花の章 その17 襄陽城の夜
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花安英の発する毒にあてられたというわけでもないのだが、趙雲は自室を離れ、いつのまにか襄陽城の内部に深く入り込んでいた。
趙雲の前には、軽やかな足取りの少年。
かれは紙燭を手に、なぜだかうれしげに先を行く。
「私がなにをしても、この城の人間は笑って許してくれるのです」
花安英は誇らしげに言うのであるが、そこにはどこか、周囲に対する苛立ちが、籠められているように聞こえなくもなかった。
紙燭の明かりだけを頼りに、すっかり暗くなった襄陽城を行く。
趙雲は、ときおり外を見て、自分がどこにいるかを確認しようとした。
雨の降り出しそうな空模様の向こうに、わずかに月の白い影がのぞいていた。
月光がほとんどないために、地上の闇は新月の夜のように、濃い。
孔明たちのいる広間から、あまり離れてしまうと、戻り方が判らなくなる不安がある。
すこしでも目印を探そうと、きょろきょろあたりを見回すと、不服そうに花安英が振り向いた。
「落ち着かないなあ。なにか気になることでも?」
「おまえはどこへ向かっているのだ?」
すると、花安英は、察したように含み笑いをした。
「ちゃんと帰してさしあげますよ」
花安英が動くたびに、花の香りが漂ってくる。
まだ完全に成長しきっていない少年の横顔は、まだ柔らかさを残している。
しかし、咽喉元はすでに男のものであり、それが見る者に奇妙な感覚をあたえた。
花安英の華やかな外貌、優雅な立ち居振る舞い、愛嬌のある喋り方などは、どれをとっても、誉め言葉しかふさわしくないものばかりだ。
しかし趙雲は、それでも花安英に、反発にも似た嫌悪感を抱いていた。
馴れ馴れしい素振りや、慇懃無礼な態度に腹を立てたのではない。
なぜ、自分がこうも苛立つのかはわからない。
ただ、虫が好かない。
「わたしは、あのひと……孔明どのに似ていますか?」
「いいや」
考える間もなく、口が先に動いていた。
花安英は、不服そうに眉をしかめる。
「そうかなあ」
「自分では、似ていると思っているのか?」
「あのひとが、十七くらいだったときは、わたしのようだった、とよく言われましたので」
「だれに」
「程範……程子文ですよ」
「どんな男だったのだ?」
趙雲が話題に乗ってきたので、花安英は満足そうに、にっこりと笑うと、答えた。
「ひどい人でした」
「ひどい?」
「ええ。すごくわがままで、人を振り回すことにかけては天下一品。
あのひとに遊ばれた女を集めたら、それこそ市だって開けてしまうんじゃないかしら。
あのひとの一番ずるいところは、とんでもなくだらしなくて、口ばっかりの大法螺吹きのくせに、なぜだか憎みきれない所ですよ。
どんなにひどい目に遭わされた人でも、いつの間にか、なんとなくあのひとを許している。
だから、あのひとは反省しないで、何度もおなじことをくりかえすんだ」
花安英は、死んだ男の悪口を、楽しそうに囀った。
その楽し気な様子が、逆に、花安英自身が、程子文をどう思っていたのかを想像させない。
「まるで、生きている奴のことを、話しているみたいだな」
趙雲がそう言うと、花安英は、はじめて気付いた、というふうに、ああ、そうでしたね、などと、とぼけた返事をかえしてきた。
「友であったのか?」
「いいえ、単なる同僚です。そうか、もう死んじまったのでしたっけ。
なんだか、ひょいと、そのあたりから、出てきそうな気がするのだけれど」
花安英は、紙燭を暗がりにひょい、と移動させる。
もちろん、そこには薄明かりに払われた、闇の残滓があるだけである。
「あんなふうに、誰だかわからないくらいに、ぐちゃぐちゃになっていたものだから、もしかしたらまだ、生きているんじゃないかしらと、どこかで思っているのかなあ」
花安英のつぶやきには、感傷はまるでない。
淡々とした中には、悲しみや憤りもない。
ただ、おのれの心象をそのまま口にしているのだ。
「程子文の遺体は、それほどにひどい有り様だったのか」
「ええ。馬の足に踏み潰された、蛙みたいになっていましたよ。
傷がついていないところがない、というくらい。よほど恨みを買ったのでしょうね」
「では、死んだ奴が程子文じゃない、という可能性もあるではないか」
「それはありませんよ。あれは程子文です」
「しかし、おまえは、程子文の同僚であったというだけで、さほど親しくもなかったのだろう」
「でもわかります。あれは程子文です」
花安英は、きっぱりと言い切った。
それは、次に発せられるであろう、「なぜ」の問いすら封じる、きっぱりとしたものであった。
自信、と言い換えてもよいかもしれない。
「あなただって、もしも、あの人が殺されて、ばらばらになって、誰だかわからない姿になっても、やっぱり、すぐに、これはあの人だ、ってわかるでしょう?」
「軍師はだれにも殺されることはない」
「例えば、の話ですよ」
「それでもだ。ところで、どこまで行くのだ。ここは、城のどのあたりになるのだ?」
つづく




