1.前世を思い出しました
今まで二十数年間生きてきて、デジャ・ヴのような、経験したことがないはずのことを、経験済みであるかのような錯覚を覚えたことがかなりの回数あった。幼い頃に親に言ったら笑われて、友人に言ったら気の所為だと言われ、それ以降は口に出すことはなかった。ただ確実にそのデジャ・ヴは感じていて、時々自分でも気味悪く感じていたものだった。
その原因が、まさか自分の前世にあるものだと知ったのは、ついさっきのことだ。
おれはなんてことはない中流の平民の家庭に生まれ育って、周囲が受けるからとなんの疑問も抱かずに国試を受けて、王都防衛軍に配属された。
名前こそは仰々しいがやっていることは王都の治安維持を目的とした警備、巡回だ。要するに、毎日毎日飽きもせずに決められたエリアをぐるぐると歩き回って異常がないか確認して回る。トラブルがあれば仲介に入ったり解決したりする。とは言ってもここは王都だ。王のお膝元でそう大それた問題が起こるはずもなく、日々は至って平和そのものだ。
というのも、おれが住んでいるこの世界は過去に大きな戦争があったにせよ、そんなものの記憶は歴史書にしかもう残っていない程度には平和が維持されている。きな臭い噂が流れることもなく、国軍は大きくなくても平和が維持できる。理想的な世界だ。
そんな平和な世界で、贅沢はできないがそこそこの給与をもらえる仕事があり、少しは趣味に時間も使える。
そんな風にのんきに過ごしていたおれは、今朝がた少し浮いた大通りの敷石に足を引っ掛けてつんのめり、そして全てを思い出した。
生まれも育ちも東京で、少し裕福な家庭で育ったおれは、幼い頃から楽器を学ばされ、幼稚舎、中等部、高等部と連なる私立の一貫校を進学し、そして大学は業界でも有名な音楽大学へ入った。そして順風満帆に都内の某楽団へと入団し、音楽に満ちた生活を送っていた。
それがあるコンサートの帰り、道路を横切ろうとしていた猫が車にはねられそうになっている現場に出くわし、反射的に道路に飛び出した。車のブレーキ音が鳴り響き、ヘッドライトが眩しく光り輝き、そして意識は遠のいた。
そう、おれは前世で二十一世紀の日本人だった。
今までデジャ・ヴを感じていたのは、前世で体験したことが無意識のうちに重なって見えていたのだろう。そう考えると納得できることがいくつもある。
ただ、思い出したからといいって小説や漫画のように前世の記憶を使ってチート生活! とはならないのが現実だ。
なぜならばおれにはこの平和な世界でチートできるような知識があったわけでもないし、どうやらこの世界には魔法やスキルといった便利能力が存在するわけでもない。ただちょっと文明が劣るだけでほとんど前世の世界と変わりがないからだ。
前世を思い出したからには比較してしまうが、この世界はおおよそ十八世紀ごろのヨーロッパに近いものがある。厳密には全く異なるのだけど、感覚的にはそんな感じ、といったところだ。
石畳の大通りには荷馬車が行き交い、各戸に水道を始めとするライフラインは整備される前だから井戸まで水汲みをしなければならない。電気による照明もまだ発明されていないが、大通りにはガス灯が整備されている。王城や貴族の屋敷には室内でもガス灯が整備されていると聞いたことがある。
日本人的な考えで恐縮だが、各戸に水が引いていないということは当然風呂なんかも存在していないが、ありがたいことに公衆浴場がエリアごとに整備されていて、格安で利用することが出来る。おれぐらいの収入があれば毎日利用することが出来るし、貧民でも週に一度は入れるぐらいには環境が整っている。
ガス灯も風呂も王都だからきちっと整備されているのだろうと思わはなくはないが、平和だからこそ人々は生活の質を向上させようと努力している。公衆浴場は町と呼ばれる規模であればもうほとんど整備されたと聞くし、村の規模でも導入を進めるよう国の予算に組み込まれていると王都新聞で読んだばかりだ。
