夢の章 その3 新野での事件
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しばらく、執務室のなか、孔明たちは無言でせっせと手を動かしていた。
想像したとおり、麋竺がいないため、孔明の担当する事務仕事は、いつもの倍だった。
しかしさいわいなことに、劉備が思った以上の早さでどんどん仕事を回してくれるため、案件が滞ってイライラするようなことは起こらなかった。
劉備は手際よく、右から左へと仕事を流してくれる。
孔明も、そのほかの事務に携わる者たちも、劉備がいることで、ほどよく緊張し、その効果で、むしろいつもより仕事がはかどった。
しばらくして、劉備が筆を持つ手を止めた。
「ここにいると、調練場の兵たちの掛け声がよく聞こえてくるな」
孔明がそれに応じる。
「調練の仕上がりは上々のようです」
「結構なことだ。以前より、新野は荊州の最前線だから兵を鍛えるのを怠っていなかったが、とくにおまえや徐庶が調練のしかたを効率のよいものに変えてからは、兵士たちの力強さが増してきたようだ」
「おそれいります」
徐庶と孔明が新野にやってくる前は、兵士たちの調練は、やみくもに鍛えることに集中しすぎていた。
休みなく動かされる兵は、たしかに鍛えられてはいた。
しかしあまりに苛烈な訓練が連続して行われていたため、死者が出るようなこともあったのだ。
徐庶がまず、それをやめさせて、兵に適度な休みをとらせるようにした。
徐庶の引継ぎをした孔明は、さらに兵たちの身体を効率的に鍛えられるように調練の順番を精査して変えた。
すると効果はてきめんで、兵たちはどんどん強くなっていったのだ。
「新野の兵がつよくなれば、州都の襄陽にいる劉表どのも喜んでくださるだろう。
わしほどに役立つ居候は、広い天下を見回しても、ほかにいないってな」
自虐ではなく、心からそう思っているようで、劉備の笑顔は屈託がない。
「曹操、なにするものぞ、だ。おまえと、わしの強い強い兵たちがいれば、百人力だ」
劉備の調子の良いことばに、その場にいた者たちが、みな賛同して、そうだ、そうだ、と声をあげる。
だが、慎重な孔明は、それには賛同しなかった。
天下統一の最有力候補とみなされていた袁紹の戦いに勝利した曹操は、そのまま突進するように北へ兵を向け、一気に袁家の息子たちを屠った。
後顧の憂いがなくなった曹操は、いま、南の荊州を狙って、侵攻の準備を進めていると聞く。
このところ、仕事の中に、中原からの流民が起こす揉め事が入らなくなっている。
それも、曹操が中原をうまく治めている証拠だ。
それほど、曹操は力を付けているのだ。
かつては、荊州には多くの北方からの流民が入り込んでいた。
ほとんどが土地を追われた農民であったが、かれらはまず、荊州の最前線に位置する新野に入ってくるのが常だった。
もちろん、食い詰めているため、かれらは図らずもこころを荒ませており、新野の地元の民ともめ事を起こすことが少なくなかった。
ところが、そのもめ事が、さいきんはほとんど起こらない。
それというのも、流民が入ってきていないからであり、なぜかといえば、おのれの広大な領内で曹操が土地を失った農民に対し、屯田をさせるようになったためだった。
屯田のおかげで、生産力も増え、ひいては兵力の増強にもつながっていると聞く。
曹操は残酷な男ではあるが、兵法家としても政治家としても一流なのである。
それを相手に戦わねばならないときが、刻一刻と近づいてきている。
その緊張が、孔明に軽口を叩かせなかった。
「ところで、このところ新野のあちこちに出没している『人攫い』はまだ捕まっておらんのか」
書簡のひとつを見て、劉備が眉をひそめた。
それは、新野城市の内外で頻発している、子供の誘拐事件についての報告書であった。
「ざんねんながら、まだ捕まっておりませぬ。
どうやら、下手人は複数で動いているようだということまではわかっているのですが」
孔明が言うと、簡雍が手を動かしながら言った。
「器量のよい子をとくに攫っていると聞いておる。
そうなれば、どこぞの妓楼にでも売られたのではと思って探させてみたが、いなくなった子の影も形もなかった。
ひどい話だわい、親の嘆きっぷりを見ていると、こちらまで胸が詰まる」
しんみりする簡雍のことばを、孫乾が引き継ぐ。
「新野ではなく、よその町の妓楼にでも売られてしまったかな。
そうなると、もうこちらとしても探しようがない。
これだけおおっぴらに、われらの目の前で子供が攫われるというのは、気分の良いものではありませぬな」
孫乾のことばに、孔明も同意する。
「まったくです。人攫いは、徴兵しに来たと親に嘘を言って、子供を連れ出しているとか。
これでは民も混乱し、わが君の評判も貶められてしまう」
「まさか、曹操の謀略ということはなかろうなあ」
簡雍が推測するのはもっとものようであったが、しかし孔明は首を横に振った。
「曹操のやり口にしては、細かすぎますね」
「どちらにしろ、子供を取り返してやらねば。
どこでどうしているやら、ひどい目に遭っておらぬとよいのだが」
麋竺に負けず劣らずの人の好さを見せる孫乾がそう嘆くと、場が暗くなってきた。
「そ、そうだ。思い出したのだが、娼妓殺しのほうも、下手人を捕縛するめどがたっておらぬのであろう?
