2.新たな友人ができました
後に聞いた話によると、レビオンの新作公演は半刻ほど遅れて始まり、貴族含めものすごく怒りムードだったらしい。しかし始まってみると誰一人として席を立つことなく、スタンディング・オベーションにて閉幕したらしい。評論家たちは賛否両論の意見を喧噪していたが、概ね良好な評価だった。
夜勤を終えて若干ふらつきながら家に戻ったおれは倒れるようにしてベッドに入ったが、興奮は冷めやらなかった。新鋭の作曲家の新作が上演されていたのに、落ち着いていられるかというものだ。
とはいえ仕事中だし、レビオンほどの人気作曲家のチケットが取れるはずもないので、大人しく再演を待つか、聴いてきた音楽家たちが場末のホールで演奏するのを聴きに行くかしか選択肢はない。
そんなことよりスコアを手に入れて自分で演奏してみたいと思うのは、前世の記憶を取り戻したからだろう。前世のことがなければ、聴きたいと思ったとしても、演奏してみたいとは思わなかったはずだ。演奏するのは貴族か、平民のある程度余裕のある家庭以上じゃないと難しい。なんたって楽器が手に入りにくいから。
しかし幸運なことにおれがいま住んでいるのは無音街の裏手。音楽関係を仕事にしている人が多く住んでいる街だ。なんとかツテを作ることが出来れば、中古の楽器を手に入れることができるかもしれない。
休みと言ってもまずは掃除洗濯と生活を維持することで時間が費やされるのはどこの世界でも同じだ。特に平民の一人暮らしなら二十一世紀の一人暮らしと大差はない。
王都防衛軍とかいう御大層な名前のついた団体に所属していても、貰える給与は大したことがない。それでも住む場所は宿舎という名目で家賃はかからず、制服は支給される。最低限の生活は保証されているということだ。
二十一世紀の日本人の感覚からしたら一人暮らしには贅沢な広さの宿舎を掃除しながら、どこへ行けば中古の楽器が入手できるか考えてみる。
無音街には詳しい自負があるけど、今まで楽器を手に入れるという観点で街を見たことがなかったから、考えるだけでは中々理想的な店が思いつかない。楽器店はいくつか思いつくけど、どれも新品を取り扱う高級な店だ。もしかしたらそこでも中古品を取り扱っているかもしれないが、それも安くはないだろう。
掃除の手を緩めずにあれこれ考えていると、意外と早くに掃除が終わった。目標があることはいいことだなときれいになった部屋の中を見回す。きれいになったと言っても、元がそれほど汚れていたわけではないのだけど。物も少ないし。それでも掃除をしておくに越したことはない。
「さて、出掛けるか」
今日の目標は中古の楽器の相場を見繕うことと、レビオンの新作のスコアを手に入れること。前者はとりあえず様子見といったところだけど、後者は出来れば入手したい。昨日の今日じゃ値段は高いし非正規版だろうけど、正規ルートのスコアが出るまで待っていられない。
わくわくを抑えきれずにやにやと表情筋が緩むが、堪えることが出来なかった。仕事中じゃないから仮面がなく間抜けなにやにや顔は野放しだったけど、誰もこんな冴えない平民を見ているわけがないと言い聞かせて家を飛び出した。
無音街の楽器店をいくつか見回り、細路地のいかがわしげな店もいくつか覗き、おれは肩を落として家へと向かっていた。
というのも、中古楽器は想像したよりも値段が高かったし、何より楽器店が平民だと人目で分かるおれを見てあからさまに商売をする気がないという態度で来られた。上から目線だわどうせ扱いも分からないだろうと小馬鹿にしてきて、気分は最悪だ。
おまけとばかりに昨日のレビオンの新作のスコアはどこを巡っても取り扱っていないの一点張り。レビオンじゃない作曲家の新曲なら確実に翌日には耳コピ非正規スコアが出回っていたのに。一体どういうことなのだろうか。
意気消沈したおれは昼食を取る気にもならず、夕方頃に家の前へと帰ってきた。期待した分失望が大きく、もたもたとポケットの中の鍵を探す。鍵を見つけてさあ鍵穴へ差し込みましょうといったタイミングで、ガチャリとドアが開く音がした。
目を丸くして固まったが、開いたのはうちのドアではなくて、隣のドアだった。
「あ、どうも……?」
