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花の章 その19 深夜の密会

蔡瑁(さいぼう)が入ってくると、女は、薄衣をかぶったまま、ほうっとため息をついた。

安堵のため息か、官能ゆえのため息か。

こんな夜中に、人目のつかない場所で、男と女がふたりしてこっそりと会っている。

逢引だろうということは、容易に察することができた。


女と蔡瑁は、しばらく無言であった。

しかし、それは、逢うことができてうれしいという甘い雰囲気ではない。

女も沈黙したままならば、蔡瑁も憮然(ぶぜん)とした表情で腕を組み、相手の出方を待っている、というふうだ。


「遅かったではありませぬか」

先に口を開いたのは女のほうであった。

趙雲は、はっとした。

聞き覚えのある声だったのだ。


女は、遅かったと蔡瑁をなじるが、たいして待っていたわけではないことを、趙雲は知っている。

蔡瑁は、そんな女をじっと見据えていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいた。

「いつまでこんなことを続けるつもりだ」

蔡瑁はうなるように言う。

ゆらめく蝋燭の明かりに浮かぶ相貌は、苦々しく歪んでいる。

「はじめたのは、あなたではありませぬか」


女は、そんな蔡瑁の様子を(あざわら)うように、笑った。

笑い声が耐えられないとでもいうのか、蔡瑁はその笑い声に眉をしかめる。

女は、さらに声をたてて笑う。


「こうして逢うことをいまさら怖じているとは、おかしなこと。

もう止めることなどできませぬ。いい加減に、覚悟をきめたらいかが」

「はじめたのは、たしかに儂かも知れぬ。だが、ほんとうに始めたのはお前だ」

その言葉に、女はくぐもった笑い声をあげた。

「そう。泣いて嫌がったわたくしを説得し、あの年寄りの妻にしたのは、あなた」


唄うように言いつつ、女はするりと薄衣を剥いだ。

音もなく床に落ちた薄衣の下から、簡単に髪を結い、地味な女官の服をまとった、年増女があらわれた。

衝立(ついたて)の裏に隠れた格好では、その後ろ姿しか見ることができなかったが、なめらかそうでいて、すこし老けた感じの手の様子から、年増と判断した。


「あなたはわたくしにおっしゃった。

我慢せい。もうすこしで、この城は我らのものとなる、と」

蔡瑁は腕を組んだまま、女をじっと見据えている。

女は、そんな蔡瑁の心の内を、すべて見抜いているようだ。

忍び笑いをしながら、ゆっくりと蔡瑁に近づいていく。

「もう少し、もう少し。そういい続けてもう十年余り。

泣くことも許されず、わたくしは、ただひたすら、耐えてきた。

嫌いな年寄りを夫と呼び、立てていかねばならぬ苦しみ、ほかの女たちとの競って勝たねばならぬ苦しみ、あなたに自由に会うことのできない苦しみ。

ほんとうに、最初は苦しみばかりで、わたくしはここから逃げることばかり考えていた。

でも、あなたが恐ろしくて、とてもそんなことは出来やしなかった」


蔡瑁は、黙ったまま、女の言葉を聞いている。

女は、その白いたおやかな手を、苦い表情をうかべる蔡瑁の頬にあてた。


「わたくしが、正夫人の座についたとき、泣いたのは、ほかのだれでもない、このわたくし。

もうこれで、逃げることなどできなくなってしまったのだと思ったから。

いっそ死ぬ思いで、逃げてしまおうかと本気で考えた。

泣いて、悩んで、そうして、いざ逃げようとしたとき、わたくしの足は動かなかった。

あなたと別れるのが怖かったからではない。苦労に耐えた年月を、捨ててしまうことが惜しかった。

あれほど我慢したのだもの。どうせ逃げても殺される。

それならば、だれもわたくしを殺せないような女になればよい、と。

人の心とは不思議なもの。そう思いついた途端に、わたくしの中から恐怖が消えた。

もうあなたも怖くない。いまは、むしろあなたがわたくしを怖がっている」


またも忍び笑いをしながら、女は、蔡瑁の頬を、まるで子供をからかうような仕草で、さすった。


「なぜ怖がっているのです? わたくしはあなたの思い通りの駒になったというのに。

落ちぶれた豪族の妾であったわたくしに目をつけた、あなたの眼力が正しかったと、誉めてやっているのですよ」

「ありがたがれ、とでもいうのか」

蔡瑁は、また(うめ)くように言う。

だが、女は、くぐもった笑い声をたてると、組まれている蔡瑁の腕を自らの手でほどき、そして、無防備になった胸板に、自身の顔を埋める。

ちょうど、趙雲たちの隠れているほうからは、その横顔が見える形となった。


まさか。


趙雲は絶句し、逢瀬のよろこびに陶然となっているその女の横顔を、凝視せざるをえなかった。

以前、趙雲は劉備とともに、劉表と会見をしたことがあった。

会見といっても、ざっくばらんなものであったが、そのときに、もてなしてくれたのが、襄陽(じょうよう)の主である劉表と、その妻であった。

劉表とはだいぶ年が離れているようで、妻と言うより、娘と言ってもよいくらいに見えた。

その美しい顔はいつもうつむき加減で、場を(なご)ますために劉備がおどけたことを言っても、ただ唇の端を動かすだけ。

おとなしい女であった。

蔡瑁の姉であり、孔明の妻の叔母、蔡夫人。


つづく

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