17章:熊ヶ峰二菜のアネクドトス
四季なんてものはとうに消え、いつ見たって分厚い毒雲に太陽が隠されたままの空。
カラスか海鳥か分からない鳥の群れが、影絵のごとくそんな灰色の中を舞っていた。
一定のリズムを刻み続ける海も空を真似たようにどんよりと淀み、一歩でも足を踏み入れたなら深海の底まで引きずり込まれそうな程不気味な雰囲気をかもし出している。
ザザァ。ザァ。
ザザァ。ザァ。
テレビやラジオのノイズを思わせる無機質な波音は我関せずとでも言いたげで、暗い海をより一層冷たく見せた。
薄く開いた目にそんな色の無い風景をぼんやり映していると、波の合間に響く悲鳴と不快な音を耳が拾い上げ…そこで私はようやく現状を思い出す。
《……ぅ…ぐ》
ハッと見開いた目。
視界はぐわんと歪み、脳が船にでも揺られているのかと思うくらいにぐらぐらして気持ち悪い。
とてもじゃないけれど、起き上がれそうになかった。
ここは、そう。どこかの海辺。
青くもない海。白くもない砂浜。人々の楽しげな声など遠い記憶の彼方。
未だぼやけた視界にやたらとくっきり映る赤を辿れば、己から流れ出た血が砂を染め上げているらしいことを知る。
そうだ、私…確か"アイツ"の鉄球で思いっきりぶん殴られて気を失ったんだっけ。で、そのまま放置されてたのか。
そこまで思い出した私は、瞳だけを動かして今尚鈍い打撃音と悲鳴のアンサンブルが響く方へと視線を向けた。
《い"、あ"ぁぁぁぁぁぁ!!?ぁぐ!?》
《ごぼっ……か、はっ…》
《だ、だず…げ……っ》
《きゃははははははは!!!ほらほら、ほらぁ!虫さん達!逃げてないで、さっさと潰されてくださいよぅ!!!》
普通に生きていたのならおよそ聞くことなど無かっただろう人の肉が弾け飛ぶ音と、人の骨が砕ける音。
そんなものを奏でて笑うのはいつも通りであれど、今日の"アイツ"はいつにも増して狂っているように見えた。
ズキズキと痛みを訴える頭を支えるように手を当てる。
たまらず閉じた瞼の裏には、原因になっただろうやり取りがこびりついていた。
それは、この蹂躙劇が始まる少し前の事。
今日この場所には、海を渡ってどこかに逃げようとしていたのか中型のボートに乗り込んでいく人々の姿があった。
"アイツ"は近くでの破壊行動のついでにそれを見つけてしまい、嬉々として船頭へ降り立ったのである。
その際"アイツ"に連れ回されていた私は空き缶よろしく甲板に放り捨てられた。
ろくに受け身もとれずに呻き声を上げたものの、皆降って湧いた絶望に釘付けで私を気にする者など誰一人としていやしない。
しかし、誰もが見つかってしまった恐怖に腰を抜かす中自棄になったのか何なのか…一人の男が"アイツ"に指を突きつけて叫びだしたのである。
《化け物…!化け物め!!!こんな所まで来やがって!!》
《きゃはは!!酷いですよぅ!二菜は化け物なんかじゃありません!虫さんのクセに失礼ですね》
《う、う、うるさい!!お前は化け物だ!!この、妹殺しの狂人が!!!》
《…は?》
すとん、と削ぎ落としたように表情を無くした"アイツ"のがらんどうな瞳が男に固定され、幽鬼のように覚束ない足取りで一歩距離を詰めた。
それまで静かだった海に白波が目立ち始め、五月蝿く飛び交っていた鳥達の声も逃げるように遠退いていく。
あぁ、荒れそうだ。
《は、はは…!!図星か!?知ってる…俺は、知ってるぞォ!!お、お前は…実の妹をその手で殺したんだってなァ!!》
《違う!!!》
つんざくような強い否定の声を被せた"アイツ"の表情は、声とは裏腹に酷く狼狽えているようで…それに気を良くした男が尚も"妹殺し"という言葉を繰り返す。
《違う違う違う違う違う違う!違う!!二菜じゃない!!二菜が、"あの子"を殺すわけがない!!》
《いーや、お前だ!!俺ァ知ってんだよ!!可哀想に…お前ご自慢の鉄球でグシャグシャにしたそうじゃないか!!俺の息子を殺したように!!》
《違う!!あれは違うんだ!!あれは、"あの子"じゃなかった!!二菜が殺したのは"あの子"じゃない!!だって…あそこには、怪異しかいなかった筈なんだ!!!》
《認めろよ!私は妹殺しの化け物ですってなァ!!あぁ、さぞお前を憎んでるだろうよ。お前に、殺された、妹はよォ!!!》
《うるさい、うるさい、うるさぁぁぁぁぁぁぁい!!!!!》
とうとう我慢ならなかったのか、"アイツ"はじゃらりと鉄球を取り出すと同時に甲板へ降り、周囲をなぎ払うようにそれを振り回した。
