夢の章 その2 孔明、夢から醒める。
諸葛玄と孔明が連れ立って宿に帰ると、案の定、大姉が怒り心頭といったふうで待っていた。
大輪の花のような大柄な女人である。
孔明にはほかに、もうひとりの姉と、弟がいる。
長兄もいるが、その兄・諸葛瑾は、江東の地にて暮らしているのだ。
「叔父さま、よくご無事でお戻りくださいました。
けれど亮、おまえはなぜ黙って出て行ったの! とても心配したのよ、この短慮もの!」
眉をつりあげて怒る大姉に対し、諸葛玄がとりなしてくれる。
「叱るな、わたしも黙って出て行ったようなものだ。みな、心配をかけてすまなかったな」
諸葛玄がとりなすと、大姉は顔を怒らせたまま、ため息をついた。
「叔父さまは亮に甘い」
「亡き兄上から預かった大事な子だからな。もちろん、おまえたちも大事だぞ」
「とってつけたようなお言葉ですこと」
「むくれるな。ほんとうにおまえたちも大事なのだ。
それより、瑾に手紙は書いたか」
「ええ、明日にでも人に託して、無事に襄陽についたとお知らせするつもりです」
「姉さま、叔父さま、ほっとしたら、おなかが空いたわ。
宿の方の料理の支度が終わったようですし、奥へ行きません?」
孔明のもうひとりの姉で、のん気な小姉のことばに、大姉はまた呆れ、諸葛玄は楽し気に笑った。
「そうだな、待たせてすまなかった。
早く食事をしよう。わたしも腹が減って仕方ない」
すると、奥のほうから孔明の弟である均が、諸葛玄のもとへと駆け寄って来た。
「叔父上、よかった、ご無事だったのですね」
「無事だとも。心配させてすまなかった」
均は諸葛玄に頭を撫でられ、気持ちよさそうにしている。
「もうおひとりで出かけないでください。心配で、心細かったです」
「すまぬ、すまぬ」
「叔父上は、わたしたちの大切な叔父上なのですから。ねえ、姉上、兄上」
屈託のない幼い均のことばで、眉をつりあげていた大姉も力を抜き、声を立てて笑い出した。
「そうね、わたしたちの叔父上ですもの。
ほんとうに、おひとりで出かけるにしても、今度から行き先をちゃんと教えてくださいませ」
「ほんとうにわかった。すまぬ、反省しておる」
「こんどはお供にわたしを連れて行ってください。邪魔は致しませぬ」
均のことばに目を細める諸葛玄は、ともに手をつないで、奥の料理が待っている部屋へと向かっていく。
その広い背中を見て、孔明は、わたしもまた、叔父上がどれだけ大切か、機会があったなら、きちんと伝えようと思った。
その場でそう言えばよかったのに、照れくさくて口が動かなかったのだ。
だが、機会はめぐってこない。
なぜつぎに機会があるだろうと無邪気に思い込んでいたのか。
諸葛玄は、その二日後に、襄陽城にて横死を遂げることになる……
※
悲しい夢だった。
諸葛玄の死の前後の記憶を生々しく思い出すことを避けられたのは、救いだったと、孔明は夢から醒めてすぐに、思った。
孔明はめずらしく寝台でぐずぐずしたあとに、やっと思いきって気合をいれて起き出した。
孔明がいまいる新野では、ここしばらく雨の日がつづいていた。
だが、さいわいなことに今朝はみごとに晴れであった。
朝から、木々に止まっている蝉たちが、いっせいに大合唱をしている。
夢の中では初秋だったが、いまは夏のさなかにいる。
それを実感するのに、すこしかかった。
さわやかな浅黄色の衣に袖を通す前に、手桶で顔を洗う。
係の者に髪を結ってもらってから、鏡でじっとおのれの顔を見る。
夢のなかでは、まだあどけなさが残っていた十七歳。
いまは、すっかり成長して、二十八歳である。
もう夢の余波はない。
孔明はより気分を変えるため、軽く両手でおのれの頬を叩き、それから、ふうっと息をついた。
よし、いつもの自分だ。
今日も張り切っていこうではないか。
※
朝餉をすましたあと、孔明はそばにいる者にたずねた。
「子仲(麋竺)どのは、まだ感冒が治らないのだろうか」
「そのようでございます。今朝も登城なさっておられぬようです」
そうか、と短く答えてから、孔明は麋竺のために薬を用意したほうがいいのかなと考えた。
毎朝、劉備の重臣のひとりである麋竺が、孔明を執務室まで迎えにきていたのだが、そのいつもの顔がないというのは、やはり寂しい。
とはいえ、大富豪で、物資に困っていないだろう麋竺に、いまさら感冒の薬などいらないかもしれないが……
