花の章 その16 絡めとられる趙子龍
以前から、趙雲は襄陽城にくるのが苦手だった。
それは、劉備をとおして、この城を見ていたからかもしれない。
襄陽城の人間は、以前から劉備とその家臣を軽侮し、たかが傭兵隊長、という目で見てきていた。
この城に来ると落ち着かない、というのが趙雲の正直な気持であったが、どうしてそう思うのか、それが今夜、はっきりしたかたちである。
要するに、不健康なのだ。
儀礼だの体面だのも、命があればこそ、気にすることのできるものではないか。
そもそも、命を守るための規則が儀礼であったり、生きるための誇りが体面であったりするもの。
しかし、襄陽城の人間にとっては、すべてが逆なのだ。
そして、その逆転している事実に気づいている者は少ない。
どうあってもおかしい。
不意に、趙雲の脳裏に、なぜだか潘季鵬の姿が浮かんだ。
おまえは、人殺しが巧すぎる。
そう言って、趙雲を突き放し、嫌った男の守ろうとしたのも、もしかしたら、この襄陽城の人間と、同じものではなかったか。
生き死にの場面において、甘ったるい美学など通用しない。
生きるか、死ぬか。
善悪も関係ない。その極論だけだ。
味方を守ろうとするならば、まずおのれが生きなければならない。
生きているからこそ戦えるのだ。
生きて、戦って、守るためには、どんな批判も、軽蔑も恐れない。
どれだけでも人殺しに巧くなれる。
いまならば、そう堂々と潘季鵬に言い返せる気がした。
※
「すこし休まれたほうがよろしいのでは? そうだ、わたしの部屋にいらっしゃい」
花安英は、不意に趙雲に近づいてきて、その袖をぐいぐいとひっぱる。
少年の身体からは、きつい花の香りがした。
あとは腐るばかりの、売れきった果実にも似た、甘い香りだ。
「いや、やめておく。すまないが、軍師をひとりにするわけにはいかん」
趙雲はそう言い、花安英を振りほどこうとした。
花安英のほうは、傷ついたような顔をして、ゆるゆると手を放した。
「わからないな。どうしてあのひとばかりが特別なのだろう」
自室に戻りかけた趙雲は、花安英のことばに足を止めた。
見ると、花安英は、甘さのつよい秀麗な顔に、愁いをうかべている。
「たしかに軍師は特別かもしれんが、それを、なぜおまえが嘆く?」
「だって、不公平じゃありませんか。
いつだって、あのひとは守ってもらえるようにできているんだから。
それくらべると、わたしなんかは救いようがない」
「おまえ、いくつだ。軍師より一回り以上は若いはずだぞ。
それなのに、人生のほとんどが、終わったようなことを言うな。
おまえでそれならば、おまえの倍の俺は、どうすればよいのだ」
趙雲が言うと、花安英は、ちいさく笑った。
「ほんとうに面白いひとだなあ。
それに得な人ですね、ほんとうにそう思っているのが、わたしでもわかります。
でも、あなただって、この城で寝起きしていれば、変わっていきますよ」
花安英は、不意に、伏せていた目をぱっと開いて、蟲惑的なまなざしを趙雲におくってきた。
「あなたに見せたいものがあるんです。
わたしとおなじものを見て、そうしておなじことを言えるのか、教えてくださいませんか」
そうして、花安英は、誘うように手を伸ばし、趙雲の腕を絡め取った。
つづく




