序章 黒鴉の爪痕 その8 黒鴉に気をつけろ
じつは、孔明は徐庶が自分に対し、言伝を何も残していないことに、がっかりしていたのである。
おなじ司馬徽(水鏡先生)の私塾に通い、ともに青春を過ごした兄弟子。
かれが、後任に、何も残していかないはずがないとは思っていた。
だが、曹操の引き抜きがあまりに急だったので、なにも出来なかったのかもしれないと、思い始めていたのだ。
ところが、申し送り書は存在した。
徐庶は母を人質にされ、曹操に引き抜かれたさい、劉備に孔明を推薦していった。
とはいえ、誇り高い孔明が、果たしてほんとうに劉備に仕えてくれるか、そこは確実だと思えなかったのだろう。
そして、後任にだれが来るかわからないという前提で、申し送り書を残したのだ。
安堵と、呆れる気持ちが、同時に湧き上がってきた。
陳到がやっと自分を認めてくれたらしいことはありがたいが、大事な申し送り書なら、初日に差し出してくるべきものだろう。
「これ叔至(陳到)、なぜいまになって。そんなものを出してきた」
と、孔明の隣の席にいる麋竺が声をとがらせる。
すると陳到は、申し訳なさそうに首を垂れた。
「徐元直(徐庶)どのから、『後任者が、みなとうまくやっていけるようなら、小箱を渡せ』と言いつけられておりました。
元直どのは、後任が孔明さまかどうか、確信をお持ちではなかったようです」
やはりか、と孔明が思っていると、麋竺がさらに陳到を叱る。
「いままで様子を見ていたわけか。慎重すぎるぞ」
「申し訳ございませぬ」
陳到が首をすくめるのを見て、孔明は、両者をとりなして、言った。
「子仲どの、徐兄がそう言ったのであれば、叔至どのも慎重にならざるをえなかったでしょう。
よいのですよ、じっさいに、わたしはこの城になじむのに時間がかかっておりますし」
「軍師どの、人が好すぎますぞ。叔至をガツンと叱ってやらねば」
「いえ、叱るのはよしておきましょう。小箱は手に入るのですし、問題はありませぬ」
孔明はだれの顔もうっとりさせる、自慢の明るい笑顔で答える。
すると案の定、麋竺もほだされて、そうかなあ、と言って、怒るのをやめた。
※
趙雲も合流して、陳到と孔明と、三人で書庫へ向かった。
なぜ趙雲も付いてくるのかと不思議には思ったが、邪魔になるわけでもないし、かれはわたしの主騎だからなと思い直した。
夕暮れの空のとおくから、トンビの甲高い鳴き声と、烏のどこか哀愁を誘う語り合いの声が聞こえてくる。
そろそろ明かりも必要になってくる時間のなか、窓のない書庫の中は暗かった。
はじめて入った書庫だが、整然と片付けられていて、徐庶の、というよりは、事務を取り仕切っていたという孫乾の几帳面さゆえに、ここまで行き届いているようであった。
やはり、あの方もたいしたものだなと、孔明は感心する。
一方で、陳到は迷わず小箱を見つけ出して、明るい所へと持ってきた。
小箱と陳到は表現したが、それは竹簡が何本か入るくらいの大きさがあった。
もらった鍵を鍵穴に差し入れ、開けてみる。
たしかに、徐庶の文字の綴られた申し送り書が入っていた。
徐庶は、いかつい体格で、さらに厳めしい顔をした男だった。
近視というのもあるが、ものを凝視するとき眉根を寄せる癖があるので、余計にひとから誤解され、怖がられていたことを、孔明は思い出す。
そのなつかしい友は、もう新野におらず、遠く鄴都の曹操のもとにいるのだ。
しんみりしつつ、申し送り書の、丁寧で正確な、どこかちまちました印象のあるかれらしい文字を目で追う。
そこには、城内外の、かれがやりかけだった仕事の進捗状況や、だれが担当にふさわしいかなどの情報、奴婢に至るまでの新野城の人間模様、家臣たちの詳しい裏話まで、丹念に書かれている。
孔明は、そばに陳到と趙雲がいるのも忘れ、それらを一気に読み耽った。
竹簡は五束ほど入っていたが、最後の竹簡を取り出す段になり、孔明は箱の底にある、妙なものに眉を上げた。
そこには、なぜだか烏の真っ黒な羽根が入っていたのである。
「なぜこんなところに、烏の羽根が」
思わずつぶやいた孔明に、それまで黙って控えて、孔明を見守っていた趙雲が、来たな、という顔をした。
その様子に、孔明はぴんと来て、尋ねる。
「子龍どの、この羽根に心当たりがあるのですか」
趙雲は、あらためて背筋を伸ばして、孔明に答えた。
「その最後の竹簡に、答えが書いてある」
謎めいたことを言うものだと首を傾げつつ、孔明は、どんどん視界の悪くなってくるなか、暮れゆく太陽のあかりを頼りに、最後の竹簡に目を通した。
そこには、それまで丁寧に書かれていた文字とはあきらかにちがう、いささか怒りのこもっているような太い文字で、こう書かれていた。
『黒鴉に気をつけろ』
つづく