花の章 その29 悲報
夏侯蘭は旅の途中で女と出会い、結婚をしていた。
右も左もわからない都会暮らしのはじまりで、若い夫婦には、仕官にさいし、十分にしたくできるほどの手持ちの金が少なかった。
妻はそれを心配し、遠い親戚のところへ行って、したくを手伝ってもらうように頼んでくるといった。
すでに日が落ちかかり、各門も閉ざされようとしている。
夕暮れ時は危ないから、朝になったら行くとよいと夏侯蘭は言ったが、妻は、こういうことは早いほうがいい、それに、親戚の家は目と鼻の先だから、といって家を出ていった。
それっきり、妻は帰ってこなかった。
いつまでも帰ってこない妻が心配になった夏侯蘭は、夜道を探しに行った。
すると、夜道に、妻のくつが片方だけ落ちていた。
心臓を錐で突かれたような痛みと恐ろしさが襲ってきた。
妻の身になにかあったにちがいない。
あわてて屯所へ向かい、妻がいなくなったと申告した。
許都の下っ端役人は、最初は家出したのではないか、あるいは、どこかの男と逃げたのでは、などと言って、ろくに夏侯蘭の訴えを聞いてくれなかった。
ところが、朝になって妻の悲惨な亡骸が路地で発見された。
どうやら、ひとりで歩いていたところを拉致されて、殺害されたうえで路地に投げ捨てられたらしい。
そこへきて、はじめて夏侯蘭は、このところ許都に『狗屠』という謎の下手人による娼妓ごろしが発生していたことを知った。
くらりと目の前が揺れたような気がした。
もし、それを知っていたなら、殴りつけてでも妻を外に出さなかった。
妻は親戚の家に行こうとしたところを襲われたのであり、娼妓だから殺されたのではない。
夏侯蘭は何度もそう訴えたのだが、役人たちは真面目にとりあわず、夫の金を工面するために春を売ろうとしたにちがいないと、きめつけた。
あまりにその横柄で横着な態度に腹を立て、夏侯蘭は役人たちに殴りかかった。
もともと、役人といっても、下っ端も下っ端で、歴戦の勇士である夏侯蘭の敵ではなかった。
逆に、それがいけなかった。
役人たちは一方的にぶちのめされ、夏侯蘭を深く恨み、あることないこと上役に訴え、かれを牢に入れさせてしまったのだ。
牢でも夏侯蘭は暴れたが、首枷、手枷、足枷をつけられてしまい、動きがとれなくなった。
ろくろく水も食料も与えられず、放置された状態で、ときおり、ぶちのめした下っ端たちが牢に見に来る。
そして、
「こいつは自分の女房を寝取られた男だ。それを俺たちに八つ当たりしたのさ」
と、的外れな嘲笑を浴びせかけた。
夏侯蘭は徐々に朦朧として行く意識の中で、茣蓙のうえに寝かせられた冷たい妻の姿を何度も思い出していた。
青白い妻の顔からは、味わった恐怖も、悲しみも、怒りも、なにも読み取れなかった。
死んでしまうとは、そういうことなのだと痛感した。
同時に、いままで自らの手で、何も考えずに屠ってきた敵たちのことをも考えた。
これは報いなのか。
だが、敵を討たねば、自分が、味方が死ぬ。
どうしたらよかったのか。
※
思考の袋小路にはまっていたとき、そいつが現れた。
品の良い身なりをした、若い男だった。
彫りの深い顔立ちの、少しばかりきつい目をした男で、なぜだか夏侯蘭を見て、笑みを浮かべていた。
その男は、名乗らず、牢に転がされている夏侯蘭に語り掛けてきた。
「妻の名誉を回復させたいとは思わないか。仇を討ちたいとは思わないのか」
夏侯蘭はあらためてその若い男を見た。
どこぞの若君であろうことは、牢屋番がおとなしくしていること、下っ端役人が面会の邪魔をしに飛んでこないこと、そして、青年の上質な衣服の光沢で知れた。
「この牢を出る力になろう。だが、君もわたしに力を貸してほしい」
どうすればいい、とかすれた声で夏侯蘭が問うと、青年は答えた。
「『狗屠』は荊州にいる。荊州へ行って、やつを討つのだ」
つづく