現代人であるおれからするとスマホやインターネットがないのは不便を感じるが、ここまで文明が育っていてくれていて、戦争もなく平和な世の中であれば苦なく暮らしていくことが出来るだろう。だからこそ今まで前世の記憶を取り戻すこともなかったのだろう。
「コーフォ、どうした? 腹でも減ったか?」
怒涛の前世の記憶で棒立ちになっていたらしく、声をかけられてハッと顔をあげると、そこには同僚のセリフが心配そうな顔つきでこちらを振り返っていた。
セリフは同期入団で同じエリアを担当している親しい仲間で、住んでいる家も近い。本来なら威厳を保つために巡回中に着用を義務付けられている仮面を外しているところからも、心配が伝わってきた。
「ごめん、大丈夫。ちょっと立ちくらみ」
「体調悪いなら休めよ。ここいらは大した事件も起きないんだし」
「はは、そうだけど流石に任務放棄は怒られるよ。大丈夫、行こう」
セリフはまだ少し心配そうな顔をしていたが、おれが無理やり浮かべた笑顔に頷いて仮面を装着した。
王都内を警備している王都防衛軍は王都を六つに分けたエリアをそれぞれ配属された兵士が守っている。配属されたエリアはよっぽどのことがない限り変わることはなくて、所属エリア内にある民家を借り上げた宿舎にそれぞれが生活している。己の生活空間を守護するほうが地理にも内情にも詳しくなれるためだという。
防衛軍は任務中は顔の半分を隠す仮面の装着が義務化されいて、威厳を保つ目的と、個を殺す目的とがあるらしい。まあ、トラブル仲裁に入って顔を覚えられて逆恨みされる、なんてことがないわけじゃないから役には立つのだろう。だけど、所詮は自分が生活しているエリアだ。声や半分見えている口元で地元の皆さんにはバレバレなのだが……。
おれの住んでいるこのエリアは貴族の館が集中的に存在する、所謂山の手エリアに接しているところで、そこまで裕福ではない貴族の館もいくつかある。だが平民の住むエリアが大半で、その中間地点にちょっとした繁華街が存在している。
繁華街と言っても平民に混じって貴族が昼夜問わず身分を隠さず出歩ける程度のもので、貴族の中では二番目に治安の良いエリアとして数えられている。大衆向けだが貴族も利用する音楽堂や衣類の仕立て屋などは平民貴族の差を気にしない者たちの流行の地とされている。
前世の記憶を取り戻してからというもの、つくづくとこのエリアに配属になってよかったと心から思っている。
というのも、この音楽堂を中心とした一帯は音楽に関わる職に就くものが多く、小さな店でも生演奏で音楽を提供することから、「音が鳴り止まない街」と呼ばれている。それを皮肉って、地元民は「無音街」(音が無くなることがない街)と呼んでいるほどだった。前世では音楽に人生を捧げた身としては、これほど素晴らしい環境はないだろう。
心惜しいのは、自分が演奏側にいないことぐらいだ。だけど、この少ない給料でも貯めていればそのうち安物でも楽器の一つでも手に入るかもしれない。それを最近は目標として生きているぐらいだ。
「あー、今日も何事もなく終了っと」
各エリアごとにある詰め所へと戻るや否や、一緒に見回りをしていたセリフが窮屈そうに仮面を脱ぎ捨てる。仮にも国からの支給品である仮面をそんな粗雑に扱えば上司からお小言がくるのだが、セリフはこの癖が抜けない。窮屈なのは確かにそうなんだけど、制服なのだからもう少し割り切ればいいのにと思ってしまう。
「セリフ、コーフォ、お疲れ。その調子だと引き継ぎは特になしか?」
夜勤のルマイさんが苦笑しながらやって来る。ルマイさんはおれとセリフより数年前に配属された先輩で、セリフのこの態度にも目を瞑ってくれる優しい人だ。いざとなるとかなりの剣の腕前を持つ人なんだけど、普段は穏やかそうな雰囲気でそんな風には思わせない。
「引き継ぎ事項はないんですけど、きょう貴族が多いような気がしたんですが何かあるんですか?」
