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花の章 その6 程子文と孔明


襄陽城(じょうようじょう)の城内は、つい数日前に惨劇があったのだと思わせない穏やかさに包まれていた。

小走りで廊下を行く忙しそうな官吏たち、おなじく、美しい色合いの衣装をまとった官女たち。

奴婢(ぬひ)たちも、いつもどおりの安穏(あんのん)とした顔をして、それぞれの仕事をこなしている。

身分の高い者にしても、孔明たちを見かけて敵意をむき出しにすることはない。


そんな襄陽城の雰囲気は、孔明が劉備に仕える以前におとずれた襄陽城と、何ら変わりがない。

程子文(ていしぶん)はほんとうに殺されてしまったのか、いまもって孔明には実感がなかった。


程子文は、名を(はん)といって、孔明とほぼ同年の、学術論議の好きな男だった。

その派手な美貌ゆえに、浮ついた男と周囲には受け止められていたが、それだけではないことを孔明は知っている。


いつであったか、孔明が劉備に仕えるかなり前のこと。

劉琦(りゅうき)の愛犬が死んだ。

そうとうに可愛がっていたために、劉琦は寝込んでしまった。

世間はそれをそしり、軟弱だとか、女々しいとか、さんざんなことを言った。


その悪口のなかでも、取り巻きがだらしがないから、公子(こうし)(劉琦)はいつまでたってもめそめそしている男なのだというものがあった。

まだ少年らしい正義感を持て余していた孔明は、世間の劉琦に対する冷たさに腹を立てた。

しかし一方で、たしかに劉琦の評判が落ちているのは、取り巻きのせいであるとも思えた。

伊籍(いせき)はともかく、程子文の素行の悪さは際立っていたのだ。


そこで、孔明は、襄陽城への用事のついでに、程子文に文句を言いにいった。

程子文は劉琦の学友ということになっていたが、実態は劉琦の食客同然だった。

城のなかでも上等な部屋をあてがわれて、そこで好き勝手に暮らしている。


孔明が程子文の部屋に行くと、挑発でもしているのか、かれは、女と過ごしている様子だ。

そればかりではなく、女と喧嘩をしていて、声をひそめつつも、互いになにやらはげしく罵り合っている。


これはまずいところに居合わせたなと孔明が(きびす)を返そうとすると、程子文はめざとく孔明を見つけて、声を上げた。

「おお、先生、いいところに来た」

こっち、こっち、と手招いてくる。

逃げようかと思ったが、まだ女性関係には(うと)く純真だった孔明は、とっさの上手な逃げ口上が浮かべられなかった。

まごまごしているうちに、程子文のほうが立ち上がり、何を思ったか、孔明の片手をぐっと掴んで、なんと、おのれの胸の中に抱き留めてしまった。


あまりのことに、孔明はかちんと体をこわばらせる。

目の前の女もまた、目を白黒させていた。


「すまないな、じつは、おれはこの先生と出来ているのだ」

なにを言い出した、と叫びたかったが、程子文はぎゅうっと孔明を抱きしめ始めたのでたまらない。

もがいているうちに、女のほうが勘違いをはじめた。

「まあ、なんてこと。だから、いままでどんな女とも結婚なさろうとしなかったのですね」

「そうさ、見ての通り、いいひとがいるのに、心を(いつわ)って女をめとるわけにはいかない」

「孔明さまはお奇麗だから……」

「あんたもきれいだよ。でも、すまないな、おれはこの先生のほうが好きなのだ。

このままでは、おれも不幸になるし、先生も不幸になるし、あんたも不幸になる」


孔明はじたばたしばらくもがいて、(すき)を見て、思い切り程子文を突き飛ばした。

「なにをするのだ、なにを」

息苦しさと緊張と恐怖と怒りで、顔は真っ赤である。

それをますます勘違いした女は、袖で、はらりとこぼした涙なんぞを拭いている。

「いたし方ありませぬ。身を引きます」

「そうしてくれるか、ありがとう。だましていたわけじゃない。

あんたはあんたで、いい子だったからな」

「慰めはいりませぬ」

そう言って、女はぱっと身をひるがえすと、足音も軽やかに部屋から出ていった。


残されたほうはたまらない。

孔明は程子文を振り返ると、思い切り(こぶし)でほほを殴りつけた。

程子文はそれなりに体格の良い男なので、孔明の拳を受けても、軽く体を揺らがせただけだった。

そこがまた、にくたらしい。


つづく

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