花の章 その33 斐仁、孔明を翻弄する
気の毒な程子文のことを思いだしつつ、うなるように斐仁は答える。
「おれの前には誰もいなかった。いたのだろうが、すでに逃げていたよ」
「おまえは、子龍に『襄陽の仲間に思い知らせる』という主旨の捨て台詞を吐いて新野を出ていった。
ということは、つまり、程子文は『壺中』だったのか?」
孔明の声色に緊張があるのを感じ取り、斐仁は知らずに笑みをこぼした。
「なにがおかしい」
虎がうなるような声で趙雲が威嚇してくる。
だが、斐仁は笑うのをやめずに、答えた。
「あいつも『壺中』さ。裏切ろうとしていたようだがな。
そして、あんたらが仲間だと信じ切っている麋家の親父も、広い意味では『壺中』だった」
孔明と趙雲が顔を見合わせる。
おそらく、想像していなかったのだろう。
麋竺。
自分には霊感があるとかなんとか、奇妙なことを言う親父だが、斐仁は嫌いではなかった。
嫌いではなかったが、秘密を守らせるためにさんざん脅した。
麋竺はいい相手で、金を出し渋ることはなかったが、しかし、最近はより妙なことを口にしていた……
夢見が悪い。夢に見る。
あの東の蔵の夢を見るのだ、と。
「子仲(麋竺)どのはどこにいる?」
孔明が、さきほどよりもずっと緊張した顔でたずねてくる。
そこではじめて、斐仁は麋竺が新野を出たのだと察した。
『あの親父、そういえば、十日ほど前から、姿を見ていなかった』
夢見が悪いと悩んでいた麋竺が、とうとう秘密に耐えかねた。
そして、『壺中』に反旗をひるがえそうとしていた程子文と通じた。
そうだとしたら?
さらに、それに気づいた『壺中』が、任務をまっとうできなかったおれへの懲罰として、家族を殺した?
そしていま、程子文殺しの罪をおれになすりつけ、抹殺しようとしているのでは。
「くそっ、だまされたのか」
思わずこぼすと、孔明が眉を寄せて、さらにたずねてきた。
「『壺中』に騙された?」
「あいつらしかいない。おれが守ってきた秘密を知っているのは、あいつらしか」
麋竺をもっと見張っていればよかったと、斐仁は思った。
なにより、孔明が隆中から招へいされて以来、麋竺は孔明に接近しすぎていた。
そのことが、なんらかのきっかけを生んだのかもしれない。
どこまでもおれの行く手を阻む、諸葛一族。
悔しかった。
なんの力も持たず、ただ渦の中の木の葉のように翻弄されるだけのわが身がうらめしい。
そして、なにより憎らしかった。
目の前にいる軍師に全く罪のないことはわかっていたが、それでも憎らしかった。
「自分は関係ないと思っていないか、諸葛亮」
「なんだって」
「おまえとて、たまたま運が良かったから助かっただけだ。
本来なら、おまえも『壺中』に入れられるはずだったのさ。
それをうまく阻んでくれた、自分の叔父に感謝するのだな」
「叔父だと、どういう意味だ」
さきほどからの冷静さが一気に吹っ飛んだようだ。
孔明の朱に染まった顔を見て、斐仁はとたんに愉快になった。
相手の弱点を突けたことに、気づいたからである。
「おまえの叔父の諸葛玄が『壺中』を作ったんだよ。
おれの家族を殺し、おれをはめた、『壺中』をな」
「ばかな」
「ばかなものか。おまえは、すこしだけ諸葛玄に似ている。
おまえの顔を見るたび、おれは吐き気を我慢するのが大変だったよ。
なにせ、身寄りがなかったおれを『壺中』に引き入れたのは、諸葛玄だったからな。
もちろん、『壺中』は初めのうちは、まあまあ悪くない居場所だった。
ところが、太守の地位に目がくらんだ諸葛玄はおれたちを見捨てて豫章へ行き、残されたおれたちは代わりに入ってきた連中から、ひどい目にあわされた。
もっとも、おれなんかは、それでもましなほうだったようだぜ。
官渡での戦のあとに、北からやってきた連中が合流してからは、もっとひどくなったようだから」
「なにを言っている」
孔明がかすれた声で言う。
わかっているのだろう。
わかりやすく話しているから。
斐仁は臥龍とさえ呼ばれるこの青年をほんろうするのが楽しくなっている。
つづく




