序章 黒鴉の爪痕 その6 頼もしき主騎
「軍師どの、どうであろう、このあと用事がなければ、ともにすこし飲まぬか」
と、仕事のほとんどを終わらせたとき、上機嫌の麋竺が申し出てきた。
そうだな、この方とよい関係を築くところから始めようかなと思い、孔明が諾と答えたとき、廊下の奥からにぎやかな声が聞こえてきた。
最初はだれかがはしゃいでいるのかなと不思議に思った孔明だが、そうではないことは、声が近づいてきて、明瞭になってから、わかった。
「きりきり歩けっ! 真昼間から飲めるほど、おまえたちは偉くなったのか!」
趙雲の声である。
それに応じて、悲し気な悲鳴が聞こえた。
「申し訳ありません、申し訳ありません! 痛いです、子龍どの、手をお離しくだされっ」
「きりきり歩けとは、われらがまるで罪人のような……」
「うるさい、与えられた持ち場を離れて飲んでいるようなやつは給料泥棒、つまりは罪人ではないかっ」
それにつづいて、また「いてて」とか、「お助け」とか、悲し気な声がつづいた。
麋竺と思わず顔を見合わせていると、酒の匂いがする男たちが、数人ほど趙雲にかかえられてあらわれた。
だれもが顔を上気させているが、酒の勢いというわけではなく、恐怖のためのようだ。
趙雲は敵将を睨めつけるような勢いで、男たちをにらみつけて、それから執務室に放りこんだ。
唖然としている孔明に、趙雲は言った。
「こいつらが仕事をしないので、ほかの者も倣って、今日は遊んでしまっていたのだ」
「なんと、では、この者たちがいやがらせの首謀者なのだろうか」
麋竺が声をとがらせると、男たちは床に手をついて、孔明と麋竺に向かって平伏した。
「お許しください、軍師さま! われらは仕事をしようとしたのですが、公祐(孫乾)さまらに止められてしまいまして……」
言い訳しようとするのを、趙雲は一喝する。
「人のせいにするなっ! 止められても無視すればよかろうが!」
「無理ですよぅ」
男たちは、ここにくるまでの道中で趙雲にすこしばかり痛めつけられたらしく、ひいひいと泣き出してしまった。
孔明としても、気の毒になって、まず男たちに言った。
「これまでの、この城にあるしがらみを考えれば、そなたたちの気持ちもわかる。
しかし、わたしに背くことは、わたしを選んだわが君のお心に背くことにもなるのだぞ」
「そ、そんなつもりは」
「今日のことは水に流す。明日からはこの孔明に力を貸してはくれぬか」
孔明が優しく微笑むと、男たちはまるで恵みの雨にでも打たれたかのような顔をして、あらためて平伏し、
「軍師さまのおっしゃるとおりにいたします」
と声をそろえた。
「さて、子龍どの、わたしのために、どうもありがとう。これで、明日から人が増えることでしょう」
心から感謝して孔明が言うと、趙雲はどうだろうというふうに、顎をさする。
「だといいが……こいつらを唆したのは公祐どのらというのが気に食わぬ。
わが君が大人しくしているのに図に乗りおって」
趙雲は怒りに任せてそんなことを言った。
孔明は、ここまで自分のために怒ってくれる趙雲を頼もしく思った。
「とりあえず、明日にまた問題が起こったら、どうするか考えましょう。
ところで子龍どの、これから子仲(麋竺)どのと飲みにいくのですが、貴殿も一緒にいかがですか?」
よし、同行しようというかと思いきや、趙雲はすまなさそうな顔で、答える。
「いや、申し訳ないが、おれは行くところがある。飲みに行くのなら、城の中でしてくれ」
「それはよいが、子龍よ、また行神亭へ行くのか」
と、これは麋竺。
行神亭?
どこの酒店かな、と孔明が想像していると、なぜか趙雲は気まずそうに、そうだ、と短く答えた。
どうも行神亭とやらに行くのをあまり知られたくない素振りである。
それに気づかないのか、麋竺は孔明に説明する。
「子龍はこのところ、城下にある行神亭にばかり通っているのだよ。
たしかにあそこの料理は絶品だからなあ」
「温かくてうまい食事が食べたいだけだ」
素っ気なく答える趙雲に、麋竺はなぜか悲しそうな顔をする。
「そなたも早く身を固めればよいのに。
わが君が一国の主になった暁に妻を娶ると宣言しておるようだが、それではそなたも爺になってしまうぞ」
しかし趙雲はそれをさらっとかわす。
「その前に、軍師どのがわが君を天下へ導いてくれるだろう」
おや、嫌味かな、とすこしばかり構えた孔明だが、趙雲にはそのつもりがないようで、表情を変えずに、そのまま辞去してしまった。
趙雲の背中を目で追いつつ、麋竺が言う。
「あれもなかなか変わり者でな。三十を超してだいぶになるのに、妻を娶ろうとせぬ。
人柄もよい、才覚もある、なにより忠誠無比というわけで、縁談は山ほど来ているようなのだが」
そうか、独り身で、しかも三十を超したばかりだったのか、と孔明は自分の中の趙雲の情報を入れ替えた。
落ち着いている様子なので、てっきり家庭に支えられているのだろうと思い込んでいたのだ。
「子龍にしっかり釘を刺されてしまったから、城下に繰り出すわけにはいかぬな。
軍師どの、どうであろう、貴殿の部屋で飲むというのは」
麋竺に誘われるまま、ささやかな飲み会のために孔明は自室へ向かったが、一方で、趙雲が来なかったことを残念に思った。
つづく