ。世間がさわぐのを見るのが快感な愉快犯かなあ」
「防具屋のオヤジが解放されて一週間がすぎたそうだ。王都警察も捜査をしてるけどまるで手がかりがないから行きづまってる。そう書いてあるな」
そこでイーディスが部屋を出て来た。
買い物かごをさげていた。
おれとキャロラインはイーディスのあとをつけた。
イーディスの平日は買い物に行くだけだった。
男がいる兆候はどこにもなかった。
そうこうしているうちに十日がすぎた。
相談所の二階で寝起きしているおれは朝に階下におりた。
戸をたたく音がした。
戸をあけるとルイーズとコンスタンツェだった。
「えへへ。来ちゃった」
ルイーズが舌をのぞかせた。
「パリス王太子の接待は終わったのか?」
「うん。ぶじに国に帰ったわ。気前よく宝石を買ってってくれたわよ。わが家からも首飾りや指輪が売れたわ」
「そいつはよかったな」
話しているとキャロラインもやって来た。
「お前らひまなのか?」
ルイーズが口をとがらせた。
「ひまじゃないわよ。退屈してるだけ」
そこに腹の出た初老の男が馬車からおりて来るのが見えた。
玄関で立ち話をしているおれたちに男が寄って来た。
「マーカスよろず相談所はここでよろしいのかな?」
客らしい。
「どうぞ。中へ」
おれは相談室の長いすを男に示した。
男はこざっぱりとした服装で赤い宝石のついたカフスボタンでそで口をとめていた。
ルビーかなとおれは思った。
コンスタンツェが台所に入ってお茶を用意した。
男はお茶をひと口すすると話しはじめた。
「実はですな。わしは誘拐されまして」
おれはポカンと口をあけた。
「誘拐されたってあなたここにいるじゃないですか?」
「いや。その。それはそうなんですがね。わしにもよくわからない話なんですよ」
「よくわからない話をされてもねえ」
そのときキャロラインが口をはさんだ。
「まあまあダグ。もうすこし話を聞こうよ。ねえおじさん。おじさんの名前は?」
男がキャロラインをまじまじと見た。
ズボンにベストにベレー帽姿のキャロラインは少年にしか見えない。
知っている者しか女だと思えないだろう。
まして子爵だとは。
「わしはフランツ・オーリックです。オーリック宝石店の店主ですよ」
キャロラインがひたいを指で押さえた。
「オーリック宝石店? たしかリージェント街にある古い宝石店じゃ?」
「さよう。創業二百年の老舗です。王都で最も歴史のある宝石店ですな」
そこで誰かが戸をたたいた。
「ちょっと失礼」
おれは玄関に行って戸をあけた。
エディが立っていた。
「きょうもイーディスに貼りつくのかい?」
おれはオーリックさんをふり返った。
いま話しはじめたところだ。
すぐには終わらないだろう。
イーディスの浮気調査はエディにまかせてもいいかもしれない。
「きょうはエディたちだけでやってくれないか? 来客中なんだ」
「わかった。おれたちが四人で貼りつくよ。四人分の日当を用意しといてくれよな」
「ああ。たのんだ」
おれはオーリックさんのところにもどった。
主導権を取りもどそうとおれは身を乗り出した。
「で。その最も歴史のある宝石店主になにが起きたわけです?」
「よくぞ聞いてくださいました。あれはちょうど十日前でした。わしは店で客が来るのを待っておりました。しかしいっこうに客が来ません。夜もふけてそろそろ店じまいをしようかと思ったところでした。とつぜんふたりの覆面をした男が押し入って来ました」
「強盗ですか?」
「それがその。ちょっとちがいました。手にナイフを持ってたんですがね。さわぐな。おとなしくしろとわしをおどしました。わしはそんな経験ははじめてでふるえあがりましたよ。王都は治安がいいですからなあ」
「抵抗しなかったんですね?」
「抵抗なんてとてもとても。男ふたりはわしを縛りあげて目隠しをしました。それから外にかつぎ出されて馬車に押しこめられました。どこをどう走ったのかはわかりませんがかなり長いあいだ走りました。馬車がとまってわしはまたかつぎあげられました。目隠しを取られたら部屋の中にいましたよ」
「どんな部屋でした?」
「ベッドと机があるだけの狭い部屋でした。ほかにはなにもありません。タンスも本棚もありませんでした。窓は木を打ちつけて開かないようにしてありました」
「そこに監禁されたんですか?」
