雨の章 その10 許都から来た男
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屋敷には、雑草の生い茂る庭の一角に、ひょうたん型の池があった。
そのすぐそばの四阿の横に、降りつづいた雨のおかげで地面のやわらかくなっている場所を見つけ、趙雲と夏侯蘭は、そこに穴を掘り、女の死体を埋葬してやった。
屋敷の一角に墓を掘るなど、ふつうはしないことであるが、女の身体の破損があまりにひどいために、そうするしかなかったのだ。
それに、四阿の周囲には、むらさき露草や、菖蒲がしずかに花開き、それだけではなく、池の上には、睡蓮が神秘的な姿を見せている。
ここならば、無残な末路をむかえた女も慰められるだろう。
「あいかわらず、つめたいのか優しいのか、よくわからん奴だな」
夏侯蘭は揶揄するように言った。
手についた泥を池の水で洗いながら、趙雲は年月を数えていた。
そして、おどろいた。
夏侯蘭と別れてから、もう九年の月日が流れたのだ。
「子龍は変わっておらぬ」
夏侯蘭は、なつかしさに目を細める。
趙雲のほうは、あるいは変わっていなかったかもしれない。
だが、夏侯蘭のほうは、おどろくべき変りようであった。
頭をきれいに丸刈にしており、いかにも堅気ではなく、諸国を渡り歩く食客、といった風情である。
片方の耳だけに女物の耳輪をし、槍を持つ手には、それぞれまったく趣味のちがう腕輪が、いくつもはめられていた。
これまで仕留めた敵の戦利品、というわけだ。
太い眉と大きな目、中央に鎮座する団子鼻。
その、どこか人を食ったような容貌は、別れたときと変わりがない。
だが、かれの浮かべる表情には、趙雲の記憶と差があった。
夏侯蘭のいちばんの美点であった、突き抜けるような明るさが消えていたのだ。
愛想よくふるまってはいるが、笑顔でごまかそうとしている表情の裏側にあるのは、荒野の狼のような、凶悪で暗い光である。
「ほんとうに、おまえがやったのではないのだな」
趙雲が重ねてたずねると、夏侯蘭は乾いた笑い声をたてた。
「女を切り刻む趣味はない。信じろ」
「しかし、歌なんぞ唄っていたではないか」
「歌?」
夏侯蘭の顔が、怪訝そうにゆがむ。
おなじ白馬義従として、寝食をともにした仲だ。
その人となりはよく知っている。
嘘をついている顔ではない。
空耳であったのか?
「聞こえなかったのか。潘季鵬が唄っていた民謡のように聞こえた。
てっきりおまえが唄ったのだとばかり」
「歌はざんねんながら、俺の耳には入らなかったな。風向きによったのかもしれん。
それにしても潘季鵬とは、なつかしい名前を聞いたな」
「潘季鵬は、生きているのか?」
その名が出ると、夏侯蘭の口元にあった、嘲笑めいた笑みが消えた。
それまで暗かった眼差しに、わずかに陽が灯る。
「潘季鵬か。あいにくと、易京で別れて以来、俺はあの人と会っていない。消息もわからん」
「そうか。おまえも知らぬか」
「ということは、おまえまであれきりなのか。
意外だな。おれなんぞより、おまえのほうが、潘季鵬の気に入りだったではないか」
「潘季鵬の話はあとにしよう。
それより、なぜおまえは新野にいる。常山真定に帰ったのではなかったのか。
それに、なぜこの屋敷に入り込んでいたのだ?」
「一度にあれこれ問われても、答えるのがむずかしいな。
順番に答えるとするか。俺は『狗屠』と呼ばれている殺人鬼を追っているのだ。
そいつが新野で暴れているらしいといううわさを聞いて、新野に来た。
おまえがいま、埋葬してやった哀れな女は、『狗屠』がやったのだ」
「狗屠?」
「許都で、娼妓や夜道をただ歩いていた女たちを殺しまわった化け物だ。
おれはそいつを追ってここまでやってきたのだ」
