雨の章 その2 幼馴染と恩師
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小糠雨が身体をじわじわと打ち、笠の縁から、雫がぽたぽたと落ちるのが鬱陶しい。
何度もぬかるみに足を取られそうになり、なかなか進まない旅程に苛立ちながらも、それでも進まずにはいられなかった。
なにかを救うとか、なにかを取り戻す、ということが目的ではない。
ただ、確かめたかったのだ。
公孫瓚がなぜ負けたのか。その理由を。
やがて、易京の城壁が見えてきた。
淡い雨の帳の向こうに見えるその姿は、おどろいたことに、ほとんど傷がなかった。
城壁には、雨にぬれながらも、袁紹の旗がゆるやかに翻っている。
勝者の余裕を、そのまま表しているようにも見えた。
難攻不落であったはずの大要塞。
趙雲も、公孫瓚のお供として、何度も訪れた場所だ。
城壁の上に立つと、地平線まで見渡せた。
はるか南に洛陽がある。
幽州人から見れば、洛陽はおとぎの国にも等しい、夢の都であった。
公孫瓚は、いつかここから洛陽を望むのだ、と言っていたが、それは所詮、明け方に見る夢と同様に、ぼんやりしたものであったのかもしれない。
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商人にまぎれて城壁をくぐった。
衛兵たちは、趙雲に気づかなかった。
もし白馬に騎乗しているのであれば、すぐにそれと知られて捕らえられただろう。
成長期の終りに公孫瓚のもとを辞去した趙雲の面差しは、以前とはちがうものに変化していた。
少年臭さは払拭され、りっぱな青年のそれに代わっていた。
自分が目立つということも自覚していたから、念を入れて変装していた。
腰には剣すら差していない。
短刀を懐に隠し持っているだけである。
袁紹軍の人間は誤魔化せるとして、幽州の人間はどうだかわからない。
厄介なのは、公孫瓚の陣営から、いち早く降伏した者である。
趙雲を見知っている者がいるかもしれない。
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さわさわと、やさしげに降る雨の中に、易京は沈みこんでいる。
町全体が、まるでうなだれているようだ。
たまに陽気な一団とすれ違うが、それは征服者である袁紹の兵士たちであった。
易京の民は、だれもかれもが俯いて、希望を失っている。
それはそうだろう。
籠城しても、数年はもつ、といわれていた城なのだ。
それが、一年ともたず、落城した。
住民の衝撃も大きいにちがいない。
やがて、城が見えてきた。
雨のために、補修中のままで、工人はだれもいない。
衛兵すら、雨に打たれない物陰に、ぽつり、ぽつりと立っているだけ。
そして、趙雲は言葉を失った。
あれほど壮麗であった城は、焼け落ち、残った柱も炭化していた。
補修を受けているのは、焼け残ったほんの一部分で、そのほかの区域は、使い物にならないので、打ち壊されてしまっている。
なにより趙雲を絶句させたのは、城の前にさらされた、黒焦げの遺体の数々であった。
もはや、だれの者のものなのか、性別すら定かではない。
しかし、捕縛する前に、公孫一族に炎のなかで自刎されてしまった袁紹軍は、たとえそれが一部であっても……もしかしたら公孫一族のものでなくても…遺体を晒さずにはいられなかったのだろう。
そこではじめて、趙雲は悲しみを覚えた。
もはやそこには、過去を語るものはどこにもなかった。
すべて、公孫瓚とともに燃えていた。
過去を塗り替えるようにして、袁紹の気配が、易京を覆いつつある。
記憶にある光景すら消されていた。
親しく語り合ったひとびとさえも、炎の中に消えて行ったのだ。
せめて、なんらかのかたちで、かれらを弔うことはできないだろうか。
思わず足を進めた趙雲の肩を、強く掴む者がある。
そうして、引きずられるようにして、とある路地に連れて行かれた。
「迂闊だぞ、子龍」
と、その者は言った。
声に覚えがある。
大望を夢見て、ともに故郷を出た幼馴染。
そして、白馬義従としてくつわを並べたことのある男であった。
面倒見のよい男で、あまり人付き合いの得意ではない趙雲と、ほかの白馬義従の者との仲立ちをしてくれた男でもある。
名前を、夏侯蘭といった。
「阿蘭ではないか! よく、生きていたな」
思わず趙雲が言うと、夏侯蘭は自嘲の笑みをこぼした。
「おれも、おまえが官を辞したすぐあとに、易京を出たのだ」
「そうか。では、いまは袁紹の?」
「まさか。いまは天下に流浪する身だ。
だが、かつての主家が滅んだとあっては、無視するわけにもいかん。
おまえも同じ目的で戻ってきたのだろう?」
趙雲が怪訝そうにすると、夏侯蘭は、足音を立てないように、城の前にさらされた遺体のうちの、一体を指した。
それだけは、五体満足で焼けていなかった。
高々と×のかたちに磔にされた、傷だらけの男の身体。
その風貌は、まぎれもない。
「潘季鵬! 生きているのか?」
「ああ、かれだけは、自害せんとする公孫一族を諌めて、隧道を掘って押し寄せてきた袁紹軍と戦いつづけたのだ。
捕らえられて、帰順を説かれたのだが、うんと言わなかったために、あのありさまだ。
袁紹という男、存外に器量が狭いぞ。
礼を尽くせば、潘季鵬ほどの男だ。きっと仕官しただろうに」
趙雲は、夏侯蘭の声を、ぼんやりと聞いていた。
ただじっと、磔にされた潘季鵬の姿に見入っている。
こぬか雨に打たれつづけるその身体は、生きていることの証として、たまにぴくりと痙攣した。
「磔にされて、どれだけ経つ?」
「今日で二日目だ。そろそろまずい。おれひとりでは助けることはむずかしい。
しかし天の配剤。ここには、おまえもいる。潘季鵬を取り戻すぞ」
「どうするつもりだ」
「じつは、懇意にしていた馬商人が協力してくれて、馬は調達してある。
まず、城の警備兵を弓で射止め、その隙に、潘季鵬を下ろして救い出す。
斬り込むと時間がかかるからな。
速さだけが武器となるが、これはおれたちが得意とするところだろう。
子龍、弓はおまえに頼む」
「なんだと?」
「おれが、弓が駄目なのは知っているだろう? おかげで何度と潘季鵬にぶん殴られたか知れん。
おまえなら大丈夫だ」
「待て。おれとて、弓はうまくない。ほかの方法はないのか」
「あると思うか? いちいち槍で刺して回っていたら、あっというまに連中の仲間に取り囲まれて、逃げることすら出来なくなるぞ。
頼む、子龍。時間がないのだ。潘季鵬のためだぞ。頼まれてくれ」
勝手なことをと思いつつ、趙雲は、おのれを揺さぶる旧友の顔を見た。
迷っている間も、決断を促すように、腕をつかまれ、身体を揺すられる…
しつこいな。
わかった、やればいいのだろう、やれば。
つづく




