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雨の章 その20 壺中

いきり立つ斐仁(ひじん)と刃を激しく撃ち合いながら、趙雲は混乱したまま、考える。


今まで起こった出来事が、なにひとつうまく繋がらない。

殺された娼妓(しょうぎ)

娼妓を殺して回っているという狗屠(くと)

その狗屠を追って許都(きょと)からやってきた幼馴染みの夏侯蘭(かこうらん)

夏侯蘭を殺そうとした斐仁、

斐仁の家族は皆殺しにされ、

斐仁はそれが趙雲のせいだと思い込む。


ぎん、とふたたび刃と刃が重なった。

力のぶつかり合いになり、趙雲と斐仁はしばらく真正面からにらみ合う。

「斐仁、聞け。おまえの家族はおれがここに来る前に、もう死んでいた!

それに、なぜおれがおまえの家族を殺さねばならぬのだ!」

「知れたことを! こちらも迂闊(うかつ)であった! 

劉備のすぐそばに、『壷中(こちゅう)』の人間がいるとはな!」

「壷中?」

「いまさら、シラを切る気か!」

斐仁の、その中年太りの兆候さえみせはじめている身体のどこから力が出たのだろうと、不思議に思うくらいに強い力で、趙雲は跳ね飛ばされた。

すぐさま斐仁の刃が、脳天めがけて降ってくる。

これをかわすが、斐仁の攻撃は()まない。

趙雲はじりじりと、中庭に追いつめられる形で、刃を避けていく。


もはや、どんな言葉も、怒りに燃える斐仁の耳には届かない。

何を考えているのかわからないと、仲間内で評されていた男が、はじめてはっきりと表現した感情が、殺意と怒りであった。


ふたたび、刃が繰り出される。

趙雲は中庭に面した廊下の柱に手をかけて、それを支えに、大きく身体を逸らせると、その反動を活かし、欄干(らんかん)に登った。

さらに足をめがけて斬りかかってきた斐仁の刃をかわし、そのまま斐仁に飛び掛る。

地面にもんどりうった斐仁の剣を持つ手首をまず押さえ、つづいて、膝で、両肩を押さえこむ。

それでもなお、斐仁は抵抗をやめなかった。

「聞くぞ。『壷中』とはなんだ?」

「たわけたことを。貴様がそうであろう! 

ぬかったわ。貴様も、もとは貴門の出。連中同様、下賤の者は、虫けら同様に扱える人間であったな。

おれを口止めしただけでは足らず、恐ろしくなっていまさら命を奪おうというのか! 

夜の刺客は、貴様が放ったものであったのだな!」

「刺客?」


そこへ、表のほうから叫び声が聞こえた。

「子龍どのっ、いずこにおわすっ!」

陳到(ちんとう)であった。

趙雲は、思わず陳到のいる方向へ顔を向ける。

ほんの一瞬、力が(ゆる)んだことを逃さず、斐仁は趙雲を突き飛ばし、その手から逃れた。

「待て!」

だが、斐仁は素早く趙雲の手を逃れていく。


「これは……何が起こったのですか」

といいながら、屋敷に入ってきた陳到は、すぐに唖然としている。

それもそのはず、片足が利かないはずの斐仁が、カラスのごとくひらりと身を飛び上がらせ、屋根に上ったのだ。

「斐仁、おまえ、足は? そして、何事だ、これは!」

「ふん、陳叔至(ちんしゅくし)よ、おまえも仲間か!

ずいぶん騙されてきたものだ」

「だ、騙す?」

陳到は目を白黒とさせている。

斐仁は屋根のうえで鼻を鳴らすと、趙雲に向かって叫んだ。

「おい、聞け、趙子龍、この仕打ちは決して忘れぬぞ。

この復讐はきっとする。おぼえているがいい! 

襄陽(じょうよう)の仲間に、目に物みせてくれるわ!」 

言い捨てると、斐仁は糸雨の降る夜の闇の向こうへと飛び去っていった。


残された趙雲と陳到は、唖然としたまま、顔を見合わせる。

「いま、やつは、襄陽、と言ったのか?」

「はい、それがしもそう聞きました。

子龍どの、これはいったい、何事でございますか? 斐仁に、何が起こったのです?」

「わからぬ」

さっぱりわからない。

足を悪くした、有能な部将。

そう思っていただけに、今夜の豹変ぶりは趙雲の混乱をさらに深めた。

いつかの宴の中で、自分は子沢山なので養うのが大変だと、笑いながらこぼしていた男と、さきほどまで、鬼神の形相で刃を交えた男が、同一だとは思えなかった。


陳到が、声を落として言う。

「ともかく、子龍どのが無事で、なによりでございました。お一人であったのは、残念ですが」

そういわれて、ようやく趙雲は、陳到の家に置いてきた夏侯蘭を思い出した。

趙雲の表情で、察したのか、勘の良い陳到は、ぱっと平伏し、問われる前に答えた。

「申し訳ございませぬ。目を離したわずかな隙に」

「逃げたのか」

五石散(ごせきさん)の毒にやられていると見くびっておりました。

しかしあの症状はほんもの。

遠くまで逃げることはできまい、子龍どのを追いかけたのかもしれないと思い、それがしも子龍殿を追ってきたのですが」


五石散の中毒は長いとされる。

人間が(かか)りうる、ほどんどの病の症状が、一気に吹き出たのではないか、というくらいにはげしい苦しみがその特徴だ。

手足のしびれ、頭痛、嘔吐はもちろんのこと、下痢、幻覚、眩暈、高熱と、身体の自由を奪うのに十分な症状がいっせいにあらわれるのだ。

逃れるためには五石散の毒が抜け切るまで歩き回るほかない。

そんな身体で、どこへ行ったのか。


斐仁が言った『刺客』とは、夏侯蘭を指すのか? 

とすると、『壷中』とは、曹操と関わりのある組織なのか。

だとすると、襄陽城がなぜ出てくる。

劉表の居城である襄陽城が……


嫌な予感がした。

それまでにない、不吉で重苦しい予感であった。


「叔至、おまえは夏侯蘭を探してくれぬか。

おれは、斐仁を追う。おそらく襄陽へ向かったのだろう」

「御意。お気をつけめされよ、子龍どの。どうも嫌な予感がいたします」

「うむ。万が一にそなえて、おまえも家族に護衛をつけておけ。

それと、おれが留守のあいだ、軍師の御守(おも)りをたのむと関羽につたてくれ」

「それがいちばんの大仕事ですな。関将軍が渋るさまが、いまから目に浮かびます」

悪い役目ですまぬな、と言い捨て、趙雲は、その足で陳到の屋敷につないでいた愛馬を引き出し、襄陽へと向かった。


つづく

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