先程見回りをしながら、いつもより貴族の数が多いような気がすると二人で話しをしていたのだ。身分を偽らず貴族が大手を振って歩けるのはこのエリアのいいところではあるのだけど、その数が多くなるとこちらも少し身構える。
貴族はこれみよがしに高価なものを身に着けがちなので、治安の悪いところでは強盗や盗難の被害にあいやすい。それは比較的治安の良いここでも同じだ。貴族が多くなれば、自然と我々もそちらに目を向けなくてはならなくなる。そうなると平民の側が疎かになってしまうので、バランスが難しい。
「あー、そうね、今日は音楽堂で新鋭の作曲家レビオンの新曲初演があるから」
「レビオンの新曲!」
ルマイさんが喋っているのに食い入るように声を上げてしまったのはおれだ。セリフとルマイさんが目を丸くしてこっちを見るのが恥ずかしくて、口元を手で抑える。幸いにして仮面は付けたままだ。
「え? 好きなの? レビオン?」
ルマイさんの意外さがこもった声で問いかけられて、もうものすごく恥ずかしい。顔が赤くなっている可能性があったけど、そこは仮面に助けられた。
無音街のレビオンと言えば音楽愛好家では知らない者がいないほど人気の作曲家だ。まだ一曲しか披露されていなかったけど、初演を見た人々の口コミで人気が広まり、再演に再演を重ねている。レビオン本人の素性は公表されておらず、噂が十も百も飛び交っている。その人気は貴族間でも高く、彼の新作となればそりゃあ多くの貴族が足を運ぶことは間違いがないだろう。
レビオンのことは近所の噂話なんかでもよく聞くし、街中でもその曲をよく耳にしていたけど、「ふうん」程度にしか考えていなかった。しかし前世の記憶を取り戻した今、その名前に興奮するのは避けられない。
「好きというか、新作が出るんじゃ人が多いのも納得かなって……」
「まあね。え、ってことは夜勤増員ですか?」
「指示は出てないんだけど、したほうがいいよね。隊長に確認してみるか。お前らこのあとは?」
「俺はデートなのでダメですー」
日勤上がりのおれらに夜勤増員を仄めかすのは労働基準法的にどうなのかと思ってしまうが、労働者の権利なんてものはこの世界では保証されていない。しかしセリフはしれっとお断りだ。普通、上から言われたら断れないと思うのだけど、緊急事態でない限りは意思が尊重されるいい職場だ。
「おれは……その、空いてますけど」
「レビオンのチケット取れたわけじゃないんだな。じゃ、待ってろ」
クスクスと笑いながら隊長室に消えていくルマイさんを見送りながら、いい加減仮面を外す。セリフはルマイさんが消える前にさっさと更衣室へ逃げている。おれはこのまま夜勤も出るとなると着替えるわけにもいかず、ため息をついて椅子に座る。
「コーフォ、悪いね、お先!」
一体どんな魔法を使えばそんな素早く着替えが済むのかと目を丸くするほど素早く着替えたセリフが嵐のごとく現れては消えていく。その笑顔には微塵も罪悪感などはなく、実に爽やかそのものだった。
その風のように去っていったセリフと入れ替わるようにして戻ってきたルマイさんは、着替えずに待っていたおれと目が合うや否や、申し訳無さそうに頭を下げた。
「悪い。夜勤頼めるか? 結構上の方の貴族連中がこぞって来るらしい。それぞれが専属の兵士連れてくるらしいけど、それで揉め事になったら最悪だ」
一言に貴族といっても様々だ。資産の貧富もあれば、派閥も存在する。そんな貴族の偉い人たちが一箇所に集まって、問題でも起これば大変なのは下っ端平民のおれでも想像がつく。
貴族は表立って殴り合いのケンカをしたりはしないだろうけど、間に平民を挟んだら何をするか分かったものではない。このエリアでは普段の暗黙のルールを無視して外道な手段に出る者いる可能性もあるのだ。そうならないように防衛軍を目のつくところに配しようということなのだろう。
