表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/475

花の章 その12 孔明、友を悼む


締め切った扉を静かに開くと、まだ生々しい血の跡が床にひろがっているのが、まず目に入ってきた。

けんめいに拭き掃除をしたのだろうが、それでもまだ、痕跡は消しきれないでいる。


想像以上の出血のあとに、孔明は息をのむ。

そして、そこで絶命したであろう男の姿を思い、ほんとうにかれがいなくなったのだということをやっと実感した。

ちょうど、血の跡に白い花びらが散っている。

侍女のだれかが手向けた花なのかもしれない。

それが床のしみの上にあざやかにあって、物悲しさを増していた。


「ひどいありさまでした。手練(てだ)れのしわざであることにまちがいはありませぬ」

伊籍(いせき)はうめくように言った。


血に弱い劉琦(りゅうき)は自室に引っ込んでしまった。

あれほど子犬のようにうるさかった花安英(かあんえい)は、いまは部屋の隅っこでしおらしくしている。


「劉公子(劉琦)のお立場は、日に日に悪くなっていく一方でした。

そのなかで、程子文が、劉豫洲(りゅうよしゅう)(劉備)にご助力願ったほうがよいのではと言い出しました。

そこへ、まるで計ったかのように麋竺(びじく)どのがあらわれたのです。

どうやら麋竺どのは、意外にも程子文と以前から手紙でやり取りをしていて、意気投合していたようでした。

程子文と麋竺どのは、ずいぶん興奮した様子でした。

このまま座して滅びを待つわけにはいかない、このままでは蔡瑁(さいぼう)と……それから、『壺中(こちゅう)』とやらに公子が害されてしまう。

そうなるまえに、こちらから仕掛けるのだと、そう息巻いていたのです」


「やはり、『壺中』か。機伯(きはく)(伊籍)どのは、ほんとうにその名に心当たりがない?」

「ありませぬ。もし危険な組織であると事前に知っていたなら、もうすこし強く程子文らを止めたのですが。申し訳ありませぬ」

「いいえ、責めているのではありません。

しかし、どうして程子文らの決起の話が洩れたのです?」


「それもわからないのです。

公子と親しい武将たちは、蔡瑁に煙たがれて襄陽城の外に追い出されていましたから、兵を集めるのに時間がかかりました。

手をまわしているうちに、だれかが密告したのかもしれませぬ。

ともかく、夕暮れのことでした。

思い出すだけでもぞっとする、あの黄泉の底から響いたような悲鳴が聞こえて、言ってみると、ここで程子文が死んでいたのです。

そばには、斐仁(ひじん)が立っていました。

ただ、おかしなことがありまして」

「なんでしょう」

「斐仁は返り血を浴びていなかったのです。

程子文は斬られたというより、切り裂かれたといっていいくらいのひどい斬られようでしたが、斐仁は返り血を浴びていなかった」

「部屋には、ほかにだれが?」


すると伊籍は、隅っこでちんまりとした花安英に目線を送った。

「おまえが最初に部屋に入ったのだ。詳しいことはおまえから軍師にお話しするのだ」

「話すも何も」

花安英は言いつつ、ふてくされたような顔をして、孔明を見た。

「悲鳴が聞こえたので、部屋に来てみたら、子文が死んでいて、ほら、そこにいる子龍どののところで、ちょうど扉に背を向けるかたちで、斐仁が立っていたのです」


斐仁と同じ位置に立っているといわれた趙雲は、いやそうな顔をして、一歩、横に動いた。

趙雲が立っていたのは、まさに扉の前で、子文の亡骸(なきがら)のあった位置と扉ののちょうど真ん中だった。

花安英が言うことがほんとうなら、斐仁は部屋に入ったままの状態で立っていたことになる。


「斐仁が下手人だと思うか」

趙雲の問いに、孔明はおのれの(あご)を撫でつつ、首を振った。

「返り血を浴びていなかったというのなら、その可能性はますます低くなったとみてよいだろう。

第一、斐仁は家族を殺された仇を討ちに襄陽城(じょうようじょう)に来た。

そう考えるなら、『壺中』のだれかを殺しに来たと考えるのが自然だろう。

しかし、程子文が『壺中』だったとは考えづらい」

「なぜ」

「さっき機伯どのが言ったではないか。程子文らは『壺中』を警戒していたようだと」

「ああ、そうか」


「子文が『壺中』のだれかに間違えられた可能性もないわけではないが、外で殺されたのならともかく、室内で殺されたのなら、その可能性も低いだろう。

斐仁は、この部屋に迷わず入った。なぜ迷わなかったかわかるのかといえば、よそ者の斐仁が忍び込んだのに、すぐに騒ぎにならなかったからだ。

子文の悲鳴が聞こえて、はじめて人がこの部屋に集まり、斐仁を見つけた。

返り血を浴びていない斐仁をな」


「なるほど、言わんとすることが見えてきた。

下手人は別にいて、そいつに案内された斐仁は、ただ部屋に入ってきただけかもしれない、というわけか」

「そうだ。斐仁が部屋に入ったとき、下手人がいたのか、いなかったのか、それは本人に聞かないとわからない。

もしいたとして、蔡瑁に黙っているのはなぜなのかも謎だ。

だいたい、斐仁の家族を子文が殺す、あるいは殺させる理由がない。

子文はずっと襄陽城にいて、公子のために奔走していて、新野の状況なんぞにかまっていられなかったはずだ」

「そうだな。とすると、残るなぞはもう一つ。

麋竺どのはどこへ消えたのか、というところだ」


孔明の疑問に、伊籍が答えた。

「麋竺どのは、蔡瑁らに姿を見られることを警戒して、城内ではなく町のほうに宿をとっていました。

こちらと連絡するときは、行商人の姿に変装して入ってきていたのです。

子文が死んでから、われらも心配になって、宿へ人を遣わしたのですが、すでにもぬけの殻でした」

「麋竺どのは、ひとりで宿に泊まっていたのでしょうか」

「いえ、女が一緒だったようです。

若い女でしたが、顔を見られたくなかったのか、それとも貴人であったのか、いつも被り物をかぶって、宿の者から顔を隠していたとか」


「まいったな」

趙雲がぼやくのに、孔明も同意した。

あの人の好い麋竺が、女を連れて動いている。

その女の正体は、まったくわからない。


孔明は、麋竺が『壺中』かもしれない可能性も考えてみた。

しかし、麋竺の性格の良さや、孔明への親切に満ちた態度などを考慮に入れなくても、麋竺が劉備の義兄であるという立場を捨ててまで、おそらく蔡瑁とつながっている『壺中』に協力することは考えづらい。

とすると、麋竺は劉備のため、孔明のために、たった一人で暴走しているのだろうか。

しかし、なぜ?


「わからぬな」

つぶやいてから、孔明は、程子文が残した血の跡に、ふたたび目を落とした。

まるで早死にすることを予感していたような友。

女を愛し、酒を愛し、おのれの主君のために最期まで奔走した忠臣だった。


もっと語り合う場があったならよかった。

そしたら、こんなに早くにかれを失う事態にはならなかったかもしれない。


孔明はしゃがみ込むと、その乾いた血の跡に、そっと指先を添えた。

目を閉じて、かれのために祈る。

その目じりからは、哀悼の涙が流れていった。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