「そうです。男のひとりが人間の頭くらいある袋を持って来ましてね。机の上に中身をぶちまけました。それが小麦ほどのガラスの粒でした。豆よりも小さい大量のガラス粒です。赤や青や黄色など色とりどりのガラス粒でした」
「ガラスつぶ?」
「そうです。何個あるのかわからないほどの量でした。男が言うにはそのガラス粒の中に宝石がまざってる。その宝石をより分けろと言うんです。宝石も小麦粒の大きさでパッと見ただけではどれが宝石かはわかりませんでした」
「ガラスの中から宝石をより分けるんですか?」
「はい。わしも専門家ですからできないことはありません。でもあまりの数の多さにめまいがしましたよ」
「やったんですか?」
「やりましたとも」
「逃げるとか拒否するとかは考えなかったんですか?」
「考えました。でもね。瓦版を読んでませんか?」
「瓦版? どうして瓦版なんです?」
「ここしばらく王都で妙な誘拐事件が起きてるんですよ。知りませんか?」
おれは思いあたった。
「あのパン屋と防具屋の誘拐事件?」
「そう。それです。パン屋と防具屋のオヤジはわしと同じようにふたり組の覆面男に誘拐されたんです。でもなにも盗られずに危害もくわえられなかった。わしも抵抗しなければ危険はないんじゃないかと考え直したんです」
「逃げようとするとかえって危険だと?」
「そうです。おとなしく男たちの要求にこたえれば家に帰してもらえるのではないかとね。パン屋と防具屋の前例があったんでわしは逃げもしなければ抵抗もしなかったんです。抵抗して殺されちゃいやですからね」
「なるほど。それでガラス粒の中から宝石をより分けた?」
「ええ。こまかな作業でしたので十日かかりました。すべてを終えると男がカネをくれましたよ。十日分の報酬だと言って銀貨四十枚をね」
「それで家に帰してもらった?」
「はい。目隠しをされて馬車に乗せられました。最後はふたりにかつぎあげられて店の中にほうりこまれましたよ」
ううむとおれはうなった。
妙な誘拐事件だ。
どういう裏があるんだろう?
「あなたは店から拉致されたんでしょう? 店の宝石が盗まれたとか?」
「いえ。店にもどされてすぐ点検しましたよ。なにひとつ盗まれてませんでした」
「では宝石がにせものとすり替えられてたとか?」
「めぼしいものはすべて本物でした。ただすべての商品を確認できたわけではありません。数が多いですからね」
おれは疑問に感じた。
オーリックさんはどうしてここに来たのか?
なにひとつ盗まれてなくて店の宝石もにせものにされてない。
このおじさんはなにを求めてるんだろう?
「オーリックさん。おれになにをさせたいんですか? 誘拐犯を捕まえるのは警察の仕事ですよ? おれは誘拐犯を捕まえることはできません」
「気持ち悪いんですよ」
「気持ち悪い?」
「そう。なにも盗まれてない。店の宝石はすべて本物。なのになにかされたって気がしてしようがないんです。本当になにも盗まれてないんでしょうか? ただの愉快犯なんでしょうか?」
「現金を盗まれたとかは?」
「売りあげはそのまま残ってました。財布の中身も取りあげられてません」
「ではなにを盗まれたんです?」
「わからないんです。だけどなにか見落としがある。そんな気がして落ち着かないんですよ。それを指摘してほしくてここに来たんです」
おれは考えた。
パン屋のオヤジと防具屋のオヤジと宝石店の店主だ。
共通点があるのだろうか?
「誘拐されたパン屋さんと防具屋さんは知り合いではないんですよね?」
「ええ。まるで知りません。瓦版で読んだだけです」
「オーリックさんの店は創業二百年の老舗だそうですね? パン屋と防具屋も古くからの店なんでしょうか?」
「いいえ。ちがうでしょう。うちと比較して話題になるのはクッキーの老舗のホーソーン菓子店だけです。そのホーソーン菓子店も創業百五十年ですよ。百年つづくパン屋や防具屋なんて聞いたことはありません」
「ううむ。では取りあえずあなたの店を見せていただけませんか?」
「ええ。ええ。ぜひ見てください」
おれとキャロラインとルイーズとコンスタンツェは馬車をひろってオーリックさんとともにリージェント街に向かった。
オーリック宝石店は創業二百年の老舗だけあって石造りの建物に年季が入っていた。
「誘拐については王都警察に届けを出しました。捜査するとは言ってましたが本気で捜査する気があるのかは疑問ですよ」
