急
凪の谷の悪魔になってからどれほどの月日が流れただろう?
初めの内は太陽の登る日を数えてカレンダーを記憶の中に作っていたけれど、いつしかそれもやめてしまった。
途方もない時間が過ぎたような気もするし、実はまだ大して時間が流れていない気もする。
まあ、どちらでも良かった。
凪の谷の悪魔になったからといって別段することはないのだ。
時間がどれほどあろうが、あまりにも足りなかろうが関係ない。
疲れもしないし、空腹にもならなければ眠気もやって来ないのだから。
ただ、感情と思考だけはあたしのままでしっかりと引き継がれていた。
どうせなら感情と思考もなくて良かったのにな。
と、退屈な日々のなかであたしはあたしの人生の回顧ばかりしていたーー自分の記憶にあるのなんて、自分に関わることしかないからね。
思い返しすぎて自伝さえ書けそうな具合だったが、生憎、あたしには実体としての体がなかった。
故に悲しい自分の人生を思い出しても泣くことさえ出来なかった。
心はこんなに辛いのに涙を流せなかった。
感情的身体反応は心が優先らしい。
なるほど、勉強になったーーなったところで何だよって話だけれど。
初めは思考することで退屈を誤魔化してしたけれど、それさえ面倒になってあたしはついに考えることを放棄した。
自然体に"凪の谷"として悪魔らしいことをすることもなく、純粋なただの自然でいた。
そんなある日のことだった。
まるで冬眠ーーいや永久に眠るように意識を謝絶していたあたしは人間の香りを感覚した。
視界を開いてみれば、地面にタンポポの茎で括られた短い髪の毛の束があった。
そして、一人の男が蒼白な顔をして突っ立っている。
「悪魔よ、凪の谷の悪魔フルートよ。私はお前と契約を交わしに来た」
男は力なくボソボソと言う。
「ここに等価交換の品を置く。私と契約せよ」
嗚呼、今になるとあの日あたしを騙した人間の気持ちが分かる。
この機会を逃すわけにはいかないと強く思った。
人間に戻れる絶好の機会だ。
次はいつ人間がやって来るか、わからないのだから。
「あなた、名前は……?」
久方ぶり発したあたしの声はやはり不快な金属声だった。
「私はルドルフ。ルドルフ・バウアー」
…………ルドルフ。
ルドルフ…………?
ルドルフ、バウアー…………? …………!
錆び付いていたあたしの意識は男の名を聞き、瞬く間に覚醒した。
男の顔を見る。
間違いない。
この男はルドルフだった。
あたしを捨てたあのルドルフ伯爵だった。
あたしが時間の概念を放棄してからかなりの時間が経過したのだろう。ルドルフは初老に見える。
「何故、あたしに会いに……?」
真っ先に浮かんだ疑問をルドルフに問いかける。
まあ、ルドルフはまさか凪の谷の悪魔が元婚約者だとは思わないだろうけど。
「妻に復讐してやりたいのだっ!」
悔しそうにルドルフは顔を歪ませた。
「私を裏切り、私を捨てたあの女に……!」
嗚呼、そうか。
結局、王女とはうまくいかなかったのか。
馬鹿な人。
だから、あたしにしておけば良かったのに。
「そう。ならば契約を交わしましょう」
しかし、あたしは深くは聞かない。
もはや過去の婚約破棄などはどうでも良かった。
いち早く、この自然と一体化した"凪の谷の悪魔"から解放されたかった。
一生、いや下手したら恒久的に自然でいることは耐えられないのだ。
たとえ、解放された先になるのがルドルフであったとしても。
「わかった。では、早速始めてくれ」
ルドルフは悪魔との契約に何の疑問も抱くことはなかった。
「話が早くて助かるわ」
思えば、数年……数十年越しの復讐になるのだろうか。
ははは。
皮肉なもんだね。
まあ、どういう経緯があってルドルフが憔悴しているのか、そして復讐を選んだのかは知らないけれど、これでようやくあたしのルドルフへの復讐が果たされるというわけだ。
そう思えば、この気が遠くなるような時間も無駄ではなかったのかなーーいや、無駄ではなかったと思おう。
「では、契約成立ね」
そして、あたしは初めて悪魔の力を行使する。
万人への復讐なんて成し得ない、ただ魂を入れ換えるだけの悪魔の力を。
この力に復讐を見出だせたのは、おそらくあたしが初めてだろう。
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