花の章 その31 斐仁との対決、はじまる
「あなたの境遇はよくわかった。
でもだからといって、五石散はよくないわ」
さきほどよりずいぶん親身になって、藍玉が怒ったように言った。
「嫌なことを忘れられるからといって、飲んでいるお客さんがうちにも何人かいるけれど、同じくらい、五石散で身を持ち崩して死んだ者もいるのよ。
あなたは奥さんの仇を討つ前に死にたいの?」
「そんなことはない。だいたい、さいごに飲んだ五石散は、口にしたおぼえがないのだ」
「でも、その前は飲んでいたのでしょう?」
「そうだが」
肯定して、夏侯蘭はまた妻の亡骸を思い出してしまった。
じつは、かれにもわかっている。
忘れたい。
あんな悲しい姿ではなく、生前の明るく生き生きとした姿を思い出したい。
そう願うから、五石散を飲む。
だが、逆にそうすることで、五石散という文字を見るだけでも、妻のことを思い出し、また悩まされるという悪循環に陥っている。
どうしてよいのか、お手上げ状態だった。
「しばらく薬湯を飲み続けることね。
根気強く飲んでいれば、五石散の毒が抜けてくるはずよ」
「ほんとうか」
「嘘はつかないわ。あなたは姐さんの最後の恩人ですもの」
「どうして、ここまで俺に良くしてくれるのだ」
「あたしは義理は果たすのよ。そうやって生きてきて、いま、店を任されるまでになったの。
それで、あなたはこれからどうするの?」
「もちろん、『狗屠』を捕える。
やつが新野にまだいるのか、それとももうどこかへ行ったのか、それを調べねばならん」
決意を込めてそういうと、藍玉はうなずいて、
「ならば、しばらくここにいるといいわ。
外に出るなら気を付けて。昨日もあなたを探して、陳叔至(陳到)さまの部下が店に顔を出したから」
夏侯蘭が顔をしかめると、藍玉は薄く笑いながら付け加えた。
「大丈夫よ、売ったりしないから。あなたの仇は、あたしの姐さんの仇。協力するわ」
「かたじけない、感謝する」
夏侯蘭は深々と頭を下げた。
藍玉は、そっけなく
「いいのよ」
とだけ言い、それから立ち上がって窓から外を見た。
開いた窓からは、ほかの妓楼の屋根のつらなりと、その上を飛ぶスズメたちの姿が見えた。
空はきれいに晴れ上がっている。
「夜が来たら、また『狗屠』があらわれるのかしら」
新野に『狗屠』がまだいるのか。
それとも逃げてしまっているのか。
逃げてしまったというのなら、いったいどこに?
「あらわれても、もう好きにはさせん」
決意をこめて、夏侯蘭は宣言した。
※
牢というものはどこでもそうであるが、厠とおなじくらいにひどい臭いの耐えない場所である。
その牢に、孔明は、はじめて入ることになった。
いままで裁きの場で囚人と顔をあわせることはあっても、牢に下りて、直接に言葉をかわしたことはなかったのだ。
襄陽城の牢に降り立ったとき、吹き上げてきた臭いがいっせいに襲ってきて、思わず孔明は身体をぐらつかせた。
「大事無いか」
「滑っただけだ」
孔明は、趙雲の顔を見ることが出来なかった。
身体を支えるようにして肩に置かれた手をやんわりと払いのけ、あらためて歩を進める。
そして、おのれを叱る。
これしきで、怯んでいてどうする。
蔡瑁の差し金なのか、それとも劉琮の手配が甘かったのか、斐仁が牢から連れ出されるのではなく、孔明たちが牢におもむくことになってしまっていた。
おそらく牢屋番は蔡瑁らに命令されているだろうから、孔明がこれからする尋問の内容も伝えてしまうだろう。
しかし、仮にそうだとしても、斐仁には聞かなければならないことが多すぎる。
牢屋番が寄ってきたので、事情を説明する。
牢屋番が、斐仁は、いちばん奥の、特別な房に入れてあります、という。
孔明は、斐仁がすでに拷問を尽くされており、廃人になっている可能性もあるのでは、と危ぶんだ。
だが、ほっとしたことに、蔡瑁はそんな卑怯な切り札の出し方はしないようだった。
独房に入ると、首から下を死者のように布でぐるぐる巻きにされ、舌を噛まないように、器具を口に嵌めさせられている、斐仁の姿があった。
孔明とともに趙雲がやってきたのを見ると、斐仁の両目は、獣のようにぎらぎらと敵意で輝いた。
正気は失っていない。
「元気そうだな」
孔明は皮肉をきかせて声をかけた。
牢屋番が、口の器具をはずしてやると、芋虫のように身体をのた打ち回らせつつも、斐仁は怒鳴ってきた。
「この、人殺しめっ。よくも、よくもおれの前に顔を出せたものだな!」
斐仁はまっすぐ趙雲を睨みつけている。
その眼差しだけで人を殺せそうなほどの勢いだ。
斐仁の顔は痣だらけであった。
蔡瑁にさまざまに痛めつけられたにしては、傷が少ないほうだろう。
斐仁が頑丈なのか、それとも、蔡瑁が斐仁に遠慮したか。
なぜ遠慮したのかは、まだよくわからないが。
つづく