オーリックさんがカギをあけて店におれたちを招き入れた。
「店はわしが誘拐されたときのままにしてあります」
広い店ではなかった。
こじんまりとした店だ。
店内は整然としていた。
荒らされたようすはどこにもない。
首飾りやブローチが値札をつけられてショーケースにならんでいた。
一番高いのはダイヤの首飾りの金貨三百枚だ。
ブローチの最高額はサファイアで金貨百枚の値札がついていた。
指輪は箱にぎっしりとつめこまれている。
見た感じでは盗まれたものがあるとは思えない。
「オーリックさん。あなたはひとりで店をやってるんですか? 使用人は?」
「使用人をやとう余裕なんてありませんよ。宝石店というと儲かる仕事だとみなさん思いますがね。宝石なんて毎日売れるものじゃないんです。八百屋より儲からない仕事かもしれません。景気が悪くなるととたんに売れなくなるんですよ」
「いまは景気が悪いんですか?」
「水害のせいで物価があがって景気は悪いですね」
「ふむ。では宝石を盗んだとしてですね。現金に換えるのは簡単でしょうか?」
「いや。むずかしいでしょうね。この業界はせまいんです。指輪や首飾りは店独自のデザインがあります。どこの店の商品かひと目でわかるはずですよ。盗品を買う同業者はいないでしょう」
「台座からはずして石だけを売るというのは?」
「裸石というのはよほど大きなもの以外は二束三文なんです。得体の知れない者からわざわざ買う業者はいませんよ。この業界は信用が第一ですからね。大きな石は同業者に知れわたってますから買い手はいませんし」
「なるほど。では質屋に持ちこむというのは?」
「警察はまっ先に質屋に手配をまわします。引き受ける質屋はないでしょうね」
「とすると宝石を盗んでも現金に換えられない。宝石をほしがる女に贈るためにひとつふたつを盗んだというのは?」
「それはあるかもしれません。わしも店の全商品をおぼえてるわけじゃないのでね。しかし値の張る品はすべてありましたよ。盗まれたとしたら安い品です。日当の銀貨四十枚を払うなら買えばいいだけだと思いますがね」
「ふうむ。ではやはりなにも盗まれてないのかも」
犯人はおかしな誘拐犯でガラスの粒から宝石をより分けさせるためだけにオーリックさんを誘拐したのかも。
そう考えてひとつ気づいた。
「オーリックさんがより分けた宝石って高価なものなんですか?」
「いえいえ。クズみたいな石ばかりでしたよ。全部あわせても日当としてもらった銀貨四十枚には届きませんね。あんな石を買い取る人はいませんよ」
そんなクズ石をより分けさせてどうするんだろう?
ますますわからなくなった。
おれは首をかしげた。
店内をすみからすみまで見たがおかしな点はなかった。
盗まれたものは見あたらない。
「気づいた点があれば連絡します。しばらく時間をください」
おれはそう言ってオーリック宝石店を出た。
とほうに暮れたというのが正直なところだった。
おれはオーリックさんの件は置いておいてイアン・ハンターに会いに行った。
キャロラインとルイーズとコンスタンツェがぞろぞろとついて来る。
「ハンターさん。約束の十日がすぎました。でも奥さんに浮気の形跡はないですよ? どうしますか? 調査をつづけますか?」
「そうだなあ。あと十日つづけてくれないか? 妻がびくつくのと食費が半分になってるのは変わらないんだ。たまたまこの十日は男と会わなかっただけかもしれない」
帰りがけにハンターが二十日分の調査費として銀貨を百枚くれた。
妻の浮気調査に力を入れろということらしい。
メリルボーン商店を出た。
おれの頭にはオーリックさんの誘拐事件が重くのしかかっていた。
創業二百年の宝石店の店主を誘拐しといて宝石を盗んでない。
現金も盗られなかった。
危害をくわえるわけでもない。
大量のガラス粒から宝石をより分けさせただけだ。
日当まで払っている。
犯人のメリットはなんだ?
どんな得がある?
より分けた宝石は日当にも満たないクズ石だった。
そんな作業に日当を払うなんておかしいだろう?
犯人は王都をさわがせたかっただけか?
愉快犯がパン屋と防具屋と宝石店のオヤジをそれぞれ誘拐しただけなのか?
瓦版に書かれたのを読んでニヤニヤと笑っているのだろうか?
オーリックさんはなにか見落としがあると言った。
ではその見落としとはなんだ?
