序章 黒鴉の爪痕 その13 孔明の悩み
ふと、趙雲が目を開き、言った。
「軍師、おまえは隆中に妻女と弟を残してきたはずだったな。新野城に迎えたほうがよくないか」
急に自分の家族の話になったので、孔明は一瞬、ことばに詰まった。
その様子を見て、趙雲はなにを思ったか、すまなさそうに言った。
「出過ぎたことばだったか」
「いや、気遣いをありがとう。弟にはさっそく手紙を書こう。とはいえ、あれはとことん身内だけでいるのが好きな質だから、新野城には来ないと思う。その代わり、安全な……そうさな、比較的安心な荊南に移るように書いておく」
「そうか、それならばよい。で、妻女はどうする」
孔明はまたも、ことばに詰まった。
正直に打ち明けるべきか否か。
趙雲は徐庶の言うとおり、信頼できる男だろうから、すべてを打ち明けてもかまわないだろうと孔明は思う。
しかし、それでも自身のこころのいちばん奥を開陳する勇気が出ない。
「いや、あの人は大丈夫だろう」
それだけ言うにとどめると、趙雲は何を察したか、そうか、とだけ相槌を打って、それ以上のことは言わなかった。
※
けして趙雲が悪いわけではないが、妻女……黄月英のことに触れられたことがきっかけとなり、その日の孔明の調子はふるわなかった。
執務室で自分なりに努力して仕事を片付けたけれども、いつもならしない小さなあやまりが起こり、変わらず手伝ってくれる麋竺を心配させてしまった。
「あまりお顔の色がよろしくない様子。このところ根を詰めておられるようだし、すこし休まれてはいかがか」
と、麋竺が言う。
そうか、顔色がよくないか、とおのれの頬に手を当てつつ、孔明は笑って答える。
「ご迷惑をおかけして申し訳ない。ちょっと昨夜はよく眠れなかったものですから」
「それはいけない、やはり休まれたほうがいいのでは」
「原因はわかっておりますから、大丈夫です」
『黒鴉』が嫌がらせを仕掛けてきたことも引っかかっているが、妻のことも頭に引っかかっている。
黄月英は当代でもめずらしいほどの才女である。
なぜか孔明は月英の父・承彦に気に入られ、月英の婿に選ばれた。
ほとんど無理やり押し付けられ、結婚させられたようなものだったが、結婚してみればその生活はなかなか悪くなく、隆中に引っ込んでも、ふたりは弟夫婦らとともに、田舎の暮らしを面白おかしく楽しんでいた。
様子が変わって来たのは、劉備が孔明の庵に、軍師として招きたいと訪れるようになってからである。
孔明が世に出ることを迷っているのを見てか、彼女もまた、なにも言わないでいてくれた。
『いや、いま思えば、あの沈黙は不自然だった。わたしは、わたしのことにかまけ過ぎて、月英のことを思いやれていなかった』
三度目に劉備が庵を訪れたとき、確かに朝まで月英は庵にいた。
ところが、劉備の元へ行くと決めて荷造りを始めたそのなかで、いつの間にか姿を消してしまったのだ。
庵で召し使っていた小僧が言うには、
「郎君には、『しばらくわたくしも自分の用事を果たしにいくから、心配しないで新野城で活躍してください』と言付けしておくれ」
と言い残していったそうだ。
以来、弟夫婦に頼んで月英を探してもらっているが、いまのところいい返事が来る気配はない。
『わたくしの用事』とは何なのか、それがわからない。
まさか、自分の母方の親戚である襄陽の蔡瑁の一族のところへ行ってしまったのかとも思ったが、いまのところ、その様子もなさそうなのだ。
『わが君についていこうという、わたしの決断が許せなかったのか……いや、そうであれば、率直に意見を言ってくれるひとだ。そうではないのなら、いったいなぜ?』
竹簡に文字を綴るための鉄筆に漆をひたしているあいだ、そんなことを考えていると、麋竺が腰を浮かせて、執務室の戸口に礼を取る。
孔明は現実に引き戻された。
劉備が戸口で、孔明たちの様子をうかがっていたのである。
「邪魔したかな。仕事の調子はどうだ」
「おかげさまで、上々でございます」
孔明が筆を置いて礼を取ると、劉備は満足そうにうなずいた。
しかし、劉備は空席となっている孫乾のための席を見るなり、顔を曇らせる。
「なんとかしなくちゃならんかなあ」
それを察し、孔明は申し訳ない気持ちになって、謝罪した。
「わたしの不徳のため、公祐(孫乾)どののお心をほぐしきれず、申し訳ございません」
「いや、孔明のせいじゃない、それこそ、わしの不徳の致すところだ。ううん、どうしたものかねえ」
劉備は顎を撫でながら考えている様子だが、そのうち、ぱっと表情を変えて、孔明に言った。
「すこし席を外せるか。話がしたい」
言われるまま、孔明は麋竺たちにあとを任せて劉備のあとについていった。
つづく