こうもいろいろつづくと、世情が不安定だからということは言い訳にならぬな」
簡雍があらたな話題を持ち出すと、孫乾が、また湿った声をあげた。
「調書によれば、ひどくむごたらしい殺され方をされているようだな。おとといで何人目だったかな」
「三人ですよ。切り裂いたうえに、身に着けていた衣を奪っているようです」
孔明のことばに、孫乾は、自分がそうされたかのように身を抱きしめ、ぶるりと震えた。
「ああ、おそろしい。下手人をなんとしても捕まえんとな」
「屯所の当番は、たしか今月からは趙子龍ではなかったか」
「そうです。そういえば、今朝は姿が見えませんね」
趙子龍……つまり趙雲は、劉備に加えて孔明の主騎もしているので、麋竺同様、朝になると、かならず孔明のところに顔をだすのが日課になっていた。
ところが、今朝は顔を出していない。
不思議に思っていると、簡雍が、書簡のひとつを取り出して、言った。
「これではないか。昨日、子龍の部下の家族が皆殺しになったという事件が起こったとか」
「ほんとうですか」
またも凄惨な知らせに、孔明が身を乗り出すと、簡雍は書簡を読みつつ、答える。
「うむ、どうやらこちらは下手人がはっきりしているようだ」
「だれです」
「ほかならぬ、その部下がおのれの家族を殺して逃げたのではないかとある。
詳しいことは、そいつを捕えて話を聞くとも書いてあるぞ」
「まだ捕まっていないのですか」
「子龍が追いかけているそうだ。だから、今朝は姿が見えないのだな」
なるほど、と孔明は納得した。
それにしても、ひどい事件が立て続けに起こっている。
世情不安のために民心が荒れているのはわかるが、すこし続きすぎている気もした。
しかし、だからといって、最大の敵である曹操の謀略かというと、それも違う気がする。
証左はないが、曹操がこれほど細かい、いやがらせのような謀略を仕掛けてくるとは思い難かった。
ふと気づくと、劉備がこちらを優しい目で見ていた。
成長したわが子を愛でるような目をしている。
はて、いまの殺伐としたやり取りの中に、わが君を喜ばすような要素があったかな、と孔明は首をひねる。
「どうされましたか、わが君」
問うと、劉備は照れくさそうに笑って、答えた。
「なに、おまえがやっとこの城の者たちに慣れた様子だからな。こっちもうれしくなったのだ」
率直な物言いに、さすがの孔明も、なんといってよいかわからない。
それは簡雍や孫乾も同じようだったようで、照れ臭いような、きまり悪いような、複雑な表情を浮かべていた。
「最初は、おまえとみんながうまくやっていけるか、心配していたが、いや、今日は様子を見に来てよかった。
おまえがこれほどみんなと馴染んでいるのがわかったのだからな。
みんなも、これからも孔明をよろしく頼むぞ。
孔明も、みんなとうまくやっていってくれ」
「仰せのままにいたします」
照れ隠しで無表情のまま頭を下げると、簡雍らも後に続いて、御意、と応じた。
簡雍や孫乾たちは、臥龍という号ばかり目立つ、なんの実績も見当たらない孔明に対し、さいしょは反発していたのだ。
ところが、最近は孔明の実力を認めるようになり、批判的な態度をとることがなくなった。
それを見て、劉備が喜んでいる、というわけである。
孫乾が、奇妙に浮ついた雰囲気になった場をごまかすかのように、言った。
「それにしても軍師どのは仕事を覚えるのがお早い。
司馬徽先生の塾では、実務も学ばれていたのですか」
「それもありますが、叔父を手伝って、十五のときから働いていたのが、いまになって役に立っているのでしょう」
答えながら、孔明は、少年だったころに抱いていた、自分の希望を思い出していた。
それは、お人よしの叔父を世に出すため、自分が補佐して力いっぱい働くという希望であった。
その希望は、叔父の死によってついえたが、いまは、その代わりに、叔父に似た劉備という主を得て、こうして働いているわけである。
叔父の名も玄で、劉備のあざなも「玄」徳。
もしかしたら、なにかの引き合わせかもしれないな、と孔明は思った。
つづく




