序章 黒鴉の爪痕 その16 残された烏の羽根
「やや、犬がいる」
と、宴の席の隅っこで、ちびちび料理と水を飲み食いしていた陳到が言った。
確かに黄色い犬が宴席に入り込んでいた。
だれかの猟犬というわけではなさそうなのは、その丸っこい体形でわかる。
犬はうまそうな料理のにおいに釣られてやってきたのか、くるんとまいた尻尾をぶんぶん振りながら、へっへと愛想よく舌を出して、陳到のほうへと向かってきた。
「やあ、こりゃあ、だれかの飼い犬かな。ずいぶん人なれしておるわい」
陳到がぱりぱりの皮がおいしい鶏の丸焼きの一部を犬にやると、犬は目を輝かせてそれに食らいついた。
その隙にと、陳到は素早く犬を捕まえて抱え上げ、がやがやとにぎやかな宴席に向かってたずねる。
「おおい、この犬に見覚えのあるやつはいるか!」
すると、「ないぞー」という声があちこちから返って来た。
「迷い犬かもしれぬな、こんなところで粗相をされても嫌だし、どこかにつないでおくか」
言いつつ、陳到が犬を抱えて出て行く。
同時に、周慶を先頭に、侍女たちと料理人が総出で、新しい料理を運び入れてきた。
今度は豚の丸焼きで、その香ばしい匂いに、宴席の人間から歓声があがった。
席次の高い順から、いいところの肉を切り分けてもらえる。
孔明は麋竺の次の席だったので、すぐに肉が回って来た。
切り分けられた肉を手にしようとした、そのときである。
「おい、どうした」
簡雍の弟の簡啓が、怪訝そうに隣の席の孫直に声をかけた。
その声があまりに甲高かったので、それぞれおしゃべりに興じていた男たちは、はっとしてそちらを見る。
孫直の様子がおかしかった。
かれは、喉元をおさえて、膝立ちになり、口をパクパクさせている。
息が出来ない様子である。
「おいっ」
簡啓が孫直のからだを抱き留めようとするのより早く、げふっと孫直が、大量の血を吐いた。
とたん、大広間は大騒ぎとなった。
孫直は、げえっ、げえっ、と激しく血を吐いて、それっきり横に倒れてしまう。
「しっかりしろ!」
孫乾が席をけって、弟のところへ駆け寄っていく。
『毒だ!』
孔明はすぐさま判断し、かつて妻が煎じてくれた解毒剤を与えるべく、孫直のもとへいく。
しかし、孫直は白目を剥いて、ぴくりとも動かない。
脈を診る。
「ぐ、軍師! 弟は……」
孫乾の問いに、孔明は首を横に振った。
孫直は、絶命していた。
高い悲鳴が聞こえたかと思うと、どさっと誰かが倒れ込む音が聞こえた。
振り返ると白妙で、となりにいた周慶が、あわてて白妙を抱き上げている。
孔明は孫直の膳を見た。
まだ豚の丸焼きは、かれのところに回っていなかった。
ということは、これまで運ばれてきた料理の中に、毒が仕込まれていたのだろう。
『しかし、なぜ?』
すぐに『黒鴉』のことが頭をよぎったが、そうだとして、なぜに軍師たる自分ではなく、一介の書生ともういうべき孫直を狙ったのか、それがわからない。
人違いにしては、孔明と孫直の席は離れ過ぎていた。
「軍師」
固い声がして顔をあげると、趙雲がいつの間にか側に寄ってきていて、孫直の衣を見て顔をゆがめている。
なにかがはみ出ている。
そばにいる孫乾が声をあげて泣き伏しているのをしり目に、趙雲は孫直の衣に手を差し入れると、そこからひとつのものを取り出した。
それは真っ黒な、烏の羽根であった。
つづく




