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雨の章 その3 尋問開始


「子龍、子龍!」

ふっと目を開けると、そこは兵舎の一角にある、おのれの寝室であった。

もちろん雨に打たれてはおらず、目の前にあるのは、小糠雨(こぬかあめ)に沈黙する易京(えききょう)でもなければ、雨露にぬれた夏侯蘭(かこうらん)の顔でもなかった。

 

「大事無いか。うなされていたぞ」

覗き込む顔は、まぎれもない、諸葛孔明のものである。

ああ、と短く答えて、趙雲は、寝台の上でみじろぎをした。

おのれを見下ろす孔明の顔が、すこしほころんだように見えたが、よく観察しようとじっと見ようとしたときには、表情の読めない顔にもどっていた。


いろんな顔を見てきたと思うが、これほどに特異な面貌はほかにない。

美を形容する言葉をすべて並べたところで、この顔をぴったり表現できるものはないのではないか。

華やかさと知性が見事に融合した顔だ。

それでいて軽薄さはない。

名は体をあらわす、のとおり、まばゆい光をそのまま形にしたような青年だ。

観相家(かんそうか)をつれてきて、じっくり観察させたら、どんな答が返ってくるのだろう。


こいつは、たとえ一国を滅ぼしたとしても、敵方の一族の遺体を辱めるような真似はしないだろうな、と思いつつ、趙雲は答えた。

「昔の夢を見ていただけだ」

「そうか。無理をして起きることはない。いま薬湯を()れるからな」


孔明は言うと、薬湯の準備をしはじめた。

いそがしく動き回る孔明の気配を感じながら、趙雲は、しばらく寝台で、夢とうつつの間をさまよっていた。

質素というよりは、わざと何も置かないようにしている、必要最低限のものしかない部屋の、いつもの天井が見えている。

寝台と、水受けを置いておくための古ぼけた台と、書をしたためたり、あるいは書を読んだりするための机、茣蓙(ござ)(ろう)がこびりついた燭台(しょくだい)、衣服をまとめてある箪笥(たんす)

見慣れた物のなかに、孔明がみずから持ち込んだらしい、螺鈿細工(らでんざいく)の施された文机があり、窓のそばに置いていた。

ところどころ塗料の剥げ落ちた窓枠にかこまれた窓から、見事なまでに晴れあがり、さんさんと陽のこぼれる庭が見えた。

そのために、部屋の暗さが、いっそう際立った。


色あせた寝台の(とばり)に、薬湯を片手に、窓から外をうかがうようにしている、孔明の鶴のような細長い影が映っている。

身体のあちこちが痛む。

そして重い。

熱があるのだな、と趙雲は思った。


「軍師」

「なんだ」

「なぜおれは、ここにいるのだ?」

「思い出す前に、これを飲め」

孔明は、淹れたばかりの薬湯をすすめてきた。

熱で体が思うようにならない趙雲のために、手を添えて、口に運ぶのを手伝おうとする。

趙雲はそれを拒み、みずから杯を手にとって、一気に薬湯を飲み干した。

ひどく不味(まず)かった。

「熱冷ましだ。おぼえているか、あなたは、高熱を発して倒れたのだ」

「ああ、そうか、そうだった」

いや、待て。それだけではないぞ。

肝心なことを忘れていないか。

「ちなみに言うなら、気を失ってから、半日が経っている。

いまはもう昼だ。なにか食べるか?」

「そういう気分ではないな」

「そうか。わかった。ではそのまま聞け。もう少し休ませてやりたいところであるが、そうもいかぬ。

思い出せる限りでよいから答えてくれ。

あなたの部下の斐仁(ひじん)になにがあった?」


斐仁は、劉表の食客となった劉備にしたがって新野城(しんやじょう)に入ったおり、将兵に組み入れた男である。

計算が巧みで、兵への官品の支給をまかせていた。

もとは江夏郡(こうかぐん)の出身で、将兵というよりは、鎧を着た文官、といったほうが似合うような、仕事のよくできる、きびきびした男であった。

あまりおのれのことは、しゃべらぬ男なのであるが、いつだったか身内の酒宴の際に、家に帰ると子どもが沢山待っていて、養うのがたいへんだと笑っていた。


むやみに人を殺すような男ではなかった。

 

「いまは、昼なのか!」

がばり、と趙雲が起き上がっても、孔明は予想していたのか、驚かずに淡々と答える。

「そうだ」

「そうだ、ではない。なぜ起こさなかった! 

