雨の章 その7 昔のはなし
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趙雲は、父親の姿というものを良いかたちでは憶えていない。
父親には複数の妻がいた。
趙雲は、最後の夫人から生まれた子であった。
父親は老いており、子どもたちすべての面倒を見る体力も気力も、もうなかった。
病床にあって、ただ呼吸をしているというだけの、老いてしぼんだ肉。
ざんねんながら、それが父である。
いちばん上の腹違いの兄が出来た人物で、けんめいに家を守ろうと働いていた。
そのおかげで、末っ子の趙雲も満足な教育を受けることができたが、いかんせん長兄は忙しすぎた。
父親の代わりにはなってくれたが、愛情を十分に与えてくれたかとなると、怪しい。
いつもどこかに、押し殺した寂しさがあった。
母も愛してくれてはいたが、しかし、やはり父親から認めてほしいという気持ちをかなえられないのは、寂しいことであった。
そんな環境に育った趙雲にとって、潘季鵬は、父に代わる存在であった。
潘季鵬が、初めて白馬義従という、安心できる居場所をつくってくれた。
だからこそ、趙雲は潘季鵬を慕った。
それなのに、ひさしぶりに会った男は、無情にも、趙雲を否定し、この場を去れ、という。
突き放された瞬間に、戦場においてもなお残っていた、少年らしい素直さ、そして純粋に人を信じる気持ち、そういった、人間らしいあたたかさが、しぼんでしまった。
荒野に吹きすさぶような、冷たく厳しい風が胸のなかにある。
それは開いたばかりの傷口に、容赦なく吹き付けてきた。
もうだれに頼りすぎてもいけない。
頼ること事態がばかげている。
成果を認めてもらえたとしても、それはごく一部。
相手の意にかなったところだけを認めてもらえるのであって、自分は狂っているのだから、そもそも理解などしてはもらえない。
趙雲は、そう信じたのであった。
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しかしそれでも趙雲は、ほかにもう行き場所がなかったから、潘季鵬のことばに逆らい、公孫瓚のもとを去ることはなかった。
ただ、ぱったりと、弓を射ることができなくなった。
狙いを定めると、潘季鵬の声がよぎるのである。
おまえは殺しが巧すぎる。殺しを楽しんでいるのだ、と。
そうではない。そんなことはない。
否定するたびに、目の前に積み重なり、増えていく遺体を見るに付け、趙雲は笑う。
それは、潘季鵬が言ったような、哄笑などでは決してない。
潘季鵬がおそれた、おのれの本性とやらが、言葉どおりなのを、自信で知覚して、おかしくて笑ってしまうのだ。
ひどく乾いた笑いであったが、どうしようもなかった。
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「そういえば、あなたが弓を射ているところを、あまり見たことがなかったな」
完全に筆をとめて、孔明がこちらを見ているのがわかった。
あまりに心の中を打ち明けすぎたので、失敗したかなと思っていたが、孔明はやさしさを見せて、踏み込んだ心のうちの話は、書くことをやめたようだ。
趙雲は、こういう、孔明のささやかな気遣いが好きである。
「麋芳どのがどうしてあなたを嫌うのかは、叔至(陳到)から聞いたことがある。
弓では勝っているのに、槍ではかなわない。だから嫉妬しているのだと」
「あのおしゃべり」
趙雲は、そこにはいない陳到の、特徴のうすい顔を思いうかべて、悪態をついた。
自分を嫌うものの心のうちを暴かれるのは、自分の弱点をさらされるような心地がするのだ。
そんな趙雲に気をつかってか、孔明は言った。
「麋一族は、弓馬にかけては、右に出るものがいない。昔からそうだ」
意外な言葉に、趙雲は、寝台の真横にいる孔明に顔を向けた。
「知っているのか」
「おなじ徐州だからな」
「では、新野に来るまえに、麋一族と面識があったのでは?」
「ないな。でも、もしかしたら、父や叔父はあったかもしれない」