そのときルイーズがつぶやいた。
「オーリック宝石店ってさ。老舗のわりに高価な品がなかったわね。最高額が首飾りの金貨三百枚だったわ。パリス王太子が来てるんだからさ。もっと高価な品を用意しとけば買ってもらえたかもしれないのにね。パリス王太子は婚約者に贈るためだから安い宝石は買わなかったもの」
キャロラインが声をあげた。
「あっ! それかも!」
おれはキャロラインをふり返った。
「キャロ。なにかひらめいたのか?」
「うん。ちょっとわかった気がする。ルイーズ。問い合わせてほしいんだけどね」
ルイーズが足をとめた。
「なにを?」
「アレクサンドロス帝国のパリス王太子に早馬を出してほしい。ゴールドフォックス王国に滞在中に王都の宝石商で買い物をしなかったかってね。したならどこの宝石商で買ったかもたずねてよ」
ルイーズがけげんな顔をした。
「なにそれ? アレクサンドロス帝国のパリス王太子に早馬を出すの? 返事が来るまでに十日近くかかるわよ?」
「しかたないさ。その答えがないと先に進めないんだから」
「ふうん。わかったわ。訊いたげる。コンスタンツェ。手配なさい」
コンスタンツェがうなずいた。
「はい。お嬢さま」
コンスタンツェがてきぱきと飛脚屋で手配をすませた。
おれたちは相談所にもどった。
コンスタンツェがお茶をいれた。
おれはキャロラインの顔を正面から見た。
「どういうことなんだよキャロ? アレクサンドロス帝国の王太子がなにか知ってるのか?」
キャロラインがさとす顔になった。
「それがわからないから問い合わせたんじゃないか。返事が来るまで待てよ」
ううむとおれはうなった。
なんらかの推理を組み立てているがいまの時点では言えないらしい。
しかたなくおれは備忘録にイアン・ハンターとフランツ・オーリックの件を書くことにした。
ルイーズとキャロラインはひまなのか備忘録のAから読みはじめた。
その日はほかに客がなかった。
おれが寝る直前にエディたち四人がやって来た。
「イーディスはきょうも買い物に行っただけだったよ。男の影なんかこれっぽっちもなかった。浮気はしてないんじゃないかな?」
「ご苦労さま。あしたもたのむな」
おれは本日分の銀貨四枚をわたした。
エディたちはそれぞれ銀貨一枚を手にニンマリして帰って行った。
そこから十日はこれという出来事もなくすぎた。
犬が行方不明になった件がふたつあっただけだ。
十日目にルイーズが手紙を手にやって来た。
アレクサンドロス帝国からの早馬が着いたらしい。
ルイーズがキャロラインに手紙をわたした。
キャロラインが読んでにっこりと笑った。
どや顔になったキャロラインがおれに手紙をまわした。
「なになに。たしかに余はゴールドフォックス王都で宝石商に行った。宝石をちりばめた宝冠を金貨五千枚で購入した。店はリージェント街のオーリック宝石店だ」
王都の一般人の年収が金貨二百五十枚くらいだ。
金貨五千枚は一般人の二十年分の年収にあたる。
一般人にすれば大金だ。
おれなど金貨二十枚が一度に手にした最高額だ。
ちなみに銀貨十枚で金貨が一枚になる。
おれは首をかしげながら手紙をどや顔のキャロラインにもどした。
「この手紙でなにがわかるんだ? 王太子が金持ちだってことはわかるが?」
キャロラインが眉をひそめた。
「ダグ。しっかりしてよ。これに真実がぜんぶ書いてあるんだよ」
「はあ? なんの真実だ?」
「オーリックさん誘拐事件の裏にある真実だよ」
「はい? どういうことだ?」
キャロラインが肩をすくめた。
やれやれと。
「いいかいダグ。犯人はなんのためにオーリックさんを誘拐したんだい?」
「なんのため? ガラス粒から宝石をより分けさせるためだろ?」
「日当にも満たないクズ石をかき集めてどうするのさ? ちがうんだよ。オーリックさんを誘拐した犯人はさ。オーリックさんの宝石店を空にしたかったんだよ」
「カラにしたかった?」
「そうさ。無人のオーリック宝石店がほしかったんだ」
「無人のオーリック宝石店がほしかった?」
「うん。パリス王太子が王都に滞在中の十日間にオーリック宝石店を無人にしておきたかったんだ」
「はあ? パリス王太子とオーリックさんはどうかかわって来るんだ?」
「もぉ。にぶいなあ。パリス王太子はリージェント街のオーリック宝石店で金貨五千枚の宝冠を購入したと書いてる。その十日間オーリックさんは誘拐されてたんだよ? 狭い部屋に監禁されてガラス粒から宝石をより分けてたんだ」
「いや。それはそうだが?」
「しっかりしろよダグ。オーリック宝石店に従業員はいないんだぜ。オーリックさんがいなければオーリック宝石店は無人なんだよ? 誰がパリス王太子に金貨五千枚の宝冠を売ったのさ? オーリックさんは監禁中だよ。誘拐犯が売ったに決まってるじゃないか」
「は? そういえばそうか。でもそうするとどういうことになるんだ?」
