花の章 その21 逡巡
「おまえは、あいつらのことを以前から知っていたのか」
ささやくようにして花安英に言うと、花安英は懸命に笑いをこらえている、といったふうに、肩を震わせている。
そして、小声で返してきた。
「面白いでしょう」
「面白くなどない。なぜ、俺にこれを?」
「あなたが気に入ったから」
不意に花安英は、年相応の、幼さのぬけ切っていない笑顔を、薄闇の向こうから投げて寄越した。
邪気のすっかり失せた、人懐こい笑顔に、趙雲はかえってうろたえる。
この少年の中のいびつな感受性に触れた気がした。
「このことを知りながら、なぜ劉公子にだまっていたのだ。
おまえの主は劉公子(劉琦)だ。俺ではない」
「だって言ってしまったら、こんな面白いものが、もう見られなくなってしまうじゃありませんか」
花安英は、本気でそう思っているのか。
うろたえる趙雲をよそに、花安英は、長い睫毛に縁どられた双眸に、不気味な光を宿らせて、言った。
「劉公子はいい人だけれど、あなたほどに強くない。
惜しいけれど、あなたに『これ』を差し上げます。煮るなり焼くなり、お好きなように。
でもきっと、あなたはあの人にぜんぶ話してしまうのでしょうね。
あの人は、あなたに感謝しますよ」
「軍師は、こんな穢れた話を現状突破のために利用しようとはせぬ」
「そうかなあ。あの人、そんなに聖人君子じゃありませんよ。
賢い人間なら、かならず、この話は利用します」
たしかに、この醜聞を利用すれば得をするだろう。
だが、花安英は劉備と孔明の気質を知らない。
蔡瑁の暗部を白日のもとにさらけ出し、追い出したとする。
その後に、劉琦という神輿をかついで、自分が蔡瑁のいた地位に居座る……そんな世渡りは、劉備と孔明のもっとも嫌うところである。
さらに加えて、孔明は、軍師らしからぬことに、こういった『汚い』話を嫌う。
汚い話を、汚いまま処理することが、性格上、できない。
ふと、むせ返るような花のにおいを吸い込んだ。
いつの間にか、花安英が、さらに距離をつめて、趙雲に近づいてきているのだ。
花安英は、声を立てずに笑いながら、趙雲に腕を伸ばしてくる。
湿った肌の感触が、身体にぴたりとくっついた。
ぞっとした。
潔癖症というわけではないが、蔡夫人と蔡瑁の絡み合いに吐き気をおぼえていたときに、いきなり素肌で抱きつかれたので、嫌悪感が先に立ってしまたのだ。
趙雲は思わず、力いっぱい花安英を跳ね飛ばしていた。
同時に衝立が派手に倒れて、その風で、部屋に灯されていた蔡瑁の蝋燭が掻き消えた。
情事のさなかに闇に包まれた蔡瑁たちは、ようやく、部屋に、自分たちとは別の人間がいることに気がついたようだ。
「だれだ!」
蔡瑁が叫ぶ。
迂闊であった。
趙雲はちいさく舌打ちすると、すばやく周囲を見回した。
傍らには、さすがに身をこわばらせている花安英。
ほこりを被った衝立。
蜘蛛の巣の掛かった調度品。
壁に生えた木のように佇む背の高い燭台。
そうだ、この燭台を武器代わりに振り回し、突破を、と趙雲は考えた。
だが、衝立の向こうで、蔡瑁がはやくも体勢をととのえて起き上がるのを見て、あきらめた。
蔡瑁は智将である。
行動も慎重で、このような後ろ暗い密会においても、すぐそばに側近を控えさせていた様子だ。
ただならぬ蔡瑁の誰何の声に、数人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
この小魚の骨のような、貧弱な坊主を抱えて蔡瑁主従を突破することになるが、負ける気はしない。
だが……
そのとき趙雲の脳裏に浮かんだのは、慣れぬ得物をどう使いこなすか、物置部屋を出た後、どこう逃走経路をとるか、といったことではなかった。
突破はできるだろう。
戦いになっても、負けることはない。
だが、姿を見られたら、どうなる。
つづく




