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花の章 その34 その死の向こう側に

孔明のとなりにいる趙雲が、自分を痛めつけようとでも考えたのか、一歩前に進んできたが、斐仁(ひじん)はそれを先制するように、今度は趙雲に言った。

「大将、あんたも澄ました顔をしているが、あんたもおれと似たようなものさ」

「どういう意味だ」

「自分で考えろ。よーく考えろ」


くくっ、と暗い笑い声をあげる斐仁を、趙雲が薄気味悪いものを見る目で見降ろしてきた。

暗い喜びにひたりながら、斐仁は唄うようにつづける。

「おれは秘密を守るため、麋竺(びじく)の親父をさんざん脅して、金を巻き上げていた。

壺中(こちゅう)』はそういうところは規律が緩くて、おれの好きなようにさせてくれたよ。

おかげで、七年間は、夢のように贅沢な暮らしができた。

麋竺の親父には感謝しなくちゃならない。

いまごろ、どこかでくたばっているかもしれないがな」

「どこにいるのかは知らないというのだな。

では、おまえの言う『秘密』とはなんだ?」

「さてね。知りたければ、新野(しんや)の東の蔵へ行ってみな」


それだけ言うと、斐仁は沈黙を守ることにした。

あまりしゃべりすぎると、自分の命が縮まることを心得ていたから。


『まだだ。まだ『あいつ』のことや、『あの男』のことは言わないほうがいい』

そう決めて、孔明や趙雲が何度か質問をしてきても、無視を決め込んだ。




()えた臭いのたちこもる牢屋から、地上に出ると、一気に花の香りに包まれた。

あまりの落差に、孔明は眩暈(めまい)をおぼえた。

ぐらついた身体を、趙雲が支えようと手を伸ばしてくる。

孔明は、反射的にその手を払いのけていた。


孔明は、人に身体に触れられるのが嫌いだ。

どんなに親しくなったとしても、身体に触れられると身がすくむ。

正確にいえば、自分に人間が寄ろうとしてくる、その瞬間がおそろしい。


豫章(よしょう)から逃げ、襄陽(じょうよう)に落ち着いた諸葛玄(しょかつげん)は、孔明を伴って劉表のいる襄陽城へきた。

豫章の状況を説明するため、ということであったが、なぜか直前になり、諸葛玄は孔明が面会に同席することを許さなかった。


別室で、だいぶ叔父を待っていた記憶がある。

やっと叔父が帰ってきたときは、すでに夕暮れになっていた。

叔父の表情は硬くこわばり、興奮しているようでもあった。

その様子から、劉表と口論をしたのだということが察せられた。


おのれの主人たる劉表と、どうして口論などしたのか、知りたかったが、厳しい玄の表情が、質問を拒んでいたのをはっきりおぼえている。

諸葛玄は、それから人に頼んで一室を借りると、なにか手紙をしたためていたようであった。

使いの者に手紙を託すと、らしくないことに孔明にぶっきらぼうに、帰ろう、と言った。

ひどく不機嫌で、イライラとした様子であった。


諸葛玄とふたり、黙然(もくねん)と、廊下を歩いていた。

すると、不意に柱の陰から男が現れて、豫章を失ったのは残念でした、とかなんとか言ってきた。

直後に、諸葛玄にもたれかかった。


一瞬だった。


孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。

いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。

夕陽よりもなお赤い、血潮。

諸葛玄は、腹を割かれていた。

おどろき(おび)える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、諸葛玄は、それでも、大事無い、と安心させるように笑った。


すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害したという。

諸葛玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。

刺客が何者であったかはわからなかった。

劉表は、新太守が差し向けてきたものだと言い、結局のところ、いまも正体がわからない。


孔明は、人に触れられようとすると、そのときの光景を、どうしても思い出してしまう。

相手を信頼している気持ちにはまちがいない。

しかし、かれらが近づくその瞬間に、孔明は身をすくませ、その手に白刃(はくじん)がないだろうかと素早く探る。


それは諸葛玄が死んでからずっと無意識につづけてきたことであり、呼吸をするのとおなじくらいに、身についた習慣になってしまってもいる。

信頼しているはずの相手を、その瞬間は心を裏切って、疑っているのを知覚せねばならないのは、苦痛このうえなかった。


しかし趙雲は、振り払う孔明の手をさらに振り払って、ぐらつく身体を、倒れないように支える。

そして、行きかう人のほとんどない廊下の片隅に孔明を座らせると、どこからか水を()んでくるといって立ち上がった。


つづく

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