「誘拐犯はきっとこう考えたんだろうね。パリス王太子の婚約者は宝石が大好きだ。そのために王太子は宝石を買いに行くに決まってる。行くとすれば王都で最も老舗のオーリック宝石店にも行くだろう。創業二百年だからなと」
「だけどキャロ。王家や公爵家が宝石を売るって話だったぞ? 一般の宝石店にも行くだろうか?」
「行くと思うよ。わざわざ隣国まで来たんだ。王都のめぼしい宝石店にも寄るはずだよ」
「それもそうか」
「誘拐犯は金貨五千枚の宝冠を売りつけたかったんだ。だけど名もない平民が宝冠を持って王太子に売りつけに行っても相手にされないだろ? それでオーリックさんを誘拐したのさ。オーリックさんの店に宝冠をかざるためにね」
「いや。キャロ。平民が二十年分の年収にあたる宝冠を持ってるのかい? そんな金持ちが名もない平民なわけないだろう? そりゃおかしいよ」
「おかしかないさ。そのためにほしかったのがオーリック宝石店だよ。創業二百年の看板が必要だったんだ。オーリックさんはなにも盗まれてないと言った。でも本当は盗まれてたんだよ。店の信用という一番大事なものをね」
「信用? どうやってそんなものを盗む?」
「おそらくその宝冠には宝石がひとつもついてないんだよ。宝石に見せかけたガラス玉なんだ。創業二百年の店で売られてる宝冠に宝石がひとつもついてない。そんなことは誰も思わないよ。ちがうかい?」
あっとおれは声をもらした。
「詐欺か?」
「そう。ガラス玉を宝石だとだまして売りつけるためにオーリック宝石店が必要だったのさ。詐欺の舞台にえらばれたのがオーリック宝石店なんだよ。創業二百年の老舗のね」
「そのために店主のオーリックさんが邪魔だった? だからオーリックさんを誘拐して店を乗っ取った?」
「うん。平民が年収の二十年分にあたる宝冠を持ってたんじゃないんだ。平民でも買えるガラス玉で作った宝冠だったんだよ」
「王太子は創業二百年の店だからと信用して宝冠を買ったわけか?」
「きっとそうだよ。まさか宝石店の店主が誘拐されてて詐欺師が店主になりすましてるなんてうたがいもしないだろうからね」
「詐欺師はまんまとガラス玉で金貨五千枚を手に入れた? 一般人の年収の二十年分にあたる大金を?」
「ボクはそう推理したけどね。オーリックさんを誘拐した犯人はふたり組だった。ひとりがオーリックさんを見張ってもうひとりが宝石店で店番をしたんだろうさ。あとはカモである王太子が来るのを待つだけだよ」
「その店番中にオーリックさんの知り合いが店に来たらどうするんだ? バレないか?」
「オーリックさんは出張買い取りに行ったとでも言えばいいさ。王都の老舗宝石店に地方貴族が買い取りを依頼するのはよくあるだろうからね。特に水害でおカネにこまったら宝石を売るだろうさ」
「なるほど。臨時に雇われたとするわけか。じゃその宝冠は婚約者に贈られたんだろ? 婚約者は気づかなかったのか? ガラス玉だってことに?」
「よくできた宝冠なんじゃないかな? ガラス玉だって気づかないほどに? それにさ。創業二百年の宝石店で買ったって言われてニセモノかもってうたがう女がいるかな? おそらく詐欺師は鑑定書もつけて売ってるはずだよ。鑑定書まである宝冠がニセモノだってうたがう令嬢がいるかねえ? 次期国王である王太子からの贈り物なんだぜ?」
「なるほど。するとどうなるんだ?」
「ボクらは犯人を逮捕に行こう」
「はあ? 犯人を知ってるのか?」
「知ってると思う。王都で一番のガラス職人で借金にこまってる兄弟がいたじゃない?」
「あっ! カーン兄弟!」
「そのとおり。さあレスター警部に言ってボートマン街に乗りこもう」
おれたちはボートマン街のカーンガラス工房の前に立った。
レスター警部とその部下たちがガラス工房を取り巻いた。
道行く人たちを遠ざけて工房に踏みこむ準備を警官隊がととのえた。
その物音に工房の隣家からおばさんが出て来た。
仕立て屋のスーザン・ハブリックさんだ。
おれは気になったことを訊いてみた。
「ハブリックさん。あれから借金の取り立てはどうなりました?」
「それがさ。十日ほど前からぷっつりと来なくなっちまったんだ。借金を返したのかねえ? あんなに大金だったのにどうやって返したんだろねえ?」
なるほどとおれはキャロラインを見た。
パリス王太子から金貨五千枚を巻きあげたら借金は返せるだろう。
キャロラインの推理どおりらしい。
レスター警部が工房の戸をたたいた。
だが応答はなかった。
レスター警部が警官隊に合図をした。
警官隊がいっせいに戸をたたきやぶった。
レスター警部たちが工房になだれこんだ。
「サミュエル・カーン! シオドア・カーン! 誘拐の容疑でお前たちを逮捕する!」
ふたりの男が縄を打たれて引き出された。
ふたりは囚人の護送用に頑丈に作られた馬車に押しこまれた。
おれはほっと息を吐き出した。
「これで事件は解決だな。でもキャロ。なんで誘拐容疑なんだ? 詐欺容疑じゃないのか?」
キャロラインが眉をしかめた。
「しーっ。それは大声で言っちゃだめ」
「はあ? なんでだ?」