「お前は無音街だけでいいから。頼むな」
「了解です。まあ、明日休みですし」
「助かる! ありがとうな!」
仕事がなくてもこのあとは無音街に行ってレビオンの新作のおこぼれに預かろうかと思っていたぐらいだ。仕事になっても無音街にいれば曲が漏れ聞こえてくるかもしれない。運が良ければ音楽堂の中まで入れる可能性もある。そうなれば役得ってものだ。
「じゃ、行ってきます」
防衛軍の制服である仮面を付け直すと、休むひまなく詰め所を出ていく。
詰め所から無音街は少し遠い。むしろ自宅と無音街のほうが近いくらいだ。おれの住んでいる宿舎は無音街の裏手と言える位置に存在している。お陰で夜はうるさいが、それも今思えば心地の良いうるささだ。
すっかり暗くなった無音街は、ガス灯の明かりに照らされてきらびやかな雰囲気になっていた。小さなレストランやバーでも様々な音楽が漏れ聞こえてくる。道端では楽器一つで人々を魅了しているパフォーマーも一人や二人ではない。
明るい時間でも貴族が多い印象があったが、暗くななると余計に貴族が多く見えた。社交場に出るほどではなくても、抑えられた華やかさが平民ではないとすぐに分かる。男も女もどこか浮足立って楽しそうだ。
「調子はどうだ?」
いつも同じガス灯の下で貴族相手に生花を売っているプーンに声をかける。プーンは警戒した顔で仮面を見遣り、ああとこちらが何者か気がついた様子で表情を崩した。
「旦那ですか。まだ勤務中で?」
プーンとは先程日が高い時間に一度調子を伺っていた。それもあり、こちらがまだ制服を着てうろついているのを不審に思ったのだろう。そう言われるだろうと思っていただけに、苦笑を抑えられなかった。
「レビオンのお陰で連勤だ」
「はは、まあそうですね。こちらとしてはレビオン様様ですがね」
「そんなにか?」
「開演前には売り切れそうですよ、ありがたいことに」
余裕のある平民以外は、滅多なことでないと生花を買わない。だからプーンの商売相手はほとんどが貴族だ。そのせいか、取り扱っている生花もかなり質のいいものを取り揃えている。要望があれば指定された場所まで配達まで行っている。
「なんかあったら遠慮なく呼んでくれ」
「ありがとうございます。助かりますよ」
商売の邪魔にならないようにさっとその場を離れる。画面をつけた兵士は避けるほどでないにしろ、歓迎はされにくい。権威があるというのはこういうことだ。その代わり、こうして街の人々には頼りにされている。彼らも厄介事を引き受けてくれる存在はありがたいのだろう。
ぶらぶらと無音街を歩きながら、向かうのはやはり音楽堂だ。夜勤にもこの無音街を含む一帯を担当する者がいるが、常に目を光らせておけるわけでは無い。そのためにおれが連勤している。公演が始まるまでは音楽堂を中心に見張るべきだろう。
音楽堂は貴族街にあるものと比べれば粗末なのだろうが、平民が遠慮なく入ることの出来る大きな建築物としては立派なものだ。室内にもガス灯が惜しみなく配されているため煌々として明るく、人の出入りも多い。開演にはまだちょっと時間があるが、入り口付近には多くの人が集まっていた。
言われてみれば音楽堂の近くに貼られている公演ポスターにはレビオンの名前がある。これはだいぶ前から貼られていたものだ。だが今見てみると、その名前の上に大きく「新作」と書き加えられている。ということは、最近になって今日新作を発表すると決まったわけだ。そりゃあ知らないわけだ。
謎多きレビオンの新作。欲を言えば初演で聴いてみたい気持ちもあるが、そんな贅沢は仕事中の平民には叶わない。貴族であればまた違ったのだろうけど。前世であれば金を積めば見ることが出来たかもしれないと考えてしまうのは良くないことかも知れない。
何を見るとはなしに音楽堂の出入りを見ていると、地味な身なりの長身の男が不慣れな様子であたりを見回している。その動きが目に止まり、反射的に声をかけた。
