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雨の章 その11 臥龍先生のお叱り


気が付くと、孔明は、文机のまえで手をとめて、固まっていた。

「どうした、書かなくていいのか」

「……書けると思うか?」

ようやく固まっていた口が動いた。

しかし秀麗な面差しはこわばり、口がへの字に曲がっている。

そして、趙雲を見つめるその双眸には、はっきり『ばか』と書いてあった。

趙雲は思った。

弁舌の術を学問として学んできた人間にとっては、口下手な武骨者の話など、さぞかし、つまらなく聞こえるにちがいない。

趙雲は、憮然としつつ、言う。

「すまんな、おれは話すのが得意ではない。話があちこちに飛ぶので、まとめるのは大変だろう」

「それはよいのだ。あなたの話はよくわかる。

いや、分かる分からないの話はどうでもいい。

いまの話、だれにもしていないだろうな?」

していない、と答えると、孔明は、大きくため息をついた。

「ああ、おどろいた、本当におどろいた。

いままでは、ここにいる武将のなかでは、あなたがいちばん利巧だと思っていたのに、とんだ見込みちがいをしていたものだ」

いいつつ、孔明は筆をおいて、こめかみをさする。


趙雲はたずねた。

「なにを驚く? 娼妓(しょうぎ)の死体を発見して、そのあとすぐに埋葬したことを、報告しなかったことか?」

「それもある」

「報告しようと考えた。しかし、夏侯蘭(かこうらん)の思惑がわからぬし、逃げた斐仁(ひじん)のことも気になっていた。

もうすこし自分で調べてから、報告しようとしたのだ。けして、夏侯蘭をかばったわけではないぞ」

「それはわかる」

「ならば、夏侯蘭のことか? 

たしかに許都(きょと)の役人が新野に入り込んでいたというのはゆゆしき問題だ。

だからこそ、娼妓のことも含めて、もうすこし調べてから報告しようと」


すると、孔明は、趙雲の言葉をさえぎり、顔をあげると、するどく言った。


「たわけ。それが問題なのだ! 旧友と再会したので判断力がにぶっていたにしても、ずいぶんと、らしからぬ振る舞いをしたものだな。

夏侯蘭とやらが、曹操の密偵でなかったとしても、敵方の役人であることに間違いはない」

「わが君より兵卒をあずかるひとりとして、新野(しんや)の警備がまだ甘い、という点では反省している」

「ばかもの。わたしが言いたいのはそうではない! 

子龍、もし曹操の役人と夜中に二人きりで話をしているところを誰かに見られたら、どういうことになると思う? 

たとえあなたが清廉潔白であったとしても、世間は疑惑の目を向ける。

しかも曹操の南下が近いというので、これほどぴりぴりしている中で、そんなことが発覚したら、ただではすまぬぞ。このばかめ!」

「すまん」


怒鳴るだけ怒鳴ると、孔明は、水差しから水をついで、一気に飲み干した。

そして、気を鎮めるためだろう。

ため息をついて、趙雲のほうに顔をむける。

「子龍」

「なんだ」

「先に言ったことにつけくわえる。思いついたことを、思いついたまま、話せ。

ただし、隠し事をしたり、嘘をついたりするな。

そして、わたしに話したことは、けしてほかの誰にも漏らしてはならぬ。わが君にもだ」


するどい、真摯な眼差しが、寝台の上に身を起こした趙雲とぶつかった。

冴え冴えとした夜気のうえで見あげる、冬の月を思わせる冴えた双眸だ。

天下一のうそつきでさえ、これほど澄んだ眼差しを前にしては、嘘をつくこともできまい。


「約束だぞ。よいな?」

「わが君にも?」

「わたしは、あなたが嫌がることが判っていて、あえて言っているのだ。

いいな。だれのためでもない。自分のためだ。そして、われらのためでもある」

『われら』

それはたった二人、言った本人と、自分をふくめての二人だけを指すらしい。


趙雲が黙っていると、孔明は、とがっていた声をわずかにやわらげ、たずねてきた。

「疲れたか? すこし休んでもよいが」

そうして趙雲は、ようやく気がついた。

これは尋問にしては気づかいされすぎている。

「軍師、なにを考えている?」

趙雲の問いに、孔明は怪訝そうに眉をしかめる。

「なにを、とは?」

取調べというわりには、部屋には孔明以外の人間もなく、表に兵士はいるようだが、趙雲を閉じ込めておくためというよりは、侵入者を警戒している様子である。

だいたい、尋問の対象者をかいがいしく看病し、縄を打つでも、拷問にかけるでもなく、いちばん落ち着く自室で横たわらせ、気遣いながらの取調べなど、あるものか。


部下の斐仁が、襄陽城(じょうようじょう)程子文(ていしぶん)を殺した。

どうしてそうなったのか、その一点だけを集中して聞けばよいものを、孔明の話の聞き方は丁寧すぎるようにも感じられた。

なぜなのか。

それは、おそらく、孔明を憎んでいるといってもよい、劉備の養子の劉封(りゅうほう)らのことが頭にあるのだろう。

下手をすれば、劉封は裏で糸を引いたのは、孔明ではないか、と疑いすらするだろう。

劉封はなにかと孔明を目の敵にしている。

じゅうぶんありうることであった。


いま、襄陽の劉家では、お家騒動が起こっている。

病が篤いという州牧の劉表には、ふたりの子があり、劉備が後見をしている長男の劉琦(りゅうき)

これの対抗馬として、後継に推されているのは、劉琮(りゅうそう)という、劉琦の腹違いの弟である。

劉琮は、まだ幼いといってもいい少年なのであるが、これの母親は蔡夫人といい、ほかならぬ、孔明の妻の叔母であるのだ。

つまり、麋芳(びほう)と劉封たちは、妻の一族を盛りたてて、ひそかに荊州の実権を握ろうとしているのが、孔明ではないか、と勘繰るだろうというわけだ。


つづく

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