「相談所にもどって説明したげる。往来でそれは言っちゃだめ」
相談室でコンスタンツェがお茶を出してくれた。
「あのねダグ。世の中には詐欺に引っかかると怒り出す人がいるの。だまされて笑い飛ばせる人はまれなんだよ」
「はい? それが?」
「特にね。今回の被害者は隣国の王太子だよ。次期国王だね。そんなえらい人が詐欺師にだまされたわけだ。宝石とガラス玉の見分けがつかなかったんだよ。世間はなんと言うかな?」
「クスクス笑う?」
「そう。笑い者にするだろうね。次期国王が笑い者にされてだまってると思う? くやしくて腹が立ってしようがないだろうさ。しかもそんなガラス玉の宝冠を婚約者に贈ったわけだよ。パリス王太子はその怒りをどこにぶつけるだろうね?」
「どこって? 詐欺師にぶつけるに決まってるじゃないか」
「詐欺師ふたりを縛り首にしても世間の笑いはとめられないよ。婚約者からも侮蔑の目で見られる。怒りがおさまらなければゴールドフォックス王国そのものに怒りをぶつけるんじゃないかな?」
「それって?」
「戦争だよ。最悪は戦争になるよ」
「おいおい。王太子の目がくもってただけだろ? 詐欺に引っかかる自分の不明じゃないか?」
「理屈はそうでも感情はそうじゃない。腹の虫がおさまらなければどこに怒りをぶつけるかわかったものじゃないよ。特に王太子だぜ? わがまま放題に育てられたに決まってる。ゴールドフォックス王国にだまされたって思いこんでもおかしかないよ?」
おれはルイーズを見た。
公爵家の三女でこのわがままぶりだ。
巨大な帝国の御曹司ならさらにわがままだろう。
腹立ちまぎれに戦争をはじめてもおかしくない。
「ということは?」
「宝冠に不備があったとかの理由をつけて宝冠を送ってもらうべきだね。それでオーリックさんにガラス玉と宝石を入れ替えてもらう。その宝石の代金は王家が持つべきだろうね。戦争が回避できるとなれば宝石代なんて安いものだよ。オーリックさんも店の信用に傷がつくのをふせげる」
「つまりガラス玉でできた宝冠を宝石でできた本物の宝冠にするってことか?」
「秘密裏にね。それ以外に王太子の怒りをなだめる方法はないだろうさ。アレクサンドロス側がガラス玉だと気づかないうちに宝石に取り替えないと」
「それで詐欺容疑で逮捕しなかったのか?」
「そうだよ。詐欺容疑だとことがおおやけになるからね。帝国の王太子が一杯くわされたなんておもしろい事件を瓦版が書かないわけがないもの。戦争になってもおかしくない事案だからってレスター警部を説得したんだ」
「なるほど。でもなキャロ。カーン兄弟の狙いはオーリック宝石店を空にすることだったんだろ? パン屋と防具屋の誘拐は関係ないじゃないか。パン屋と防具屋は別人の犯行かい?」
「いや。カーン兄弟の犯行だろう」
「じゃパン屋と防具屋はなんで誘拐されたんだい? パリス王太子にガラスの宝冠を売りつけるのが目的だろ? パン屋と防具屋がパリス王太子とどうかかわって来るんだい?」
「パリス王太子とかかわりがない。その点が重要なんだよ」
「はあ? どういうことだい? パリス王太子を引っかけるためだろ?」
「そうだよ。パン屋と防具屋の誘拐にはふたつの目的があると思う。ひとつはオーリックさんに抵抗させないためさ。パン屋と防具屋は誘拐されてもなにも盗られなかった。危害もくわえられてない。おとなしく言うことを聞けば家に帰してもらえる」
「そういう前例を作ることが目的だった?」
「そう。瓦版でその話を読んだオーリックさんは逃げる努力も抵抗もしなかった。犯人はふたりしかいないから抵抗されるのがいやだったんだろうさ。逃げられてもこまるしね」
「じゃもうひとつの目的は?」
「王都警察が乗り出したときにさ。宝石店の店主だけが誘拐されたとなれば警察は裏があるんじゃないかとかんぐる。ちょうど宝石を買いにパリス王太子が来訪中だよ。パリス王太子とオーリック宝石店がむすびつけば詐欺行為がバレる危険がある」
「パン屋と防具屋の誘拐という事件を先に起こしておけば警察は愉快犯のしわざと思いこむ?」
「うん。また同一犯による妙な誘拐事件だとね。パリス王太子とオーリック宝石店がつながるのをふせぐためにパン屋と防具屋の誘拐事件は必要だったんだよ。パリス王太子とのかかわりを発覚させないためにね」
「木の葉を隠すには森の中か?」
「そう。宝石店という部分を目立たなくするためにパン屋と防具屋の誘拐事件にまぎれこませたんだ。宝石店単独よりは目立たないだろ?」
「木の葉が一枚だけだと目立つ。だが多くの木の葉の中にまぜとけば気づかれない。そういうことだな? するとガラス粒から宝石をより分けさせたのは?」
「ひとつは時間をかせぐためだろうね。誘拐してただ監禁するだけじゃオーリックさんが不安になる。仕事をさせておけば不安をおぼえるひまがない」
「時間のかかる作業をさせてパリス王太子の滞在中の十日間監禁する理由を作った?」
「ああ」