この宿舎に住んで数年経つが、驚くべきことにまだ一度も隣人と顔を合わせたことがなかった。人が住んでいる気配はあるから空き家ではないのだろうと思っていたが、本当に生きた人間が住んでいるとは正直思っていなくて、まるでおばけでも見たかのような反応になってしまった。
「あーっと、隣の?」
隣のドアを開け放った人物も概ねこちらと同じような反応だった。お互い生活リズムがズレているせいで、存在を感じてはいても、そこに生身があると考えていなかったようだ。間抜けながらおれらはそのままの状態でお互いを見つめ合ってしまった。
が、そこでおれははたとお隣さんに見覚えがあるような気がして首を傾げる。
「あれ? あなたどこかで……」
虚を突かれた顔をしていたが、その男は年齢およそおれと同じぐらいで、そこそこ整った顔立ちをしていた。平々凡々な自分と比べてしまうと少しでも見栄えがいいとイケメンに見えてしまうのが悪い癖だ。
お隣さんは顔こそいいものの、着ている洋服は百歩譲っても外に着ていくような代物ではなかった。よれよれだしちょっと変色しているように見えるし、ところどころ擦り切れているのも見える。貧乏だからずっと着ている服というよりは、外見に興味が無さすぎていつも同じ服を着ているといった雰囲気。不潔ではないけど清潔感があるかと言われたらちょっと考える。
そこまで考えてふと思い当たった。このよれた服装にだいぶ引っ張られたが、この顔だけを見ると、昨日見かけた濃紺の上下を着た男のような気がしてくる。音楽堂に連れて行ったあの男だ。暗がりで見ただけだから本当に同一人物かと聞かれたらそんな自信はないけど、同じ系統の顔だと思う。
「昨日の、ああ、ええと、音楽堂に連れて行った衛兵覚えてます?」
「え? あれ?」
こくこくと頷くと、お隣さんはエーッと驚いた声をあげて表情を和らげた。人懐こそうな笑みは昨日見た男と同じ顔だ。本人の反応からして、同一人物で間違いなさそうだ。
正直、着ている服のギャップがすごすぎて、我ながらよく同一人物だとわかったなと感心してしまう。昨日は貴族だと言われても納得してしまいそうなほど高価そうな上下揃いの衣装だったのに。
「えー、そんな偶然あるんだ? へえ、面白いなあ。俺はワレン。もうずっとお隣に住んでたのに初めましてだよな?」
「初めましてですね。おれはコーフォ」
と普通に自己紹介をし始めて、ハッと気がつく。昨日ワレンは音楽堂にいたはずだ。ということはつまり、レビオンの新曲を耳にしたはずだ。これはまたとない機会に違いない。
「不躾で申し訳ないんですけど、もしかして昨日の公演見てます? もし万が一スコアとか持ってたら見せて頂きたいなあ、なんて……」
「コーフォって衛兵なんだろ? 音楽に興味が?」
意外そうに聞き返されて、思わず苦笑してしまった。そうだろう、そうだろう。衛兵なんてやってる奴は音楽に興味がないと思われても仕方がない。そもそも趣味なんかに使う時間があるのかと自分でも疑問に思うぐらいだ。一般人がそう感じていても無理はない。
「音楽が好きな人は衛兵でもいますよ」
「いや、スコアってことは演奏するんだろ?」
衛兵のイメージアップを図ろうとしてみたけど、そうじゃないと一刀両断されてしまった。言われてみれば確かに、聴くだけならばスコアは関係ない。演奏家でなくてもスコアを見るのが趣味な人はいるかも知れないが、少ないだろうというのは流石にわかる。
「楽器は、持ってないんですけど……」
なんとなく後ろめたくなって声が小さくなってしまった。別に衛兵がニッチな趣味の持ち主であっても問題はないと思うのだが、なんとなく気恥ずかしい気がしてしまったのだ。
だけどワレンはおれの気まずさを全く意に介していない様子でケラケラと笑った。
「金がなくて楽器が買えないからスコアを見て気を紛らわせようって? 学生みたいなことするね」
自慢じゃないが前世では実家が太かったからお金に困ったことはなかった。だからワレンが指摘するような行為はしたことはなかったけど、似たようなことをしているのは見たことがある。演奏会のチケットが買えないからスコアを見て聴いた気になるというやつだ。
当時はそういうこともあるのかなぐらいにしか思っていなかったけど、いざその立ち場に自分が立たされてみると、少し気恥ずかしい。
「コーフォって面白そうだな。いいよ、入って」
