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雨の章 その12 狗屠のなぞ

だが、事実として、そんなことはない。

なぜ斐仁(ひじん)劉琦(りゅうき)の腹心を殺さなくてはならなかったのか、明確なところは、直属の上役であった趙雲でさえ掴みきれていない状況である。

そうして、ここがおそらく、他者にはわかりづらいところであろうが、軍師という、(はかりごと)をもっぱらとする役目についていながらも、諸葛亮というこの青年、厄介なことに、名前どおりの明朗な性格ゆえに、その謀自体が得意ではない。

じつは軍師という役職には向いていない青年なのである。


ただし、たとえ身が潔白であったとしても、趙雲は、もし劉備に、部下の不始末の責任を取れ、と言われたなら、それに従う覚悟も決めていた。

部下の不始末をきちんとつける覚悟が、常日頃からあればこそ、上に立てるというものではないか。

そのあたりのことは、将として、趙雲はきちんとわきまえている。


伊機伯(いきはく)伊籍(いせき))どのは、いったいなんと言っている? 

おまえはこんなところでおれの話を聞いてないで、早いところ伊機伯のところへ行って、自分がおれと関係がないことを話すべきじゃないのか」

とたん、孔明は片方の手で筆をもてあそびながら、鼻を鳴らしていった。

「そんなことができるか。あなたはわたしに嘘をつけ、というのか」

「嘘?」 

「わたしとあなたに関係がない、などということが、あるわけがなかろう。

あなたはわたしの主騎(しゅき)であり、わたしはあなたを従える者だ」

趙雲はぴんときた。

「おれをかばうつもりか?」

たずねると、孔明は、くだらぬことをぬかすな、と言わんばかりにふたたび鼻を鳴らし、堂々と胸を張った。

「当たり前だ。わたしは一方的に守られるつもりはないぞ。恩知らずではないからな」

「恩もなにもあるか。おれは仕事だから、わが君のご命令であるから、おまえを守っていただけだ」

「そんなことは知っているとも。だから、なんだ?」

なんだと逆に問われて、趙雲はことばを詰まらせた。

だから、ふつう、軍師とか、人の上に立つ者で要領のいい者、長生きする者は、足を引っ張る者を切り捨てるものだ。

そういった冷酷さがなければ、乱世で生き残ることはむずかしい。

だから、ほかの文官はそうするであろうから、おまえもおれを切り捨てろ、と趙雲は言いたい。


言いたいのだが……


孔明の、意外に素直な光をやどす双眸が、趙雲はなにを言い出すのか、と怪訝そうにしている。

いつもならば、年上を年上とも思わず、傲慢な態度でもって接してくるくせに、今日にかぎって、この素直さはなんなのだ。

さきほどまで双眸にあった『ばか』の二文字はいつの間にか消えていて、いまは『信頼』の二文字にすり替わっている。

妙に気圧(けお)される形となり、思わず、趙雲は出しかけたことばを止めた。


いままで、いろんな種類の人間を見て来たと思う。

優しいもの、残酷なもの、気弱なもの、強気なもの、いろいろ。

だが、こんなにわけのわからぬ青年は初めてだ。

しかも、わけがわからないのに明瞭なのだから、余計にわけがわからない。

味方だから助ける、かばう。

胸のうちにある理屈は、それだけなのである。

どうしてそこまで単純に物事を据えることができるのか、どう生まれ育てば、こんな世の中に、これほど素直に成長できるというのかすら、理解ができなかった。


もし、おれが本当に、勝手に劉埼の腹心を殺すよう指示していたとしたら、この軍師はどうするつもりなのだろうか。

思わず趙雲は、ちらりと孔明を見、その目に、あいもかわらず真っすぐな『信頼』を見つけて、目をそらす。


どうもしないな、最後まで信じきって、泣くのだろう。

その姿は、あまりに残酷で、想像することができなかった。

なるべくならば、見たくない姿である。

おれと真逆の世界に心があるヤツだな、と趙雲は思う。

人を信じる心も、人を信じさせることのできる説得力も、衆目をあつめることのできるほどの光輝も、自分には備わっていないものだ。

この青年のまとう光は、いままで明るい世界で、愛情をいっぱいに受けて育ってきた人間にだけ許される、特殊なものなのだろうか。


荒れ果てた平原と、地平にともりつづける鬼火、軍馬のひずめの音、剣戟の音、風に乗って聞こえる断末魔。

天空はつねにくもり、なみだも涸れ果てたように沈黙をつづける。

それが、趙雲が十五のときから見てきた光景であった。

おそらく、孔明のようにめぐまれた人間が目にしたことはないだろう死屍累々の平原を、裸足で歩いたこともある。

以来、死臭は身体の一部となり、けして消えないものとなってしまった。


「子龍、まさか、くだらぬ考えを抱いているのではなかろうな?」

考え込んでいるところに言葉をかけられ、趙雲は顔をあげる。

いつのまにか、孔明は文机から立ち上がり、趙雲の目の前に来ていた。

「このわたしがいるというのに、まさか、自分が劉州牧(りゅうしゅうぼく)に引き渡されることを危ぶんでいるのではなかろうな。

あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。

たとえだれの命令であろうと、罪人のように襄陽(じょうよう)へ引き立てられるような目には、けしてあわせぬ」

そして、言葉のさいごに、にっこりと、華やかな笑みを浮かべる。

「安心するがいい」

安心しなければ、いけないのだろうな、と逆に思わせる言葉であった。





「しかし『狗屠(くと)』か。本名とも思われぬ。

曹操の膝元の許都(きょと)で、そんな事件が起きていたとは、初耳だな。

殺されたのが娼妓(しょうぎ)だから、あまり騒ぎにならなかったのか」

孔明のことばに、反発をおぼえて趙雲はいった。

「娼妓だろうと貴人だろうと、ひとに変わりはないだろう」

「理屈ではな。しかし、そう思わぬ者の方が多いのが現実なのだ。哀れなことだ」

「哀れ? だれが?」

「両方だ。娼妓たちも、彼の女たちを貶める者たちも。好きで身を落としたわけではなろうに。

ひどい話ではないか。食べるために身を売りつづけ、さいごは虫けらのようにばらばらに刻まれて殺されるなど。

『狗屠』の目的はなんであれ、許せるものではない。

物盗りではない、とあなたは思ったのだな? なぜだ? 

殺されたのは、老いて妓楼からも追い出された、老婆といってもおかしくないほどの女だったのだろう?」

「たしかに衣類がはぎとられていた。だが、物盗りで、あそこまでむごたらしく、人を(あや)める意味がわからぬ。

たとえ女が抵抗したとしても、あんなふうに、腹をかきまわして、外に引きずり出すような真似をする意味がどこにある?

戦場で多くの死体を見て来たが、あれほどまでにひどいものは稀だ。

あれにはなんというか、激情が感じられたな」

趙雲にはめずらしい、抽象的な物言いに、孔明が身を乗り出す。

「激情?」

「そうだ。『狗屠』は、女に恨みでも持っているのではないかな。

なんというか、女という存在そのものに、強い執着というか、執着をとおりすぎた、憎悪を感じた」

「恨み、か。娼妓にぼられたか、性毒でも移されたのかな。

あるいは金子(きんす)か大事なものを盗られたとか?」

いかにも清雅な顔をして、孔明は過激なことばを、ぽんぽんと言ってのけた。

「夏侯蘭であれば、なにかわかるかも知れぬと思ったのだが」


つづく

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