前編
「お姉様」
「なぁに?」
屋敷の廊下を歩いていたアリーナ・フレグナーは、背後からそう呼び止められ振り返った。
「ディラーゼフ」
そこには自分を見下ろす弟の姿。
弟と一概に言っても、生まれた日も数ヶ月の違いしかなく、今は同い年である。
背の高さもとうの昔に追い抜かされ、彼女らを知らぬ人が見れば、まるで恋人同士かと思い違いをしてしまう程に、弟が姉を見る目は甘い。
という事は、それを受ける本人だけが気付いていない。
「お姉様は行くのですか?」
「どこに?」
これから姉が何処かに出掛ける様に見えているのだろうか。
本を読むのにも飽き、手持ち無沙汰になった理由で自分の部屋から出て来た姉を捕まえて、弟は柔らかく目尻を下げる。
食事を作るのが好きで、いつも誰にも断らず街へブラブラ出掛けては、手土産を抱えて帰宅するアリーナ。
玄関から彼女が姿を見せると、バタバタと忙しなく動き回っていた侍女たちが安心した表情で駆け寄ってくる。
歓迎してくれたのかと勘違いしてしまいそうな程賑やかに取り囲まれた途端、そのまま執務室に連行され、父親と執事からお説教を受ける。
家に居ずらいから、外で働きたいと何度も願い出てはいるが、「伯爵家の令嬢がそんなことするものではない」と、家族総出で反対され、しぶしぶ家にいてあげているのだから、脱走くらい、大目にみてもらいたい。
と、彼女が密かに思っていることは、周知の事実。
アイネトゥフ伯爵家で育ち、一通りのマナーは習得した妙齢のアリーナ・フレグナー。
容姿はごくごく普通ではあるが、異性に拒まれる程のものは持ち合わせていない。
だというのに、結婚適齢期を過ぎても未だに誰にも貰われていないという事は、何か欠陥でもあるのだろうか、と、彼女自身も表面上は平静を装ってはいるものの、内心、穏やかではない。
「三日後の舞踏会ですよ」
「ああ」
言われてアリーナは「そうね」と頷く。
そういえば、招待状が届いていたので侍女に出席の返事を書いておいてと伝えたのは、何日前だったか。
バーンズ公爵家が主催の社交界は色々趣向が凝らされていて、毎回招待状が届くのを楽しみにしてしまっている。
まだ社交界デビューの年齢に達していない子どもたちに、「少し大人の世界を見せてあげよう」という何となくの思いつきから、早い時間から舞踏会を開催し、親子揃って楽しめる場を作ってしまったバーンズ公爵。
前例もない突拍子もない事を軽々とやってのけてしまう公爵の行動力に、アリーナは畏敬の念を払っていた。
「私もそろそろ相手を見つけないといけないから」
周りの人間からさんざん「行き遅れ」だの「弟のディラーゼフをいいようにこき使ってる」だの言われ続けるのは、流石にもう疲れてしまった。
別にお高く止まっている訳でも、相手を選り好みしている訳でもないというのに、なかなか縁談がこない。もしくは、きたとしても数回の逢瀬だけでそれ以上に発展してくれない。
だから、今回の社交界ではしっかり相手を捕まえなければ。と、一人血走っている。
行動力はあるのに、なかなか相手も同じ想いを返してくれないのは、自分が相手を選り好みしてしまっているからだ、と思い込んでいるアリーナは、自身の猪突猛進振りを直す事に重点は置いていないようである。
「ディラーゼフも来年には社交界デビューだものね」
年の離れた弟はダラノリス学園の最終学年。
成績は可もなく不可もなくの辺りをキープしているらしいが、肝心の学園生活についてはあまり言葉にしてはくれない。
分かっている事は、と言えば、授業が終わればすぐに帰宅してくるという事だけ。
課外活動をしたり、放課後街へ出たりして友人たちと交友する時間もせずに帰ってくるので、自分の時は親の目が届かないのをいいことに調理室で食事やお菓子を作ったり、友だちと連れ立って街へ遊びに出掛けていたのに、と、折角の青春を謳歌しているとは到底思えない弟を不思議に思ってしまう。
けれど、半日にも満たない時間しか家族と離れていないのに、何かしらスキンシップを求めてくる姿を目の当たりにしてしまうと、身体は成長してもまだまだ幼いのね、と、硬くなっていた表情もふっと和らぐ。
「ねぇ」
