雨の章 その24 仇讐は壺中にあり
そんな劉封にとって、劉表にぴったりくっついている蔡瑁はダニに等しい存在であり、その蔡瑁の姻戚である孔明は、疑わしい存在らしい。
いまも、劉封は剣呑な目を孔明に向けてくる。
「『壺中』というのがでっち上げではないとなぜ言い切れます。
すべて、われらを七年も欺いてきた斐仁のでまかせかもしれない。
斐仁が『狗屠』で、それが露見しそうになったから、許都から派遣されてきた役人の夏侯蘭を殺そうとした。
しかし失敗したので、逐電すべく家族を殺して身軽になったうえで、襄陽城へ向かった。
そう考えることもできるのではありませぬか」
「しかし、それにしては、斐仁に知恵が回りすぎるのでは」
関羽のことばに、劉封は馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、顎で孔明のほうを示す。
「そこにいる御仁が、知恵をつけたのかもしれませぬ」
「まさか」
劉備は困ったような顔をし、関羽と張飛は顔を見合わせ、ほかの武官、文官ともに、困惑の声をあげた。
「どうしてそう思う。まさか、孔明が徳珪(蔡瑁)どのの義理の甥だから、という理由だけでそんなことを言っているのではないだろうな」
劉備の問いに、劉封は悪びれず肩をすくめた。
「それで十分ではありませぬか」
「乱暴に過ぎるんじゃねえか。
だいたい、軍師は徳珪どのの姪っ子とは別れたのだろう」
張飛のことばを孔明は訂正しなかった。
別れたというよりは、逃げられたというほうが正しいのだが、ややこしくなるため、孔明は黙るほかない。
それにしても、劉封がこれほどに自分を疑い、憎んでいたとは。
暗然たる気持ちでいると、劉封は得意そうに笑った。
「問題はかんたんに解決します。
この御仁に問いただし、蔡瑁の真意を探るのです。
それで、やつの野心を暴き、劉州牧(劉表)に突きつける。
そうすれば、さすがのお人よしの劉州牧も、蔡瑁を斬る決断をされるでしょう。
蔡瑁という後ろ盾がなくなった劉州牧のご次男の劉琮どのは自然と失脚。
ご長男の劉琦どのが後継者に決まります。
いや、うまくすれば、義父上に出番が回ってくるかも」
「言葉が過ぎるぞっ」
さすがの劉備が声を荒げる。
劉封は黙ったが、しかし笑みはひっこめなかった。
「仮に軍師が蔡瑁とつながっているとして、だ」
関羽のことばに、となりの張飛が、おいおい、とたしなめる。
「あくまで仮の話だ。劉封の説明はおかしなところがある。
斐仁は襄陽城へ行って、なぜか劉琦どのではなく、劉琦どのの学友であった程子文を殺害した。
それについてはどう説明する」
「劉公子と程子文をまちがえたのでしょう。ねえ、そうは思いませぬか」
劉封が同意を促したのは、となりにいる麋芳であった。
ところが、いつもならガミガミがあがあとやかましいこの男が、今日に限っては静かである。
伊籍と同じくらいに蠟のように白い顔をして、ぎゅっと両手の拳を握って、なにかに耐えているような風情だ。
「劉公子と程子文は姿かたちがまったくちがいます。間違えられることはありえない」
伊籍が震える声で発言する。
なぜ声が震えているのか、孔明にはわからなかった。
まさか、孔明が窮地にいるために、義憤にかられているというのではあるまい。
伊籍の目線は、劉封ではなく、なぜか、そのとなりの麋芳に注がれていた。
しばらく、伊籍はじっと麋芳のほうをにらみつけていたが、やがて、目線を外し、劉備の前に、身を投げ出すようにして屈み出た。
「やはり、劉豫洲(劉備)には、正直に申し上げなければなりますまい」
「なんだい、なにか嘘でもついていたのか」
「いいえ、嘘はついておりませぬ。しかし、みなさまの応援ほしさに、黙っていたことがございます」
「それは?」
「程子文がそもそも殺されたのには理由がございます。
けっして、劉公子に間違われたからではありませぬ。
程子文が殺されたのは、劉公子を州牧にするために決起しようとしたからでございます。
そして、そうするよう仕向けたのは、ほかならぬ、麋竺どのなのでございます」
「なんだって!」
おどろき、劉備が探るように麋芳のほうを見る。
家臣たちも、いっせいに麋芳に目線をあつめた。
その矢のような視線の勢いに耐えきれなかったのだろう。
麋芳はがくりとうなだれると、絞るように言った。
「申し訳ありませぬ、わが君。兄が家で寝込んでいるというのは、うそです。
いえ、このところ夢見が悪いといって具合が悪かったのはほんとうです。
ですが、兄は十日以上前にとつぜん新野を出て、襄陽城に向かったのです」
「どうして」
「わかりませぬ。ただ」
麋芳はごにょごにょとことばを濁す。
「どうした」
「兄は女と逃げたようなのです。家の恥になると思い、黙らざるをえませんでした。
まさか、出奔先でこのような大事をしでかすとは」
「女と逃げた?」
「さいごに兄の姿を見たものがそう申しておりました。
そして、兄は軍師あての手紙を残しておりました」
「その手紙はどこへ」
「恐ろしくて、燃やしてしまいました。ですが、内容はおぼえております。
そこには、一行だけはっきり書かれておりました」
「なんとあったのだ」
「『忘れるな、仇讐は壺中にあり』と」
みなの視線が、いっせいに自分に集まったのが、孔明にはわかった。
孔明の脳裏には、旧友の相貌が浮かんでいた。
崔州平。
かれとおなじ言葉を麋竺もまた、残していった。
そして、斐仁もまた、『壺中』と……
いったい、その言葉にどんな意味があるのだろう。
孔明は、ぞくっと背筋を這い上るものをおぼえた。
雨の章 おわり
臥龍的陣 花の章につづく




