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雨の章 その8 歌声



折れそうな三日月が、空につくねんとあった。

雨が降ったり止んだりの天気がつづいているために、夜になっても、まといつくような湿気が、そこかしこに残っている。

市場も、ぽつぽつと店じまいする者があらわれて、野菜や魚が売れ残っている店では、安くするからといって客を引き止めていた。


趙雲は、竹細工の店へ寄り、竹の花籠と、おもちゃを買った。

明日になったら、陳到(ちんとう)の屋敷へ見舞いにいくつもりだった。

陳到の長女の銀輪(ぎんりん)が、風邪で寝込んでいる、その見舞いである。

花籠は、陳到の妻に、おもちゃは、銀輪に。

独り身の趙雲にとっては、たまに招かれて口にする陳到の妻の手料理は、ちまたの露店ではなかなか味わえないぬくもりのあるごちそうであった。

新野城(しんやじょう)にも、もちろん腕の良い料理人がいる。

しかし、孔明の警護、劉備の警護、そして兵士の調練と、忙しいために、ゆっくりと味わっている余裕がない。

よその女房の手料理を喜んでいないで、自分でだれか料理の上手な女をみつけて娶ればいいのであるが、趙雲はその気になれないでいる。


それはともかく、店じまいのすすむ夕方の市場のなかで、にぎやかになるのは酒家だ。

つとめを終えた兵士たちや行商人などが、あつまって干し肉などをついばみながら、談笑している。

その動きにあわせるようにして、闇が濃くなるにつれ、周囲に、怪しげな人影がうごめきはじめる。

娼妓(しょうぎ)たちであった。


孔明が、新野の警備を厳重にしたあたりから、娼妓の数は減っていた。

だが、新野にもいくつかある妓楼ですら働くことのできない、いわば、加齢や病、そのほかの理由で妓楼からあぶれた女たちは、例外である。

女たちは、生きるため、食べるために、単独で、警邏の兵卒の見回りを避けるようにして、町のそこかしこにある闇から、男たちに声をかけていた。

戦火に追われるようにしてこの地にたどり着き、家族とも死に別れ、ほかに頼る者もなく、再婚話もまとまらなかった女たち。

生きるためには、身を落として、身体を売るしかない。


それでも、女たちが若いうちは、まだいい。

あわれなのは、年老いた女たちだ。

捕まれば、牢屋につながれるとわかっていて、それでも街に立つことを止めないのは、ほかに食べていく手立てがないからだ。

このところ、そういった哀れな女たちを狙っての殺人が立て続けに起こっている。

それでもなお、女たちは街に立つのをやめない。

やめられないのだろう。

そこには、女の数だけの多くの悲劇がある。


天からふりそそぐ銀の月光を避けるように、女たちは(かぶ)り物をして、その歳月にいためけられた肌を隠すようにして、闇にうずくまっている。

兵卒たちもいい加減なもので、夜回りの当番であれば、女たちを捕まえて牢屋に連れて行くのだが、非番の場合は、声をかけられるまま、連れ立って、さらに濃い闇の向こうへと消えていく。

こうした女たちのことは、表立ってはだれも存在を口にすらしない。

しかし現実に、女たちが春をひさぐこの光景は、新野にかぎらず、どこでも当たり前に目にすることができるものであった。




その夜、趙雲に、覇気がなかったわけではない。

じつは、趙雲は常日頃から娼妓に甘かった。

捕らえたところで、女たちは牢から解放されれば、まぶしい陽光に目を細めつつ、ふたたび通りの暗がりに戻っていく。

そして、夜になるとまた同じことを繰り返すのだ。

もしもこの国が、未曾有の大乱に巻き込まれることがなかったら、女たちは貞淑な妻であったかもしれない。

そう考えると、哀れであった。

娼妓たちとのいたちごっこに()んだ、というだけではなく、娼妓たちへの深い同情が、趙雲に取り締まりをためらわせていた。


趙雲の脳裏には、それなりの家に生まれ、教養も美貌もありながら、金がないというその一点だけで、若いというのに、まるで売られるように、年老いた父に嫁がねばならなかったのだという、母のことがある。

趙雲の母は、財産家で好色でも知られていた父に、家のために売られたのだ。

娼妓とどこがちがうのかと、いつかぼやいていたことがある。

たった一度のその言葉は、きっと子供に聞かせるつもりのものではなかったかもしれない。

しかし、趙雲の耳には、そのことばは消えることなく、ずっと耳に残りつづけた。

母とおなじように、女たちもまた、乱世の犠牲者なのである。

母もすべてあきらめた、暗い目をしていた。

娼妓たちも同じ、光のない目をしている。


物思いにふけりつつ、夜の新野の街をひとりで巡邏(じゅんら)して歩いていると、ふと、風に乗って、歌が聞こえた。

思わず趙雲は、足を止めて、歌の聞こえた方向へ頭を向けた。

妓楼(ぎろう)のそば、というならば、どこぞの遊び人が、妓女(ぎじょ)たちとドンちゃん騒ぎをしている可能性はある。

しかし、趙雲が通りかかったのは、妓楼の立ち並ぶ一角からだいぶ離れた、ふつうの人家のならぶ市街地であった。


妙な予感がした。


歌の聞こえてきたのは、しんとした一角のなかでも、特に人の気配のない、大きな屋敷からであった。

曹操の南下の気配があるという知らせが荊州をかけめぐって以来、金に余裕のある者は、家財道具をいっさい持って、安全な地へと疎開している。

この静かな屋敷の一家もそうであるらしい。

闇夜に屋敷の輪郭が浮かんでいるが、そのところどころに、手入れがされていない証拠の雑草が、顔をのぞかせていた。

このところの雨で、一気に成長したらしい。


歌だ。

まちがいない。

また、聞こえた。


趙雲は緊張した。

歌声が異常だったからではない。

その歌に、聞き覚えがあったのだ。

荊州(けいしゅう)の者が歌うそれとは、あきらかにちがう節回し。

素朴で、荒っぽい、それでいて親しみやすい旋律である。

幽州(ゆうしゅう)の、ひなびた漁村で生を受けた、潘季鵬(はんきほう)が好んで歌っていた。


まさか、と思いつつ、趙雲が屋敷に足を踏み入れようとすると、ちょうど門扉(もんぴ)から、人影が飛び出してきた。

ほかならぬ、趙雲の部将のひとりの、斐仁(ひじん)であった。

闇夜なので、顔色はわからない。

しかし、そのなで肩と、片足を引きずった姿は見間違いようがない。


「斐仁!」


声をかけたが、斐仁らしきその姿は、一度も趙雲のほうを見ずに、そのまま闇へ消えてしまった。

趙雲は、斐仁が飛び出してきた門扉のほうを見た。

開け放たれたままの門扉は、わずかに揺れている。

その門扉の隙間から、生暖かい風に、針のような葉をつけた雑草が、さわさわと揺れている音が聞こえた。

まるで、中へ入れと誘っているようである。


歌はもう、聞こえない。


つづく

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