雨の章 その21 斐仁を追って
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馬を走らせているうちに雨は止み、白々と東の空が明るくなってきた。
皮肉なことに、久しぶりの晴天となった。
雲ひとつない青天の下、田圃にいっぱいにはった水がきらきらと輝き、遠方では、ゆうべの雨が蒸気となって、山に霞をかけているのが見える。
もしもこんなときでなければ、詩心のない趙雲でさえ、足を止めてじっくりと光景をたのしみたいと思うほどに、うつくしいながめであった。
日が高くなるにつれ、茂みや木々のあちこちから、蝉の声が聞こえてくる。
激しい蝉の求愛の声も、いまの趙雲には聞こえない。
愛馬を駆って、ひたすら襄陽へと向かった。
おそらく、斐仁も同じ道を向かっているにちがいない。
馬だとしたら、先行しているだろう。
ゆっくりしている暇はなかった。
もし自分のいないあいだに、新野城で問題が起これば、陳到に早馬を寄越すようにと伝えてある。
いつもは昼行灯のように振る舞っているが、ここぞというときにはおどろくほどの胆力を見せる男だ。
うまくやってくれるだろう。
そうして、陽が落ちかけたころ、前方から、馬が駆けてくるのが見えた。
斐仁か。
そう身構えたものの、すぐにそうではないことが知れた。
いや、正しくは、斐仁の知らせを持つ、襄陽城からの早馬と、それに同道している伊籍であった。
そこで趙雲は、伊籍から、斐仁が劉埼の腹心を殺し、その場で捕らえられた、という話を聞く。
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「斐仁が殺めた男は、程子文といって、劉公子(劉琦)のご学友だった男だ。
絵心があるとかで、内気な劉公子とは、格別に仲がよかったのだよ」
言いつつ、孔明は遠くに目をうつす。
そうして、そのまま、厳しい声で言った。
「『壷中』という言葉、たしかにまちがいないな?」
「ああ。叔至(陳到)にも聞いてくれ。
しかし、どういう意味だ? なんらかの組織の名のようだが」
孔明は、趙雲の問いには直接に答えず、つぶやいた。
「忘れるな、仇讐は壷中にあり」
なんだそれは、と問うと、ようやく孔明は、寝台の上にいる趙雲のほうに目を向けた。
硬く冴えた眼差しであった。
「わが友の崔州平が、新野を出る前に、わたしにそう言い残したのだ。
意味はわからぬが、嫌な予感がしたので、とくに覚えていたのだ」
そう言って、孔明は、借金をかえすために出奔すると語っていた崔州平のことを簡単に語った。
淡々と、わかりやすい口調で話すのであるが、それがむしろ、得体の知れない不気味な想像をふくらませた。
孔明は、ほつれてきた髪を、うるさそうに跳ね除ける。
しばらくそうやって、ほつれた毛をいじっていたが、やがて手を止めて、深くため息をついた。
「だめだ。考えがまとまらぬ。やはり、襄陽へ行かねばなるまい。
襄陽城に捕らえられている斐仁から、情報を引き出すのだ。
夏侯蘭のほうは、わが君に相談して、叔至のほかに、捜索の人員を増やす。
五石散に耽溺している人間ならば、どこか悪所で匿われている可能性が高いな。
われらは、斐仁を追うぞ」
「われらというからには、おれも含まれている、と見てよいのか?」
孔明は、なにを今更、というふうに眉をあげてみせる。
「当然ではないか。あなたはわたしの主騎だろう。
麋芳どのや劉封どのらが訴えているように、罪人として引っ立てていくつもりはないぞ。
ちなみに野暮を承知で聞くのだが、明日の朝までに熱は下がるか?」
「もちろんだ」
「よろしい。それでは、わが君に相談してくる。
明日は早いぞ。いまから休んでおくがいい」
つづく




