花の章 その24 囚人と老人
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鼾が反響している。
斐仁のいる、この牢屋でできることといえば、おのれの身を嘆くことと、眠ることだけだ。
楽しみなんぞなにもない。
毎日の食事はどうせ腐ったものばかりであるし、不平をいえば、牢屋番に気絶するまでぶちのめされる。
これまで、蔡瑁はしつこく尋問を繰り返していた。
いまのところ殺されていないのは、蔡瑁が、斐仁が裏切ったのではないかと疑っているからである。
斐仁が『壺中』を裏切ったのではと。
そして、それをそそのかした者が背後にいるのではと。
死をじわじわと感じながら、斐仁は闇に落ちた牢屋で、身動き一つせず、目を見開いたまま、考えていた。
七年間。
夢のような年月にも思えたし、まさに夢そのものであったのかもしれない。
夢はうたかたのごとく、たった一日にして弾けて消えた。
すべては『壺中』の承知していることなのだろうか?
『壺中』の狙いはなんだ?
死んだ男が程子文だったということは、どういうことだろう。
部屋に入ったときに切り裂かれていた男。
顔がよくわからなかった。
ほんとうに程子文か?
それに、もし『壺中』が俺を騙しているというのなら……すべてが嘘だというのなら、では、あの屋敷で、娼妓としけこんだときに、俺を襲ってきたのは何者だ?
夏侯蘭とかいう禿げではなかったのか?
そもそも、何のために俺は死ななくちゃならない?
ふと、闇の中に気配をおぼえ、斐仁は顔を起こした。
まさか、『壺中』か?
助けに来たのか、殺しに来たのか。
だが、顔を起こした斐仁の目に映ったのは、『壺中』ではなかった。
孔明でも、趙雲でもない。
まして牢屋番などでもない。
思いもかけない人物であった。
思わず、その人物の名を口にしたが、取り調べのときにつけられた傷が痛んで、うめき声にしかならない。
「久しいな」
と、そいつは言った。
そいつの目は、あきらかに斐仁を哀れみ、そして蔑んでいた。
ほかのだれに蔑まれようと、斐仁は気にしない。
だが、こいつには別だ、と思った。
怒りのあまり、芋虫のように身体をうごめかせると、そいつはふたたび言った。
「これがおまえの末路か。本来ならば、わたしもここにいなければならない身だというのに」
わざわざ感傷的になるために、牢までやってきたわけではあるまい。
だいたい、よくここまで入り込めたものである。
口のきけないもどかしさに苛立ちながらも、斐仁は、そいつのことをゆっくり思い出していた。
むかつくほどに潔癖で、頭の回る、いわゆる『立派』な男だった。
だが、同じ穴のムジナ。
罪の重さは、そいつが自ら口にしているとおり、同等である。
「斐仁よ、このまま、道具のように命を落とす気はあるまい?」
抗議の声を斐仁はあげた。
先ほどまで、死は、楽になれる手段であった。
しかし、そいつの顔を見てから、気が変わった。
自由になりたい。
そいつが天下を堂々と歩いていられるのに、俺だけがこうして、死ななくちゃいけないなんて、間違っている。
抗議の声を、是認の声と取ったらしく、そいつは重々しくうなずいた。
「よし、それでは逃がしてやろう。
ただし、条件がある。ここを出たなら、おまえはわたしに従い、あの御方をお助けするのだ」
『あの御方』だと?
こいつ、いきなりなにを言い出すのだ。
「そのつもりがない、というのであれば、わたしはおまえを見捨てる。
よいな、あの御方のため、おまえは命をささげ、罪を償うのだ」
そんな、どこのどいつかわからない『あの御方』とやらのために、そんな真似ができるか。
斐仁が激しく唸ると、それが伝わったのか、そいつは遺憾そうに眉をしかめた。
「おまえの性根は、そこまで腐り果てたか。
すこしでも良心というものが残っていれば、わたしの言う『あの御方』がだれか、すぐにわかるはずだ」
斐仁は、しばらくそいつと視線を戦わせていた。
そいつは、斐仁の人物を見定めるように、じっとその双眸を見据えていた。
そうして、やがて、くるりと背を向けた。
逃げるな!
斐仁は叫んだが、やはり言葉にはならなかった。
背を向けて、やがて闇に溶けていくそいつは、すっかり視界から見えなくなる直前に、たしかにこう言った。
「また来る。じっくり考えろ、おまえの為さねばならぬ償いを」
※
牢屋番は、『そいつ』が何者か、よく知っていた。
牢屋番が世で見知っているうちで、これほど惚れ込むことの出来る男はない、というほどの人物であったから。
だから、そいつが賄賂として路銀を差し出してきたとき、牢屋番は頑として受け取らなかった。
「夜警がもうすこしでやってくる、さあ、早く行きなさい」
そいつに言うと、そいつは寂しそうな笑みを浮かべ、小走りに、夜闇にまぎれて消えた。
やがて、そいつは城から出ると、隠すように止めていた荷車を引いて、今日の宿屋へ向かっていった。
そのときには、もう『そいつ』は、一日中、働きづめで、くたびれ果てた瓜売りの老人に戻っていたけれども。
つづく