「え? でも出掛けようとしてたんじゃ……?」
「大した用じゃないからいいって」
そんな気軽に言われたけど、隣人とは言え初対面だ。そんな迂闊に家に上げていいものなのだろうかとこっちが心配になる。だけどよく考えてみればこっちは職場も所属もバレていて、ある意味では身元がしっかりしている。初対面でも家に上げても問題ないと判断されてもおかしくはないのかも知れなかった。
鍵穴の前で所在なさげになっていた鍵を見つめ、おれはそれを再びポケットの中に戻した。
「う、わあ……!」
自分でも声が出たという認識はなかったんだけど、ワレンの家に一歩足を踏み入れた瞬間、声がこぼれ落ちていたようだった。先に家の中に戻っていたワレンが苦笑するように笑うのが見えて、自分が声を漏らしているということに気がつくという有様だった。
ワレンの家は、隣のおれの家と広さはほとんど一緒だろう。間取りもほぼ一緒で、このあたりの住宅は街を開発する際に一括で同じ家を建てたのだろうという想像ができた。おれの家は住民がそれほど裕福でないのに加え、今まで趣味もないせいで物が少なくがらんどうとした印象を与えた。
だけどここは違う。物が多くてゴチャついていて、そのせいで掃除も行き届いていないのか、少し不潔な印象を抱く。しかしそれよりも勝ったのは、所狭しと置かれた数多くの楽器への感動だった。
大小様々なありとあらゆる楽器。入ってすぐにはピアノのようだがそれよりは小ぶりな鍵盤楽器。壁には弦楽器が吊るされていて、棚には書物や書類が無造作に突っ込まれている。ちらりと覗くそれらの書類は譜面のように見える。当然書籍は音楽関連本だ。
「これは……?」
「ま、このあたりに居を構えるなんて音楽で食っていってるからだとしか言いようがないよな」
「演奏家ですか?」
「いろいろやってるからな」
一般的な人がこの家の惨状を見たら絶句するかも知れないが、おれはあまりの感動にてが震えそうになりそうな気分だった。そうならないようにそっと手を握り込む。
「すごい数ですね。全部扱えるんですか?」
「得手不得手はあるけどな。全部練習用だから好きに使ってくれて構わない。ただし、書類は動かさないでくれ。探すのが面倒なんだ」
「いいんですか?」
隣人が音楽関係者だというだけでテンションが上がるのに、楽器を自由に使わせてくれるなんてなんていい人なんだ! 油断すると叫びだしそうになる。流石にそれはまずいから、口を一文字に引き締める。
「楽器を持ってないと言っていたけど、なにか弾けるのか?」
見渡す限り、前世にあった楽器と大きく変わったものはなさそうだ。ただ、玄関そばの鍵盤は大きさ的にピアノではないから、もしかしたらハープシコードかも知れない。そう考えると、おれが知っている楽器たちよりも昔の、バロック音楽に使われていた楽器に近いかも知れない。
おれはバロック楽器には縁はなかったものの、二十一世紀で一般的に流通していた楽器は一通り扱った経験がある。多少姿かたちが変わっていても、楽器の扱い方はそうそう変わるものじゃない。初めてのものでも触っていれば慣れてくるだろう。
「いえ、初めてです。これをお借りしても?」
弦楽器は壁に吊るされていたけど、大きさ的に吊るすことが叶わなかったらしいチェロのようなものを指差す。今まさに使っていたとばかりに椅子に立てかけてあり、すぐ横に弓が置かれている。
ワレンはキッチンに繋がる壁に寄りかかり腕を組んでこちらを見ていたが、じっとこちらを見ながら頷いた。
チェロに似たそれを手に取り立てかけてある椅子に座る。使い込まれていると感じるのは、ところどころ塗装が薄れて色が斑になっているからか、それとも小さな傷がたくさんあるからか。どちらにせよこんな手の届くところに置いてあるくらいだからよく使う楽器なのだろう。個人的にもチェロは使いやすい楽器だと思う。
見られている中で初めて扱う楽器を弾くというのは緊張するが、構えてみるとその懐かしさに緊張は吹っ飛んだ。試しに数音鳴らしてみて、違和感に顔を上げる。
「これ、調弦は合ってますか?」
「問題ない」
