雨の章 その9 空き家の戦い
そのとき趙雲が思ったのは、斐仁が空の屋敷に忍び込み、盗みに入ったのではないか、ということであった。
だが、斐仁というのは、趙雲の部将のなかでも、いちばん真面目な男である。
何を考えているか、いまひとつわからないところがあるが、欠点らしいところはそれだけ。
官給品の支給のいっさいを取り仕切っているだけあり、堅実な性格なのだ。
だが、なぜ逃げ出していったのか。
歌は、斐仁が唄っていたのだろうか。
門扉の向こうになにがある?
趙雲は、斐仁が消えた方角を気にしながら、半開きになった門扉をくぐった。
屋敷の玄関も、開け放たれていた。
だが、内部を見ても、荒らされている気配はない。
しかし、月明かりで見える範囲での床は泥で汚れており、その汚れ具合のひどさから、どうやら、人が無断で入り込んだのは、一度や二度ではないことがわかった。
闇にきらりと光るものがあり、拾い上げると、安物の簪であった。
屋敷の大きさからして、かなりの資産家が住んでいたと思われる。
そこにそぐわない安物の簪。
もしかすると、娼妓たちが、仕事場として、この空いた屋敷を利用しているのではないか。
たしかに、いつ見回り兵が来るかわからない場所で仕事をするよりも、こういった屋敷ならば、安心できるだろう。
客も、そのほうがよろこぶ。
趙雲は、ふたたび斐仁のことを思った。
娼妓をひろって、この屋敷に連れ込んだか、連れ込まれたか。
そうならば、女がまだ残っているはずだ。
「だれか、いるか?」
声をかけたが、返事はない。
しんと静まりかえった屋敷の中は、無人のようである。
が、なにかがおかしい。
この闇は、泥のような重さを持っている。
そして、闇に含まれる、嗅ぎなれた、生臭いにおいは……
音も気配もなかった。
避けられたのは、戦場で研ぎ澄まされた勘ゆえであろう。
流れるような動作で闇から向かってきた剣先を避けると、それまで分厚い壁のように思えていた闇がわずかに揺れ、闇の奥にいる襲撃者が、うろたえたのがわかった。
「何奴!」
誰何しても、答えはない。
ふたたび、闇が動く。
二度目の攻撃。
趙雲は、抜き放った剣で、相手の襲撃を見事に受けとめた。
音と空気の動きで、攻撃を読んだのである。
百戦錬磨の趙雲だからこそできたことであった。
しばらく剣と剣とを激しく撃ち合う。
おそらく、敵も趙雲の姿をはっきりとはとらえておるまい。
それでも、容赦なく火花を散らしながら攻撃をつづけてくる。
狭い室内で剣戟をくりかえしているうち、おそらく周りにあったであろう調度品が、壊れたり、割れたりする音が響くようになった。
この屋敷の持ち主が、さぞかし嘆くだろうなと頭の中でまぜっかえしつつ、趙雲は、一気にカタをつけるべく、受け止めた攻撃を渾身の力で跳ね返した。
闇に慣れた目の向こうで、人影がたたらを踏んだのが見えた。
すかさず、趙雲は空いている片方の手で、襲撃者の顔があるとおぼしき位置に、こぶしを見舞った。
手ごたえがあった。
はじめて、襲撃者が、くぐもった声を出した。
まさか、こぶしが飛んでくるとは思わなかったのだろう。
趙雲は、手を休めず、剣を構えようと動いている相手の腹のあたりに切っ先を突き立てた。
だが、相手は武装していたらしく、剣先はにぶい音をたてて、止まった。
ぬかった、刃こぼれしたかもしれない。
舌打ちすると、襲撃者が身を引いた。
つぎの瞬間、相手は、風を切って、蹴りを飛ばしてきた。
思わぬ横からの衝撃に、趙雲は避けきれず、吹っ飛ばされて、壁にぶつかり、そのまま床にくずれた。
趙雲がぶつかった衝撃で、壁のそばにあった、ちいさな飾り棚がこわれた。
派手にがちゃん、がちゃんと物の割れる音がする。
襲撃者がなおも追いかけて襲ってくる。
趙雲は、剣をつかみなおそうとした。
だが、剣より先に、指先になま暖かいものが触れる。
指先だけではない、手のひらに、べったりと触れている。
ぬめっとして生臭い。
血だ。
自分が怪我をしたのではない。
相手が怪我をしているにしても、手のひらにべったりとつくほどの血を流しているには元気すぎた。
もうひとり、怪我人がいる?
おそるおそるとなりを見ると、カッと目を見開いた女の顔が、闇に慣れた目に見えた。
趙雲は、思わず息を呑んだ。
むわっと、血の臭いが鼻腔をおそう。
女は、ただ刺されただけではなかった。
ひどいありさまであった。
戦場でさえ、これほどにむごい死体には、めったにお目にかかれない。
女は驚愕に目を見開いたまま、息絶えている。
たったいま切り裂かれたのだ。
腹を真二つに割かれたうえに、臓物のほとんどを取り出されてしまっていた。
しかも、衣をまとっていない。
人の仕業ではない。ひどすぎる。
そう思った途端、趙雲ははげしい怒りにとらわれた。
目の前の男が、この女を、こんなむごい目に遭わせたのか。
物盗りにしても、異常だ。
その異常さ、人を思いやる心の欠如に、趙雲は怒りをたぎらせた。
襲撃者がやってくる。
趙雲は、かたわらで崩れた、飾り棚の、足を持った。
そうして、力のまま、それを襲撃者に投げる。
襲撃者は、おどろき、歩みをくずした。
趙雲は、あおむけの姿勢のまま、地面に這うようにして足を伸ばし、襲撃者の足を、おのれの足でからめ取った。
そして襲撃者をころばせる。
転んだ襲撃者は、どこかに頭をぶつけたらしく悲鳴をあげた。
趙雲は俊敏に起きあがると、地面に転ぶ襲撃者の身体に馬乗りになり、胸に隠し持っていた短剣を素早く取り出すと、その刃をかざした。
容赦はしない。
その咽喉元めがけ、刃を振りおろす。
「待て、子龍!」
その声に、趙雲のいっさいが止まった。
聞きおぼえのある声。
ふるえがくるほどのなつかしさがこみあげてくる。
まさか?
「あいかわらず、うまいな、おまえは」
組み敷かれながらも、そういって笑う襲撃者の顔は、公孫瓚にともに仕えていた盟友にして幼馴染み、夏侯蘭のそれであった。
つづく