「十日間かかる作業が必要だっただけか?」
「いや。さらにはオーリックさんに裏を考えさせないためだろうね」
「裏を考えさせない?」
「そうだよ。ただ監禁したらオーリックさんはその退屈な時間にこう考える。カネも宝石も盗られない。危害もくわえられない。身代金も要求されない。じゃどうして自分は誘拐されたのか? その間オーリック宝石店は無人だ。ちょうどパリス王太子が来てる。パリス王太子がオーリック宝石店に買い物に来るのではないかとね」
「オーリックさんが詐欺に気づく可能性があった?」
「そのとおり。ガラス粒から宝石をより分けさせるとオーリックさんはそのために誘拐されたんだと納得する。詐欺から目をそらすためのニセの目的だね。さて。もうひとつの事件も解決しておこうか」
「もうひとつの事件?」
「そうさ」
キャロラインがおれたちを馬車に乗せた。
向かったのはロードスター街に建つメリルボーン商店だ。
キャロラインがイアン・ハンターを店から連れ出した。
馬車の御者にキャロラインが指示した。
「ウエストポート街の二番地にやってよ」
御者がうなずいた。
キャロラインがイアンに向き直った。
「イアンさん。奥さんに男の影はいまのところないんだ。浮気じゃないと思う」
「でもきみ。妻は私を見るとびくびくするんだよ。肉の量も半分にへらされた。浮気じゃないとすればなんなんだい?」
「それをいまから聞きに行くのさ」
ウエストポート街で馬車をおりた。
ハンター夫妻の部屋をエディとウルスラが見張っていた。
キャロラインがエディの背中をつついた。
「イーディスさんは部屋にいる?」
「いるよ。きょうはまだ出かけてない」
部屋に入るとイーディスがイアンの顔を見て引きつった。
「あ。あなた」
キャロラインが小首をかしげてイーディスの表情をうかがった。
浮気ではないとすればイーディスはなににおびえているのか?
「イーディスさん。あなたは婦人服にきょうみがあるよね?」
ビクンとイーディスの全身が跳ねあがった。
あたりだとキャロラインがこぶしをにぎった。
「あなたは高価な婦人服を衝動買いしたんじゃない?」
ビクビクとイーディスの頬がけいれんした。
「それで生活費がたりなくなった。だから食費を半分に切りつめざるをえなくなった。旦那さんにそれがバレるのが怖くてビクビクしてる。ちがうかな?」
イーディスの目から涙がこぼれはじめた。
「ごめんなさーい。あなたぁ」
泣いているイーディスをイアンが抱きしめた。
「ばかだなあ。そんなことだったのか。言ってくれればよかったのに」
「だ。だってぇ」
抱き合いはじめたハンター夫妻を置いておれたちは部屋を出た。
部屋の外でおれはキャロラインをふり返った。
「あれで解決なのか?」
「浮気についてはね。奥さんの衝動買いがエスカレートすればまた依頼が来るんじゃない?」
「衝動買いをやめさせるにはどうすればいいかって? そんな案があるのか?」
「ないね。子どもができたらおさまるんじゃない?」
「子どもにカネをつかうから?」
「そう。女は母親になれば子どもが第一になるよ」
「なるほど」
おれはエディを指で招いた。
「浮気調査は終わりだ。ご苦労さん」
エディに銀貨をあたえた。
「毎度あり。また雇ってくれよな」
「ああ。よろしくたのむよ」
それで事件はすべて解決だと思っていた。
だがちがった。
三日目の朝にレスター警部が駆けこんで来た。
「殺された! 殺されたんだ!」
おれとキャロラインとルイーズは朝メシを食っていた。
コンスタンツェが作ってくれた朝メシだ。
コンスタンツェはできないことがないのではないかと思えるほど万能だった。
「落ち着いてくださいよ警部。誰が殺されたんです?」
レスター警部がコンスタンツェの手わたしたお茶をグイッと飲みほした。
「カーン兄弟だ! カーン兄弟が殺された!」
「えっ? どこで?」
「ボートマン署の留置場だ! すぐに来てくれ! 現場を見てほしい!」
おれたちはボートマン街に着いた。
留置場は地下に作られていた。
見張りの警官が階段をとうせんぼしていた。
レスター警部の顔を見て警官が階段をあけた。
おれたちは地下におりた。
鉄格子の牢がならんでいた。
その一番奥の牢でふたりが倒れていた。
「金虎草の毒だ。ドレークのときと同じだよ。吹き矢でやられたんだろうさ」
おれは階段をふり返った。
「見張りの警官がいたんでしょう? 気づかなかったんですか?」
「見張りは眠らされてた。首にチクッと来たと思ったら眠くなったそうだ」
「それも吹き矢ですか?」
「おそらくはな。毒矢じゃなく眠り薬だったらしい。それよりここを見てくれ」
レスター警部が牢の中に入った。
ひとりの男の手の指をうながした。
男の指の爪は牢の床を引っかいていた。
「S?」
引っかいた跡はSの字に見えた。
「ダグもそう見るか。わしもSにしか見えん」
おれとレスター警部は顔を見合わせた。
男は毒に犯されて最後の力でSの字を書いたのだろう。
だがSとはなんだ?