自信満々に言われたものの、ギイギイと音を鳴らしてみてもやはり違和感がある。おれの耳がおかしくなっているのでなければ、これは調弦が間違っている気がする。けどそれを面と向かって指摘することができないのは、もしかしたらこの世界におけるこの楽器の調弦はこれが正解であるという可能性があるからだ。
見た目こそはチェロに似ているけど、やはりこれはおれの知っているチェロとは別物であると考えたほうがよさそうだ。
そう考えると、もしかして譜面もおれが知っている五線譜ではない可能性が出てきた。先入観から譜面なんて同じ形式だろうと思いこんでいただけに、ちょっとした焦りを感じる。まあ、再度勉強し直せばいいだのことなんだけど。
「楽器の扱いは心得はあるが、曲を弾けるほどではない、って感じ?」
「ええと、そうですね、近しい感じかと」
「譜面が読めるならこれを」
そう言って手渡されたのは、一枚の譜面。手書きだというのはすぐに分かる。それもあまりきれいな部類
ではない、走り書きのようなものだ。だけどそれはおれが恐れていたほど前世の記憶のものと乖離しているわけではなかった。読もうと思えば読める。
「独学なので、合っているかどうかはわかりませんが」
そう断りを入れたのは保険のようなものだった。譜面が前世のものと似通っているからといって、読み方も同じとは限らない。今まで前世と今とで大きな違いがあったわけではなかったけど、小さな違いはある。
とはいえ演奏したい欲には勝てなかった。おれは譜面を見える位置に据えてから、慣れない音のチェロもどきに弓を走らせた。
「未経験者は嘘だよね」
気付けばあれもこれもと譜面を渡され、次はこっちをやってみろと楽器を替え、あっという間に外は真っ暗な時間になっていた。おれらは空腹も忘れて音楽に没頭していた。
「少なくとも正式な教育は受けていない」
「にしては基礎が出来てるんだよなあ。そこらの演奏家より遥かに上手い」
今日触ったどの楽器も、前世では一通り触れたことのある形をしたものだった。不思議なことに基本的な音が前世の世界とはズレていて、その違和感は拭えなかったものの、数時間もその音に身を委ねていると自然と違和感は消えていった。
「いや、そんなことはない。そんなことより、ワレンのことのほうが気になる。この楽器たちに譜面の量。一体何者?」
「音楽関係者」
「それじゃ幅広いんだって」
紙や本が所狭しと置かれているテーブルの隙間にねじ込むようにしてグラスを置いたワレンは、何度尋ねてもそれ以上答えない。おれには言えない事情があるのだろうけど、隠されれば隠されるほど気になるというものだ。
「コーフォは明日仕事?」
「もちろん」
「何時に終わる? もし夜に予定がないなら、仕事終わりに寄ってってよ。明日に限らず」
ワレンのその誘いは前世の記憶を取り戻したせいで音楽に飢えているおれには悪魔の囁きのように魅惑的に感じられた。
既にワレンは家の中の楽器は好きに使っていいと言っていたし、譜面も元の位置に戻すなら好きに見ていいとお墨付きをもらっている。その上にここに入り浸ってもいいとまで言われたら、もういっそ帰りたくない。ここに住みたいとさえ思ってしまう。
「でも……」
「遠慮はいいから。そんなに楽器が扱えるのに腕を腐らせることないし。そのうち演奏してもらうかも知れないし?」
「演奏?」
思いがけない話に思わず食い気味に問い返す。ワレンは座っている周囲の書類の山から何かを探し出し、それをこちらに差し出す。
「音楽堂でも仕事してて。欠員が出たときとかのヘルプにも行くんだけど、俺一人じゃ手が足りないこともあって」
渡されたのは譜面の束だった。一番上に書かれた作曲家名は「アース」。その名前はレビオンと並んで無音街では知らぬ者がいないほど有名だ。レビオンよりもアースのほうが活動歴が長くて、発表している曲ももう二桁を超えていたはずだ。
アースの譜面をこうしてじっくり見ることが出来るとは思わず、じっと譜面を読み込む。束が分厚いと思ったら、これはフルスコア、つまりすべての楽器のスコアが書かれたものだ。
「え? てことはワレンってアースの演奏にも関わってるの?」
「アースに限らず。とは言ってもアースぐらいじゃなきゃ出る気にならないんだけどね」
お隣さんだからと気軽に話していたけど、実はものすごい人だったんじゃないかと今更ながらソワソワしてくる。フリーの演奏家として音楽堂から仕事をもらっているというだけでもすごいのに、呼ばれればどんなステージにも出演するというのは万能すぎる。