そのあとに、孔明はぽつりとちいさく、いまは確かめようがないけれど、とつぶやいた。
趙雲は、それはどういう意味か、と詮議しようとして、やめた。
いつもあきれるほどに明るいその横顔が、そのときだけは、暗く重たいものに見えたからだ。
徐々に部屋が翳りつつあったからではあるまい。
しばしの沈黙。
趙雲は、気を遣って黙っていたのだが、孔明は、彼方を見やるような目を、ふっと笑わせて、言った。
「ここで、どういうことだと聞かないところが、あなたの良いところでもある。
しかし、すこし味気ないな」
「家のことは、あまり話したくなかろうと思ったのだが」
孔明は、おや、と意外そうな顔をして、それからつづけた。
「それはたぶん、あなたが、自分の家のことを触れられるのが、嫌だからではないのか。
たしかに、わたしもあまり詮索されるのは好きではないけれど、話してもいい」
「では話せ」
「わたしの父は泰山郡の丞であったが、わたしが十二の年に病で死んだ。
父と叔父はたいへん仲が良かった。
父が病で寝たきりになる前は、よく叔父がきて、父と一緒に旅に出ていたのを覚えている。
たぶん、そのときに麋家のだれかと親交ができていても、おかしくないかな」
「だから、麋子仲(麋竺)殿は、おまえを贔屓しているのかな」
「わたしもそうかと思って、父か叔父を知っているのかと尋ねたのだが、どちらも知らないと言われた」
「そうなのか。おまえへの世話の焼き方を見ていると、自分の息子を構っているようにさえ見えるが」
「わたしのほかにも、若い者にはああいう態度を取る方ではないのか」
「ちがう。おまえにだけだ。だから不思議なのだ。
おなじ徐州の、琅琊の諸葛家ということで、絆を感じるのかもしれないな」
「そうかな。あのまま、徐州に留まっていたなら、もしかしたら、もっと早くにお会いすることもあったかもしれない。
けれど、父が死ぬと、出戻りの長姉と義母のあいだでいさかいが起こってね。
長姉は弟のわたしがいうのもなんだが、たいそうな美人だ。しかし、気が強すぎる。
義母も幼子を抱えていて、どうしたらよいかわからないでいた。
見かねた叔父と兄が相談して、姉たちとわたしと弟の均を叔父が引きとり、義母とその一族を兄が江東へ連れていくことで話を付けた。
叔父は、かねてから親交のあった劉表どのの伝手で、豫章の太守となって、わたしたちもそこで暮らしたのさ」
「豫章というと、楊州だろう。なぜそこから荊州に住むことになった」
「任地争いだよ。叔父は劉表どのから任命された太守だったが、漢王朝…というより、曹操から任命されたべつの太守があらわれてね。
孫策や劉表どのの争いのことも背景にあったのだが、そこで戦になってしまった。
叔父はかなり粘って籠城戦をしたのだが、結局、兵糧が切れてしまったのだ。
そして、これ以上、領民を戦禍に巻き込みたくないといって、任地を明け渡した。
新しい太守の朱皓という男は、さいわいなことに、まったく残酷な男というわけではなくってね。
わたしたちはうまく逃げ道を作ってもらって、命からがら逃げだした。
ところが、叔父とわたしたちに賞金首がかかっているという流言が広がってしまったのだ。
とたんに、有象無象が追いかけてきて、わたしたちを襲ってきた。
徐州から揚州へたどり着くまでの道中より、そのときのほうが、よほど恐ろしかったな。
出来ることなら、東へは、もう行きたくない。
父を殺されたとかで怒りに任せて、民を虐殺した曹操の気持ちが、そのときなんとなくだが、理解できた気がしたよ」
孔明はそう言って、苦く笑う。
だが、ふっと我に返ったような顔になった。
どうしておのれがいままで一度も足を踏み入れたことのない、自分の主騎の部屋にいるのかを思い出したらしい。
「わたしのことはよいのだ」
だれに言うでもなく言い訳して、気まずそうに、趙雲のほうに顔を向けた。
「すまぬ、勝手にぺらぺらと。あなたの話に戻ろう。
弓が苦手なことと、あなたの部下の斐仁とが、どういう関係があるのだ」
「それはこれからだ」
趙雲は、軽く息を吐くと、ふたたび語りはじめた。
つづく




