花の章 その30 狼の介入
青年はさいごまで本名を名乗らなかった。
だが、約束を果たし、夏侯蘭を牢から出してくれた。
それどころか、役人をぶちのめすという事件を起こした男にたいし、夏侯蘭は『狗屠』を追うためのとくべつな捕吏に任命されるよう、はからってくれた。
青年は、若いのにかなり権力を持つ人間か、あるいは、権力を持つ人間の使いらしい。
印綬をもらい、昼夜たがわずどの城の門も自由に出入りできる特権も得た。
身支度をととえるための金や、追跡に使うための元手も、すべて青年を通して与えられた。
なぞの青年は、ついぞ本名は口にしなかった。
それどころか、名を呼びたければ『狼心』と呼べと冗談のようなことを言った。
その狼心青年は、夏侯蘭が荊州へ出立するその日に、こんなことを言った。
「『狗屠』は単独で動いているわけではない。複数の仲間がいる。その仲間に注意しろ。
『狗屠』を追い詰めても、そいつらが襲ってくるかもしれない」
「なぜそいつらは、か弱い女たちを殺してまわっているのだろう」
狼心青年は夏侯蘭の問いに、率直に、わからない、と首を振った。
「はっきりしているのは、『狗屠』の本拠が荊州であるということだけだ。
ともかく荊州へ行って、状況をつかめ。
生きて捕えることができなければ、殺してしまっていい」
「あんたは、曹公の手下なのか?」
夏侯蘭がたずねると、狼心青年は不思議な微笑を浮かべた。
なにかを嘲弄しているような笑み。
そして、それを悟られまいとしているのだが、ついつい笑みがこぼれてしまうといったような、都合の悪そうな笑みだった。
「どうかな」
狼心は、それだけ答えた。
奇妙な青年である。
敵なのか味方なのか、なぜ助けてくれるのか。
深く考えていくと落ち着かなくなるので、夏侯蘭は、考えるのをやめた。
※
ともあれ、夏侯蘭は狼心の情報をもとに、荊州へ入った。
荊州の最前線である新野に入って情報をあつめるかたわら、易京ではぐれた趙雲が、元気に劉備のもとで働いているのもたしかめた。
そして、夏侯蘭は、狼心の情報のとおり、新野でも娼妓ごろしが起こっていることを知った。
街娼を追っていれば『狗屠』にいつかたどり着く。
そう信じて、夜な夜な街を徘徊し、ついに、『狗屠』らしき者を見つけた。
狼心の情報はまちがっていなかったのだ。
そいつの背中しか見ることができなかったが、そいつは客と街を行く娼妓のあとを尾行して、隙をうかがっているようだった。
やや猫背で、獲物を狙う猛禽を思わせる危険な空気をまとっている男。
そいつは一定の距離を保って客と娼妓を尾行していた。
そして、夏侯蘭は気づいた。
もう一人いる。
『狗屠』らしき男とは、また一定の距離をとって、別行動で監視している男がいるのだ。
そいつが狼心が言っていた『仲間』なのだろうか。
夏侯蘭はすぐにでも『狗屠』を捕えてその正体を暴き、妻と同じ目に遭わせてやりたいと思っていたが、その『仲間』の存在が気になって、慎重にならざるをえなかった。
そうこうしているあいだに、娼妓と客が空き家に入っていき、それを狙って『狗屠』とおぼしき男もまた空き家に入っていった。
まちがいない。
『狗屠』を追うべく空き家に入っていった夏侯蘭であったが、時すでに遅し。
娼妓は絶命しており、客も逃げてしまっていた。
一方で、客……部下の斐仁と偶然に遭遇していた趙雲が空き家に踏み込み、なつかしい再会となったわけである。
※
洗いざらい話してしまうと、すっきりした。
自分は、長いこと、だれかに自分の話を聞いてもらいたかったのだと知った。
藍玉は目を丸くしていたが、やがて言った。
「では、『狗屠』という殺人者は、二人いるということなのね」
「二人か三人かはわからん。
はっきりしているのは、『狗屠』の仲間とやらは、ほんとうに監視をしているだけで、娼妓ごろしには加わっていないということだけだ」
「なぜ監視などしているのかしら」
「さてね」
答えつつ、夏侯蘭は考えていることを心のなかでつぶやいた。
もしかしたら、『狗屠』というのは、だれかお偉いさんに飼われている刺客ではないか、と。
嫌な話だが、娼妓は殺しの練習台にされているのではないのか……
つづく