「はあ。すごいな。まさかそんなすごい方とは知らず……」
「今更態度改めるなよ。隣人だし、気軽に友人みたいにして欲しい」
仕事関係以外で友人と呼べる人間がいないことを思うと、この出会いはかなり嬉しい。普通に仕事だけをこなしていたら知り合うこともなかった人だと思うと、少し緊張しなくはないけど。
「分かった。こっちも遠慮なく甘えることにする」
「少しは遠慮してくれ」
「ええっ?」
「冗談だよ。うちにある楽器は好きに使ってくれて構わない。あ、ちなみにそれは練習しといてくれ」
「どのパート?」
「全部」
「全部っ?」
アースに限らず、音楽堂で上演されるような演目は大体がフルオーケストラだ。その全パートを出来るようになっておけというのはちょっと無理難題だ。普通に考えて、演奏家は楽器は専門のものに絞って練習し腕を上げる。それを全パートやれというのは鬼畜以外の何者でもない。
「俺は出来るから」
フフンと得意げに言われても、それはワレンが万能なだけで、それを他人にも求めるのはどうなのかと。
「コーフォにも出来るって踏んでるから言ってるんだ。まあ、打楽器系はいいけどな。このへんは他に代役がいるから」
「うーん、わかった。やってはみる。でも出来るかどうかは別問題だからな」
正直、この世界での楽器の使い方に慣れるという意味を含めても、全パート練習するというのはいいのかも知れない。前世でもいろんな楽器に手を出していた身としては、無理難題なように見えるがいい課題だと思ってしまった。
「出来る出来る。いいね。いやあ、コーフォと知り合えてよかったよ」
「買いかぶり過ぎ。あとでがっかりしても知らないからな」
「大丈夫だろ」
楽観的にケラケラ笑うワレンに思わずため息をつく。
この世界では前世での前時代的な教育と同じで、手取り足取り教えて後続を育てるような考え方はない。先人の技を見て盗め的な考えたが一般的だ。流石に兵士教育はしっかりと教えてもらえたけど、それでも基礎だけで、一定以上のスキルを身に着けたいと持ったら先輩のやり方を見様見真似して覚えていくしかなかった。
音楽業界でも同じような教育方針が取られているんだろうというのは想像に難くない。むしろ音楽愛好家たちは自らがすごいと感じた曲を自らの手で演奏してみたいと耳コピで演奏する者が多い。演奏の仕方を一から十まで教えてくれるなんてことはまずない。
ワレンのやり方はいかにもという感じがする。譜面を渡してあとは頑張れ、と放り投げる。それで伸びるなら才能があって、だめならそこまで。なんとも厳しい話だが、これが現実だ。
「あぁ、そうそう。うちの中は好きに使ってくれて構わないんだけど、上の部屋だけは入らないでくれよ。私的空間だ」
「楽器以外に興味はないから安心してくれ」
二階が寝室というのまでうちと同じなのかと思わずクスリと笑ってしまう。まあ、同じ間取りの家だから似たような使い方にはなるだろうけど。
「じゃ、きょうはこのへんにしとくか」
「ん、じゃまた、明日?」
「また明日」
そう言ってワレンの家を出ても、自宅はすぐ隣だから帰宅も一瞬だ。
自宅に入ると、音楽関係の物であふれていたワレンの家に比べてしまうとまるで空き家のようだった。同じ間取りだからか余計にそう感じてしまう。まるで夢から覚めた直後のように、ぼんやりとした気持ちで家の中を見つめる。
前世は人生を音楽に捧げた身としては、こんなに何もない生活をよく続けられていたなと感心してしまう。音楽を思い出してしまった今、このがらんどうな家はあまりに魅力に欠ける。今すぐにでも隣に取って返したい気持ちがうずく。
だけど、ワレンという力強い味方を手に入れた今、音楽ロスは避けられるはずだ。お眼鏡にかなえば音楽堂での演奏にも関われるかも知れない。本業の方を疎かにするつもりはないけど、今までとは生活が一変することは間違いがない。今だって普段だったら確実に寝ている時間だ。
夕飯を食べていないことを思い出したが、興奮のあまり空腹を感じない。練習を始めたらもっと生活に無頓着になるだろうけど、それを咎め立てする人もいない。ちょっとだけ背徳感みたいなものを感じつつ、わくわくが止まらなかった。