質問だけをひたすら投げかけてきた弟が再び口を開いたので、アリーナは意識を彼に向ける。
「ん?」
「結婚ってしなくちゃいけないの?」
「え?」
「ずっと家にいちゃダメなの?」
「……」
この子は何を言っているのだろうか、と、思わず真っ正面から凝視してしまう。
「え?だって家を繁栄させる為には私がお嫁に行っていろいろ人脈を広げた方が」
「アイネトゥフ伯爵家は俺が継ぐよ」
姉の言葉を遮りディラーゼフが一歩前へ歩み寄る。
「え……ええ。それは勿論」
知っている。
分かっている。
だから、女である自分は求められる家へ嫁ぎ、お家繁栄の為に尽くそうとしているのに、いかんせん、こればかりは相手がいない事にはどうにもならない。
それに、この弟が愛想を振りまいて自ら人脈を広げようとしている姿が想像出来ない。
「でも、ディーに社交性があるとは」
「姉さんに俺はどう見えてるの」
溜め息をついて言われても、そうとしか見えないのだから仕方がない。
「え?だっていつも家にすぐ帰ってくるじゃない。お友だち、ちゃんといるの?学園だって社会の一部よ。そこでの自分の立ち位置だって、これからとても重要」
「大丈夫」
「……」
声を荒げ、言葉を被せてくる。
「姉さんが知らないだけで、しっかりやってる」
「あ。……そう」
「……」
「そう……よね」
反抗され、明らかにしゅんとする。
「まったく」
怒っているのか、呆れているのか。「ハァ」と大きく息を吐きながら距離を詰めてきた。
「姉さんは、俺をどう思ってるの?」
青みがかった灰色の瞳は、目の前に立つ彼女の姿しか映さない。
勿論、同じ瞳の色を持つアリーナも同様に。
学園での弟の評判などは知らないが、彼宛の封筒などを目にしてしまうと、縁談の申し込みやラブレターだったりするのではないかと勘繰ってしまうくらいには、見た目はいい方だとは思っている。
だからといって、いつかはここを離れていく自分が口を挟む事ではないので、見て見ぬ振りをしながら、彼女自身も自由気ままに生活させてもらっている。
「……可愛い弟」
「……」
嘘は言っていない。
だが目の前のディラーゼフは、表情は変えていないが、その答えに何処か納得のいかない空気を纏わせる。
「まぁ。そうだろうね」
「う……ん」
ピリッとした空気に居心地の悪くなったアリーナは、自分の一言が原因だという事には思い至らない。
「どっちにしても」
居心地の悪さから逃れようとスカートの下の足が僅かに後退る。
「アリィはずっとここに居てもいいんだよって事は知っておいてね」
にっこり。
と、何を考えているのか分からない表情を作り、姉の反応を伺う。
「そうね」
どう返事をするのが適切か。
「それもいいかも」
気分転換に外へ出ようとしていたのに、思わぬ邪魔が入ってしまった。
家以外に縛られるものがまだない今しか自由に出来ないのだから。
アリーナは喉まで出かけている言葉を飲み込み、にっこり、と、笑顔を作る。
「ありがとう」
ひとまず互いに口角を上に引き上げ笑顔を交わし合うと、「じゃあね」とアリーナの方からその場を去る言葉を告げ、弟の横を通り過ぎた。
背中に視線を感じても振り向いてはいけない。
それを察している彼女は絶対にその誘惑に屈する訳にはいかない。
『ずっとここに居てもいい』
弟から距離を取りながら、彼女の脳裏にディラーゼフの言葉が反芻される。
そんな訳にはいかない。
「早足で歩いてはいけません」
もし、ここに母や侍女が居たのであれば、そう咎められていたかもしれないが、アリーナは誰にも会わないであろう時間を見計らってここまで出てきたので、注意する人間はここにはいない。
だから、ディラーゼフと会ってしまった事は想定外だった。
ずっとここにいるの?
ここに居ないといけないの?
アリーナは自問自答をする。
そんな事、出来るはずないじゃない。
だって。
わたしは。
私はこの家の本当の娘じゃないから。
「それもいいかも。ありがとう」
アリーナは一人きりになった空間で同じ言葉をもう一度呟く。
絶対にそんな事はしないけれど。
「ふふ」
アリーナは嬉しそうに笑うと、当初の予定通り街へ向かう馬車に乗り込んだ。