「黒幕がいたんじゃないかな?」
おれはキャロラインの顔を見た。
「どういうことだ?」
「だってさ。ギャンブル好きで酒好きな兄弟が借金まみれになったわけだよ? パリス王太子をカモにした手際を考えてみなよ。まずパン屋と防具屋を誘拐して布石を打つ。次にオーリック宝石店を空にして王太子が来るのを待つ。ガラス玉の宝冠を作ってね。おそらくその宝冠は出来がよかったはずさ。王太子がかならず買いたがるほどね。つまり手のこんだ詐欺事件だよ。そんなややこしい詐欺を考える頭があればさ。ギャンブルで借金を作るって変じゃない?」
「詐欺で金儲けができる?」
「またはインチキでギャンブルにも勝つ。ボクはそう思う」
「じゃこのSってのは?」
「黒幕の名前か愛称じゃないかな? そのSがカーン兄弟に今回の詐欺を一から教えたんじゃないかい? そして分け前をがっぽり取った」
「カーン兄弟が逮捕されたから口封じに殺した?」
「うん。よけいなことをしゃべられるとこまるんだろう」
「おれの父を殺したのもそういうことか?」
「ダグのお父さんがSの身近にせまってたんじゃないかな? Sのノートが盗まれてたんでしょ? そのノートにSの正体にふれるなにかが書かれてたのかもしれないよ」
「ちくしょう!」
ルイーズがおれの肩に手を置いた。
なぐさめるように。
おれは泣きたくなかった。
だが涙がにじんだ。
くやしくてたまらなかった。
おれが冒険者でなければ父のそばにいてやれただろう。
むざむざ殺させることはなかったはずだ。
その後レスター警部が捜査をしたが新しい事実は出て来なかった。
Sについてはなにもわからない。
カーン兄弟は黙秘したまま殺された。
カーン兄弟がせしめた金貨五千枚は二百枚しか残ってなかった。
高利貸しに借金を返してあとはギャンブルにつかったらしい。
それらを計算すると二千五百枚ほどになった。
おそらく残りの二千五百枚はSのふところに入ったものと思われた。
おれたちはフランツ・オーリック氏に事件の報告をした。
ルイーズが王家からの使いを同行させてインチキの宝冠を本物の宝冠にする提案をした。
オーリック氏がまっ青な顔でそれに同意した。
戦争もこまるがそれ以上に自身の店が詐欺の舞台に使われたことが苦しいのだろう。
「よくぞわが宝石店のほこりを守ってくださいました。お礼にうちの店の品をどれでもひとつお持ちください。おひとりにひとつずつさしあげます」
キャロラインが手をあげた。
「それはいらない。相談料として銀貨二十五枚をちょうだい」
エッとオーリック氏がキャロラインの顔を見た。
「銀貨二十五枚? それだけでいいんですか?」
「うん。アレクサンドロス帝国までの早馬が銀貨二十枚だったんだ。それに通常の相談料が銀貨五枚。だから銀貨二十五枚」
オーリック氏が銀貨をかぞえてキャロラインにわたした。
そんな安値で金貨五千枚がかかわる詐欺を解決していいのかという顔をオーリック氏は最後までしていた。
おれたちは相談所にもどった。
誰も口をきかない。
コンスタンツェがお茶をいれてくれた。
おれは備忘録に今回のてんまつを書きこみはじめた。
どうやればSに迫れるだろうかと考えながらだ。