『あの方がいないとなると、今日も残業になりそうだな』
そんな計算もしてしまう。
麋竺は劉備の家臣になるまえは大商人であったから、数字にめっぽう強い。
そのため、孔明のいい補佐として、事務仕事をほぼ完ぺきにこなしてくれていたのだ。
『感冒では仕方ない。さて、今日も気合を入れてやろう』
おのれを励まし、孔明は執務室へ向かった。
昨日までの雨もやみ、空はみごとな青天。
夏の朝らしく、みずみずしい緑の木々と、咲き誇る花々がさらに元気をあたえてくれる。
気持ちの良い風が、そよと吹く。
おかげで、悲しい夢の余韻も消えて、まっすぐ前だけを見ていられた。
麋竺がいないことで、自分のこなさなければならない仕事も増えるのはちがいない。
だが、それはさほど苦ではなかった。
むしろ、孔明にとっては望むところだといっていい。
孔明は、自分の力がぎりぎりまで試される状況が好きだった。
限界を超えるべく努力していると、それまでの自分を脱皮できる境地をあじわえるからである。
そうして成長を積み重ねていって、自分がどこまで行けるのか、試しているあいだが、いちばんわくわくするのだ。
※
執務室に入ったとたん、仰天した。
麋竺がいつも座っている席に、ほかならぬ劉備が座っていたからである。
劉備は孔明を見ると、片手に書簡を持ちつつ、もう片手で軽く挨拶してきた。
「おはよう、孔明」
「おはようございます、わが君。いったい、どうなさったのですか」
「どうもこうも、子仲どのの代わりだよ。今日も休みだって聞いたから」
孔明がちらっと、おなじく劉備の腹心である孫乾や簡雍のほうを見る。
かれらは会釈しつつも、気まずそうな顔をした。
どうやら、劉備は押しかけで事務仕事に参加しているらしい。
孫乾と簡雍の顔には、『主君に手を借りて、申し訳なさでいっぱい』と書いてあった。
それにしても、劉備の人の好さ。
なかば呆れて、孔明は言った。
「雑務は、わたくしたちで引き受けますのに」
孔明が言うと、劉備はわらった。
「なあに、気にするな、ちょっとした気分転換でここに座っておるのだ。
おまえを隆中から軍師として招いてからずうっと、事務のほうは任せきりであったからな。
子仲どのがいれば大丈夫かと思っていたが、このところ子仲どのが体調を崩していると聞いて、おまえたちがどうしているだろうかと気になったのだよ。
なに、そんな顔をするな、これでもわしは事務が得意だぞ。
今日いちにち、いっしょによい汗をかこうではないか」
そう言って、劉備は歯を見せて、かかか、と笑った。
なんとも憎めないお方だなあと、孔明は感心する。
狭量な者なら、自分を信用していないので、監視に来たのではと、うがった見方をするかもしれない。
だが、仮にそんなふうにねじ曲がった考えを持つ者がこの場にいたとしても、劉備の楽しそうな顔を見れば、思い直しただろう。
どころか、自分もこころが明るくなって、疑ったことを恥じさえするにちがいない。
そういえば、と孔明は思い出した。
劉備は孔明を隆中から招聘するまでは、ほぼひとりで、八面六臂の活躍をしていたと、麋竺が言っていた。
事務仕事にしても、細かいところまでお手のものなのだろう。
今日はお言葉に甘えて、手伝っていただこうかと決めて、孔明は自分の席についた。
「子仲どのからは、連絡があったのですか」
「どうも屋敷に籠って寝込んでいるようなのだよ。
季節外れの感冒かねえ、あのひとは丈夫で朗らかなのが取り柄なのに」
孔明の問いに、劉備は心配そうな顔で答える。
麋竺の妹は、劉備の夫人のひとりである。
そのため、新野においても特別な扱いを受けていた。
なにせ、席次はつねに劉備の次。
孔明より上座にすわり、歓待を受けるのが常だった。
商人の出身ながら、人の好さと品の良さが同居する穏やかな性格で、かれを嫌う者を孔明は見たことがない。
つづく
孔明の叔父さんの生涯や死についてはよくわかっていないことのほうが多いようです。
この話では、袁術から劉表に仕えなおし、豫章太守になったのも劉表のはからい、という設定です。
そして、西城で殺されたという正史の記述もありますが、こちらでは設定を変えています。
話の中で、どういう状況で亡くなったのか、次第にあきらかになります。




