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花の章 その13 闇の中の夏侯蘭


夏侯蘭(かこうらん)は闇の中にいた。

外で、がたがた、ごとごとと大きな物音がしている。

からだを動かして様子を見に行きたいのだが、できない。

まるで自分が(なまり)になってしまったかのように、重いのだ。

指一本、まともに動かせない。

苦しい。

いや、悔しい、ではないのか。


だんだん覚醒してきた頭が、さまざまな情報を思い出す。

自分は許都(きょと)から来た。

そして、いま、荊州の最前線である新野にいる。

狗屠(くと)』を目の前で取り逃がした。

趙雲と再会した……女を買ったのが趙雲でなくてよかった。

殺された女の痛ましい姿をみて、また『あの光景』を思い出してしまい、つい入った妓楼(ぎろう)でさんざん酔っぱらった。


そこからは朦朧(もうろう)としている。

気づいたら趙雲の部下という陳到(ちんとう)という男の家にいて、そこでは良くしてもらったが、やはり『狗屠(くと)』を追わねばならぬと思い、逃げてきた。

屋敷の塀を飛び越えたとき、陳到のちいさな娘が追いかけてきて、

小父(おじ)さん、どこへ行くのっ」

と叫んだのが耳に残っている。


ほんとうに、おれはどこへ行こうとしているのだろう。

そして、ここはどこだ。

何者かに盛られた厄介な五石散(ごせきさん)の毒は抜けきらず、途中でまた意識が途絶えて、気づけば闇のなか。

もしや、また陳到の家に戻ってきているのだろうか。

だとしたら、あのちいさな娘に謝らなければ……


「気づいたようね」

低く乾いた女の声がした。

聞き覚えのない女の声だ。

なんとか重いまぶたをひらき、声のほうに瞳を向ける。

派手な色合いの衣をまとった、疲れた顔の女がいた。

いま許都でも流行している、蛇がのたくったような奇抜な結い方の髪をしている。

その髪に、飾れるだけの(かんざし)を挿しているようすからして、堅気(かたぎ)の女ではないことが知れた。


「ここは」

どこだ、と答える前に、女が言った。

「安心なさい、ここは安全な場所」

「妓楼か?」

「そうね。あたしの名は藍玉(らんぎょく)

いまは、ほら、これを飲んで寝ていなさい」

言って、藍玉と名乗った女は、夏侯蘭を助け起こすと、手にしていた(さかずき)を口に運ぶ。

「これはんだ」

「あなたのからだの毒を外に出すためのお茶よ。

だいじょうぶ、警戒しなくていい」


口に流れ込む苦い薬に四苦八苦しつつ、夏侯蘭はすばやく、藍玉を見た。

藍玉はやつれ、疲れた顔をしていたが、じゅうぶんに美しい女であった。

二十を過ぎたくらいだろうか。

脂粉(しふん)の香りが、疲労困憊の夏侯蘭の鼻に心地よかった。


「なぜだ」

端的にたずねると、藍玉はすこしあきれたような答えを返してきた。

「質問の多い人ね。無理もないけれど。

逆に聞くけれど、あなたは中原から来たの?」

「そうだ」

「中原のどこ? 訛りがあるわね、冀州(きしゅう)の訛り」

「冀州の出身だ。だが許都から来た」


そこまで聞くと、女は何も言わずにすっと立ち上がり、衣擦れの音をさせて行ってしまいそうになる。

あわてて、夏侯蘭はたずねる。

「待て、どうしておれを助ける」

藍玉は振り返らず、短く答えた。

(ねえ)さんを丁重に葬ってくれたからよ」

それだけ答えると、藍玉は扉を静かに閉めて、部屋から出ていった。


どっと力が抜ける。

姐さんだと?

あの斐仁(ひじん)とかいう男の相手をしていた女のことか。


どうしても、あの気の毒な娼妓(しょうぎ)の最期の姿が(まぶた)に浮かぶ。

夏侯蘭は、からだにかけられた布団をきつく握りしめ、ぎゅっと顔をしかめると、その残像を頭から追い払おうとした。

その残像は、いつしか複雑に過去の残像と絡み合い、娼妓の顔が、妻の顔になったり、自分を(あざけ)る役人の顔になったり、自分を助けると申し出てきた男の顔になったりした。


忘れるのだ、いまは悲しみに呑まれている場合ではない。

そうして目を閉じているうちに、黒い波のような眠気が襲ってきた。

さきほどの薬の効果かもしれない。

こんどは、夏侯蘭は素直に眠気に身を任せた。

いまは、眠れ。

来るべき時のために。


つづく

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