「許都だと?」
趙雲は身構えた。
許都といえば、曹操の本拠地。
帝を擁し、その後見人として、天下人のように振る舞って、号令をかけている場所である。
うかつであった。
最初に夏侯蘭がどこから来たのかを、たずねるべきであった。
しかし、夏侯蘭は、身がまえた趙雲を手で制しつつ、笑った。
その笑い方は、さきほどまでの乾いたものではなく、なつかしい、あたたかみのある笑い方であった。
ふと、感傷にとらわれる。
夏侯蘭の、そのほがらかな笑い声に、殺伐した戦場で、どれほど救われたか知れなかった。
過去のこころに引き戻されそうになり、趙雲はあわてて、おのれを叱りつけた。
そうして、敢然と、闇の中にたたずむ、幼馴染みをにらみつける。
猛虎を前にして、それをいなそうとする男のような笑みを浮かべている夏侯蘭は、趙雲の視線を受け止めつつ、答えた。
「おまえと別れたあと、おれはしばらくあちこち放浪してまわっていたのだ。
おまえの噂は聞いていたよ。常山真定の趙家の末子が、劉備のもとへ仕えた、とな。
おまえを頼ろうとも思ったのだが、事情があって、許都に留まることにした。
そこで曹公に仕官した」
趙雲は、ふたたび無言のまま、剣を抜いた。
いかにかつて、寝食をともにした友であろうと、おのれが劉備の将である以上、曹操の密偵には容赦はできない。
その気配に、夏侯蘭はあとずさった。
「聞いてくれ、子龍。二度とおまえに会うことはなかろうと思っていた。
会うとしたら、戦場で、敵と味方としてであろうと、そう思っていた」
「なつかしさがまさって、ここまで飛んできた、などと言うのではあるまいな」
「まさか。おれがここに来た理由は、あくまで『狗屠』を追ってだ。
子龍、虫の良いことを言うと思うかも知れんが、おれを見逃してはくれぬか。
いまのおれには、天下の趨勢がどうなろうと、どうでもよい。
『狗屠』を捕らえることができたなら、命さえ惜しくないのだ。
おまえが欲しいというのなら、この首だってくれてやる。
しかし、『狗屠』を捕まえるまでは待ってほしいのだ。
やつが新野に逃げたのはまちがいない。
おれは、なんとしてもヤツだけは逃がすわけにはいかんのだ」
「『狗屠』か。おまえがそいつを追ってきたという、証拠は?」
「ずいぶん疑いぶかくなったのだな。おれの話以外に、俺の証明をする手立ては、ない」
「ならば、おれといっしょに屯所へ来てくれ。
おまえが曹操のところから、わが君に降る、というのならば話を聞く」
「それはダメだ。おれは許都に戻らねばならぬ」
「なんのために? 新野の情報を、曹操にもたらすためにか?」
「そうではない。だが、いまは言えぬ」
じり、と足を踏み出す。
目をそらさぬまま、間合いを詰める。
ほんの一瞬、夏侯蘭の手が上下に動いた。
月明かりに金属片が光る。
と、同時に、びゅん、と風を切る音が聞こえた。
考えるより早く、趙雲は剣を動かし、飛んできたそれを跳ね除けた。
するどい音とともに、それが地面にぼとりと落ちる。
縄標であった
縄標の剣先が、ほんものの、生きた蛇ように、うろこのごとき刃を月光ににぶくひからせながら、地面を素早く這っていく。
その先には闇がある。
みずから意思のあるように、縄標は闇に逃げていく。
趙雲は、縄標を追おうとしたが、いかんせん、暗すぎた。
夏侯蘭の姿は、もうなかった。
どうやら、趙雲の隙を生みだすためだけの攻撃であったらしい。
舌打ちをして周囲を見まわすが、すでに影も形もない。
生暖かい風にのって、声だけが聞こえてくる。
「あいかわらず、飛び道具に弱いな。
しかし、それを避けたのは、おまえが初めてだ。やはり、おまえはすごいやつだよ」
「阿蘭!」
「また会おうぞ。機会があればな」
そうして、夏侯蘭は消えた。
つづく




