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花の章 その30 狼の介入

青年はさいごまで本名を名乗らなかった。

だが、約束を果たし、夏侯蘭(かこうらん)を牢から出してくれた。

それどころか、役人をぶちのめすという事件を起こした男にたいし、夏侯蘭は『狗屠(くと)』を追うためのとくべつな捕吏(ほり)に任命されるよう、はからってくれた。

青年は、若いのにかなり権力を持つ人間か、あるいは、権力を持つ人間の使いらしい。


印綬(いんじゅ)をもらい、昼夜たがわずどの城の門も自由に出入りできる特権も得た。

身支度をととえるための金や、追跡に使うための元手も、すべて青年を通して与えられた。


なぞの青年は、ついぞ本名は口にしなかった。

それどころか、名を呼びたければ『狼心(ろうしん)』と呼べと冗談のようなことを言った。


その狼心青年は、夏侯蘭が荊州(けいしゅう)へ出立するその日に、こんなことを言った。

「『狗屠』は単独で動いているわけではない。複数の仲間がいる。その仲間に注意しろ。

『狗屠』を追い詰めても、そいつらが襲ってくるかもしれない」

「なぜそいつらは、か弱い女たちを殺してまわっているのだろう」

狼心青年は夏侯蘭の問いに、率直に、わからない、と首を振った。

「はっきりしているのは、『狗屠』の本拠が荊州であるということだけだ。

ともかく荊州へ行って、状況をつかめ。

生きて捕えることができなければ、殺してしまっていい」


「あんたは、曹公の手下なのか?」

夏侯蘭がたずねると、狼心青年は不思議な微笑を浮かべた。

なにかを嘲弄しているような笑み。

そして、それを悟られまいとしているのだが、ついつい笑みがこぼれてしまうといったような、都合の悪そうな笑みだった。


「どうかな」

狼心は、それだけ答えた。

奇妙な青年である。

敵なのか味方なのか、なぜ助けてくれるのか。

深く考えていくと落ち着かなくなるので、夏侯蘭は、考えるのをやめた。



ともあれ、夏侯蘭は狼心の情報をもとに、荊州へ入った。

荊州の最前線である新野(しんや)に入って情報をあつめるかたわら、易京(えききょう)ではぐれた趙雲が、元気に劉備のもとで働いているのもたしかめた。

そして、夏侯蘭は、狼心の情報のとおり、新野でも娼妓ごろしが起こっていることを知った。


街娼を追っていれば『狗屠』にいつかたどり着く。

そう信じて、夜な夜な街を徘徊し、ついに、『狗屠』らしき者を見つけた。

狼心の情報はまちがっていなかったのだ。

そいつの背中しか見ることができなかったが、そいつは客と街を行く娼妓のあとを尾行して、隙をうかがっているようだった。


やや猫背で、獲物を狙う猛禽を思わせる危険な空気をまとっている男。

そいつは一定の距離を保って客と娼妓を尾行していた。


そして、夏侯蘭は気づいた。

もう一人いる。

『狗屠』らしき男とは、また一定の距離をとって、別行動で監視している男がいるのだ。

そいつが狼心が言っていた『仲間』なのだろうか。

夏侯蘭はすぐにでも『狗屠』を捕えてその正体を暴き、妻と同じ目に遭わせてやりたいと思っていたが、その『仲間』の存在が気になって、慎重にならざるをえなかった。


そうこうしているあいだに、娼妓と客が空き家に入っていき、それを狙って『狗屠』とおぼしき男もまた空き家に入っていった。

まちがいない。

『狗屠』を追うべく空き家に入っていった夏侯蘭であったが、時すでに遅し。

娼妓は絶命しており、客も逃げてしまっていた。


一方で、客……部下の斐仁(ひじん)と偶然に遭遇していた趙雲が空き家に踏み込み、なつかしい再会となったわけである。



洗いざらい話してしまうと、すっきりした。

自分は、長いこと、だれかに自分の話を聞いてもらいたかったのだと知った。


藍玉(らんぎょく)は目を丸くしていたが、やがて言った。

「では、『狗屠』という殺人者は、二人いるということなのね」

「二人か三人かはわからん。

はっきりしているのは、『狗屠』の仲間とやらは、ほんとうに監視をしているだけで、娼妓ごろしには加わっていないということだけだ」

「なぜ監視などしているのかしら」

「さてね」


答えつつ、夏侯蘭は考えていることを心のなかでつぶやいた。

もしかしたら、『狗屠』というのは、だれかお偉いさんに飼われている刺客ではないか、と。

嫌な話だが、娼妓は殺しの練習台にされているのではないのか……


つづく

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