「どうかしましたか? なにかお探しですか?」
男は助かったとばかりに振り返り、そしておれのつけている仮面を見て一瞬動きを止めた。慣れていない者は大抵そういう反応を示す。
「あっと……、ええ、ここは初めてなもので」
地味な出で立ちではあったが、その男から受ける印象は明らかに貴族だった。従者も付けず地味な装いということはお忍びなのだろう。下手な対応をすれば後々訴えられかねない。貴族を相手取るときは慎重に、だ。
「チケットはお持ちですか?」
「ああ、ここに」
「ならばそこの白のジャケットの係員にそれを見せれば入れますよ」
音楽堂の係員は白のジャケットを着用していて、外のもぎり係はその上から太く目立つ赤い襷をかけている。それぞれ担当によってかけている襷の色が違うから分かりやすいのだけど、初めて来る人には分からないのは仕方がない。明示されているわけでもないし。
「ありがとうございます。あとその、ご苦労さまです」
ペコリと貴族らしく丁寧なお辞儀をされて、思わず顔をしかめた。幸いにして仮面で隠れていたが、きっと無愛想な奴だと思われたのだろう。男は言い訳の間を与えずに音楽堂へと向かっていった。
お忍びとはいえ、貴族が衛兵に対してあんな丁寧な対応を取るとはにわかに信じがたい。兵士に貴族がいないわけじゃなかったが、貴族街以外に配属されることはまずない。そのことは誰でも知っていることだ。つまり、おれが平民であると分かっていてあんな丁寧な態度を取ったということだ。随分と腰の低い貴族もあったものだ。
貴族社会には詳しくないが、どんな人物なのか少し気になる。けどお忍びで来ていた貴族をあれこれ詮索するのは野暮というものだし、そもそも貴族にツテもコネもないおれには調べようもない。それに、そこまでして知りたいかと言われればそうでもないというのが本音だ。
音楽堂の入り口にはまだ多くの人々が賑やかにしていた。プーンのように貴族相手に商売をしている者もいれば、平民だけを狙って商売している者もいる。今日は従者だけでなく貴族が囲っている兵士の姿もあるから、なんだかいつも以上にゴチャついて見える。お願いだからトラブルだけは起きてくれるなよと内心祈るばかりだ。
そんなにそこでぼんやりしていたわけではなかったが、肩をぽんと叩かれて我に返る。振り返るとそこには自分と同じ格好をした二人組がいた一人は仮面をしていても分かる。ルマイさんだ。
「お疲れ。多いな。始まるまではこっちも近くにいるからな」
「ありがとうございます。このまま何もないといいですけどね」
はは、と二人で乾いた笑いを上げてから、ルマイさんたちは巡回を続ける。残されたおれはもう一度音楽堂に目をやってから、とりあえず無音街を一周すべく歩き出した。
音楽堂の入り口から商売人を残して人の姿が少なくなってきて、開演時間が近いのだろうということを悟る。ルマイさんたちが遠目にそれとだけ分かる程度にこちらに合図を寄越して歩き去ったのが見えたし、開演時間で間違いないのだろう。
公演中は無音街の店や路地を適当に流していればいいだろうと踵を返した瞬間、視界の隅に白いものがよぎった。反射的に振り返ると、そこには白いジャケットを着た中年男性が慌てた様子で左右を見回しているのが目に入った。ただごとではなさそうな雰囲気だ。
「どうしました?」
「は? ああ、取り乱してすみません。いえ、あ、いや、その、このあたりで男を……いや、ええと」
説明しにくいのか慌てすぎて収拾がつかなくなってしまっているのか、男は周囲を見回し続けながらあわあわしている。誰かを探しているのだろうということだけは理解できた。
「お手伝いしましょうか?」
白のジャケットは音楽堂の関係者だ。それも、袖刳りに金の刺繍は責任者の印だったはずだ。つまり、焦って挙動不審になっているこの中年男性は音楽堂の責任者。本来なら今頃は舞台に立って挨拶でもしているはずてはないだろうか?