襄陽はどうなっている? 劉州牧(りゅうしゅうぼく)劉表(りゅうひょう))は?」

必死の形相の趙雲を、孔明のつめたい眼差しが押しもどした。

「落ち着け。いまこの部屋を出ることは許さぬぞ。

いま、わが君が伊機伯(いきはく)どのとお話をしておられる。あなたが出る幕はない。

大人しくしているがいい」

「伊機伯」

呑み込めない薬をなんども舌の上で転がすようにその名を言って、趙雲は思い出していた。


伊籍(いせき)、あざなを機伯(きはく)

謹厳実直(きんげんじっちょく)な男で、劉表が後継者を決めあぐねているのに対し、たびたび直言している人物でもある。

かれは、劉表の長子の劉琦(りゅうき)を推す一派の筆頭も務めていた。

と同時に、かれは劉備も慕い、たびたびこの新野にも顔を出していた。

いわば、劉備と劉琦の連絡係でもある。


その男と最後に会ったのは、そうだ、襄陽(じょうよう)へ行く途中の道だった。

かれもめちゃくちゃに急いで新野に向かっているところで、逆方向からやってきた趙雲に会うなり、言ったのだ。

面倒が起こった、劉公子が危ない、と。


「機伯どのもかなり気が動転していらして、話に要領を得ない。

わが君が話を聞きだしているあいだ、わたしはあなたの話を聞くという手はずだ」

孔明の言葉が、うまく頭に入ってこない。

それをわかっているのか、孔明は、帳を払って近づいてくると、起き上がろうとした趙雲を、やんわりと押しもどし、布団をかける。

「まだ熱があるのだ。混乱しているのはわかる。

だが、なぜこのような事態になったのかは、思い出せるであろう?」

「うむ」

「そのままでよい。つまらぬことでもよいから片っ端から思い出して、わたしに話せ」

しかし、と、かけられた布団を除けて、ふたたび起き上がろうとする趙雲に、孔明は目を細めて言った。

「そのような弱弱しい身体で、どこへ行くつもりだ。更衣ならば人を呼ぶが」

「たかがこれしきの熱で寝ていられるか! 

わが君の警護はどうなっている? そしておまえは、なぜわが君についていないのだ。

伊機伯に害意があったらどうするつもりだ!」

「わが君の警護は、関羽どのが取り仕切っておられる。

刺客が百人あつまっても、わが君にかすり傷ひとつつけることも出来ぬであろうよ。

それと、わたしがここにいる理由だが、肝心なときに昏倒したきり、必要な情報を教えることなく、ひたすらに眠りこけていた男から、情報を引き出すためだ」

趙雲は言葉につまった。

孔明は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべると、畳み掛けた。

「ついでに言うならば、あなたはわたしの主騎(しゅき)であろう。

そんなにふらふらした様子で外に出て、わたしを守れるか?」

「それは」

「無理だろう。わかったなら観念して横になれ。

ついでに言うならば、子龍、これは質問ではない」

と、孔明は、ふざけた笑みを完全にひっこめて、真摯な眼差しをぶつけてきた。

「尋問だ。嘘偽りなく答えよ。話の順序もどうでもよい。

思いついたことを、ありのまま、正直に話すのだ。

わたしに判るように話そうなどと、余計な気は回すな。

話をまとめるのは、わたしがやる」

と、孔明は、文机のうえに、文字を書き付けられるのを待っている竹簡を広げた。


つづく

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