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花の章 その32 斐仁の心のうち


「元気そうだな」

ひさびさに聞いた孔明の声に、斐仁(ひじん)は沸騰した。

こいつのせいで、そして、こいつの家族のせいで、おれはひどい目に遭わされている。

どうしてもその思いが抜けないのだ。


ちらっと、瓜売(うりう)りの老人の顔が浮かんだが、それも一瞬のこと。

『あの御方』……すなわち諸葛孔明にあらいざらい、知っていることをしゃべるのは、(しゃく)だった。

ましてや、おのれの家族を殺したかもしれない趙子龍が一緒なのである。

孔明ひとりであらわれたなら、斐仁はまだ冷静になれたかもしれなかった。


「よくも俺の前に平然と顔を出せたものだな!

問いに答えろっ。なぜ俺の家族まで殺したのだ! 

俺の家族はなにも知らなかったのに!」


そのときまで、斐仁は趙雲も同じ穴の(むじな)だと思っていた。

なんの疑いもなく。

それは、『あの男』がつねづね、趙雲のことを語っていたからで、だからこそ、同じものだろうと思い込んでいたのである。


ところが、趙雲のほうは、冷笑を浮かべるでもなく、悔恨の表情になるわけでもなく、うろたえるでもなく、ただ戸惑っている。

いつも冷静な趙雲がこわばった顔をしているのは、めずらしいと言えばめずらしかったが、それ以上でもそれ以下でもない。


こいつ、ほんとうに俺の家族のことを知らないのでは。


その疑問が生まれたとき、斐仁の沸騰した心が、一気に冷めていった。

たしかに、こいつはおれの家にいた。

そして、そのときには家族はすべて殺されていた。

だが、こいつもおれと一緒なのではないか。

ただ、そこにいたというだけで、おれに殺しの下手人と勘違いされたのではないか。


斐仁はけんめいに記憶をたぐり、わが家に踏み込んだとき、趙雲のからだに、返り血がまったくなかったことを思い出した。

まさか、おれの家族を殺した下手人は、こいつではない?

だとすると、こいつは『壺中(こちゅう)』ですらないのか。


いや、そうだと考えたほうが(すじ)が通る。

『壺中』の性質と、趙子龍の性質はまったくなじまない。

『あの男』はこいつについて、ずいぶん自慢をしていた。

だが、しかし、そうだからといって、こいつが『壺中』の一員と同様と考えるのは、行き過ぎだったのではないか。


では、おれの家族を殺したの誰だ?

娼妓(しょうぎ)を殺したやつと同じやつが、家族を殺していったのか。

なぜだ。

おれは七年間、しくじらなかった。

麋竺(びじく)のじいさんともうまくやっていたし、劉玄徳(劉備)もあざむき、この趙子龍でさえもくらましてきた。

それが突然に、どうして?


「諸葛亮よ」

地下の奥底からうなる死者のような声で、斐仁は問いかけた。

「どうして襄陽(じょうよう)にやってきた。おれが程子文(ていしぶん)を殺したからか。

言っておくが、おれはあいつを殺しちゃいない」

「そうだな」

あっさり肯定されて、斐仁はおどろいた。

どこにいようと瀟洒(しょうしゃ)なこの軍師は、地下牢の空気が苦しいだろうに、それでも平気なフリをして、つづけてくる。

「程子文を殺したのは、おまえではないことは知っている。

程子文の部屋にいたというだけだ、ちがうか」

「そうだ」

「程子文の部屋に、ほかにだれか人はいなかったか」


斐仁は思い出していた。

『あの男』に教えられるまま、程子文の部屋に入った。

そこに、家族の仇がいるのだと教えられたためである。

程子文の部屋だということは、知らなかった。


入ってみると、さすがの斐仁も仰天するほどに切り裂かれた男の死体が転がっていた。

顔の判別すらできなかった。

これほど丁寧に切り裂かれた死体を、斐仁は見たことがないほどだった。

長い時間をかけて殺したのだと思う。

あたりにはむっとした血の匂いが生々しく立ち込め、呼吸をするのがいとわしいほどだった。

あまりの惨劇の様子に、斐仁は悲鳴をあげた。


これまで、どんな残酷な場面に出くわしても、こころを動かさないよう訓練を受けていたのだが、その死体を前にしてはだめだった。

というのも、そこには狂気のほか、殺人者のゆがんだ喜悦が感じられたからである。

人が、これほどひどいことを人にできるのか。

自分がさんざん悪事をしてきたことを棚に上げ、斐仁はそう(いぶか)った。


悲鳴を聞きつけて、花安英(かあんえい)がやってきた。

きゃんきゃんとうるさい小僧で、程子文を斐仁が殺したのだと騒ぎ立て、その場で捕らえられた。

わけがわからないまま蔡瑁に取り調べられ、そこではじめて、死んだのがほんとうに程子文だったと知った。


程子文。程範(ていはん)

義陽(ぎよう)の士大夫の息子だと自称していた嘘つき男。

いままで綱渡りのような人生を送っていた。

それがとうとう、派手に転落したというわけである。


つづく


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