「ありがとうございます。ええと、その、男が、恐らく仮面を……違うか? いや、しかし……」
「仮面の男を探しているんですか?」
男は高ストレス下で死にそうな顔をしながら、セットしているだろう頭をかき乱す。暗い中だが顔色も白を通り越して青くなっている気がする。あと一息で気を失って倒れてしまいそうだ。
「いや、濃紺の揃いを着た男です。上着には銀の刺繍がされていたはずです」
「わかりました。探してみましょう」
「助かります。見つけたら音楽堂へ、急いでお願い致します」
男は白いジャケットをなびかせて右手の方に走っていくので、こちらはその反対側へと小走りで向かう。
こちら側は狭い路地が続く。小さな店や小汚かったり、怪しげな店が多く、貴族はあまり近づかない。明かりは少なく、ほとんど店から漏れる明かりばかりだ。
それにしてもこのタイミングで責任者が血眼になって探すとは、一体どんな人物なのだろうか? まさか指揮者だとか演者、レビオンじゃないだろうとは思うが、必死になって探さねばならない人物。気にはなるが、詮索している時間はなさそうだ。今はとにかく探さねばならないだろう。
勝手知ったる細路地に入り、濃紺に銀の刺繍のジャケットを探す。そんな高級なしつらえならここらでは目立つ。早足で歩きながらでも目につくことは間違いがないだろう。
と、思った矢先、きらりと光るものが見えた。それが正解がかどうかは分からなかったが、速度を上げてその背中を追いかける。
「あの!」
駆け寄りながら声をかけると、濃紺の揃いの男が振り返る。その男ははっと息を呑むほど整った顔立ちをしていて、おれは声を掛けた理由も忘れて呆けてしまった。
「なにか?」
「あ、いえ、音楽堂の責任者の方が探しているのはあなたですか?」
口に出してからなんて間抜けな質問だろうと思ったが、そう尋ねる以外になんと聞いたものか分からず、とりあえず相手の反応を待つ。美形の男はキョトンとした顔をしたが、考えるように音楽堂の方をちらりと見やる。
「もうそんな時間?」
「開演時間はたぶんもう過ぎてますね」
「それはしまったな」
口で言う割には慌てている様子もなく、のんびりとした様子に思わず顔を顰める。幸いにして仮面がそれを隠してくれていた。
とにかくこの人物が誰であろうと、音楽堂に急ぎ連れて行かねばならない。さっき言ったように開演時間は恐らくもう過ぎているだろう。公演のどこに関わる人物なのか知らないが、急ぐことに越したことはない。
「失礼します」
異議を唱えさせる前に連れて行くほうが得策だろうと判断し、一言断ってからおもむろに腕を掴む。戸惑うような声が聞こえた気もしたが、ここで躊躇えば連れ帰ることは出来なくなるだろうと判断し、無視を決め込む。
「ちょ、まっ」
「急ぎますよ」
走り出したおれに引っ張られて、男も走り出したのが分かった。引っ張りすぎてつんのめって転んだりしないように気をつけながら、可能な限り早く音楽堂へと向かっていった。
ゴンゴンゴンゴンと力強くノックすると、胡乱げな顔の男が顔を覗かせた。彼は仮面をつけているおれを見て怯んだが、ほぼ同時におれの連れを見て顔色を変えた。
「早く中に!」
その勢いに飲まれて、おれは掴んでいる男ごと音楽堂の中に入り込んだ。顔面蒼白になっている男の白いジャケットには金の刺繍。先程見た金刺繍の男とは別の人物だが、責任者であることは確かだろう。詳しくは知らないが、各部門ごとに責任者がいてもおかしくはない。
「一体どこに行っていたんですか! 急いで! 早く!」
「わかってますよ。すみませんね」
濃紺のジャケットの男はへらへらと反省していなさそうな態度がありありとしていたが、指示には従うようだ。おれはそこではたと気づいて掴んでいたその男の腕を放した。
「ああ、どうも」
白ジャケットの男は急ごうとしない男に苛立ちを越えて殺気立った目を向けていたが、それを向けられている男は一切気にしていないようだ。部外者であるおれのほうが萎縮してしまいそうになる。
男は背中を小突かれる前に、ひらひらと手を振った。それがおれに向けたものだとわかったが、そんなことしているヒマがあるなら走れと言わんばかりに白ジャケットに小突かれて、大人しくその手を引っ込めた。
いくら王都防衛軍だとはいえ、音楽堂の中は管轄外だ。おれは用が済んだと判断し、そっと音楽堂を後にした。