私は見事それに巻き込まれて…一撃で頭を割られた上にこの砂浜まで吹っ飛ばされたというわけだ。
ようやくすべて思い出し、僅かに身動ぎして立ち上がろうと試みる。
しかし、ギリギリ死ななかっただけの命は風前の灯と言って差し支えなく、体はすぐに力を失って再度砂の中へドサリと沈んだ。
ダメだ。動けない。
もはや私に出来ることは…この命が潰えるその時まで、砂浜で散っていく人々の最期を目を背けず"記録"することだけ。
悔しくて、不甲斐なくて、役に立たない己への怒りと咎を忘れないよう焼き付けることだけだ。
《きゃはははははは!!こんな、こんなこんなこんなこんなこんな…こんな世界、ぜぇん潰れちゃえばいいんですよぅ!!!》
既に事切れた骸を更に殴りつけ、原型すらなくなるまで痛めつける行いはどこまでも気分が悪い。
しかし、何だろう…"アイツ"の様子が変だ。
明らかに死体をなぶっている"アイツ"が加害者である筈なのに、まるで"アイツ"の方が被害者じゃないかと錯覚しそうな程に…今だけは、一人の少女が泣き叫んでいるように見えた。
何故?どうしてそう思ってしまったのか、自分で自分が分からないや。
だって、"アイツ"はやっぱり狂ったように笑っているのに。
私ってば、頭を強く打ち過ぎておかしくなったのかな。なんて。
縦横無尽に鉄球を振り回すものだから、"アイツ"の周りには肉片が舞い血が雨のごとく降っている。
それが"アイツ"の頬を流れて滴り落ちる様は、やはりどうしてか涙を流しているように見えた。
やがて気が済んだのか、肉と骨が趣味の悪い貝殻のように散らばった赤い砂浜を踏みつけて、"アイツ"がふらりふらりとこちらへやってくるのが見える。
まだ乾いていない血で汚れたその顔にはもう笑みなどなく、虚ろでゾッとするほど空っぽな表情をしていた。
それにしても人体とは存外しぶといものらしく、私はまだ生きている。
結局また、何もできず、何も成せず、誰の助けにもなれないクセして最後まで残ってしまった。
けれどこの惨めな私もまた、今こちらに近付いてくる"アイツ"によって虫のように潰されるのだろうけど。
そんな諦めの中にいた私はしかし、目の前まで歩を進めてきたその途端に鉄球を手放して崩れ落ちるように踞った姿に目を丸くすることになった。
《…ねぇ、違うんです。違うんですよ。信じて下さい。二菜じゃない。二菜じゃないんです。だって、そんな筈ないじゃないですか。あの子を、二菜が…なんて。そんなのあり得ない。二菜じゃない。そうだよ…ね?あぁ、でも…ちが、ごめん。ごめん、ごめんね…痛かったよね…ごめん…っ》
支離滅裂な言葉を連ねながらまるで懺悔でもするように項垂れる"ソイツ"を前に、いったい私にどうしろと言うのだろう。
血が足りずに朦朧とする頭は、チェーンの外れた自転車の如くからからと空転するばかり。
"ソイツ"も"ソイツ"でこちらの態度など気にすることなく、壊れたように喋り続けるばかり。
あぁ、もう。鬱陶しい。
知らない。お前の話なんか知ったことじゃないし、知りたいとも思わない。
惨たらしく人々をミンチにしておいて、どうして自分が一番不幸ですって顔をしているのだろうか。
ふざけるな。ふざけないでよ。
《大好きなのに、殺すわけない。大切なのに、壊すわけない。あれは、そう…悪い夢で…全部幻で…たちの悪い嘘だったんだよ。ねぇ、そうでしょ?そうだ、そうだよ。そうに決まってる。あの時死んだのはあの子じゃない!あの子は、死んでなんかいない!!》
あぁ、イライラする。
もうどうにでもなれと思った。
《お前…は……最、低…だね》
《…え?》
がばっと上げられた顔にくっついている目に怖気が走る。
目に見えるのは落ちて踏まれた桜の花弁を思わせるくすんだ桜色だけど…
ソコに嵌め込まれていたのは、見境もなく絵の具をぶちこんで元の色も分からないくらいぐちゃぐちゃにしたかのような混沌だった。
《何、言ってるんですか?虫さん。二菜の何が最低だって言うんです?分からない、分かりませんよ。訳の分からないこと言わないで下さい、気持ち悪い》
《最低…でしょ。だって…お前、は…"その子"が、いた筈の…世界を…思い出ごと、全部壊してる…んだから》
《ち、違う!違う違う違う!これは…っ》
《なら、聞くけど…この世界に…"その子"が、帰る場所…は…残って、るの?》
《…っ!?それ、は…あ、ぁぁ…っ、だって、だってだってだって、これは"あの子"が、"あの子"が二菜を止めてくれなかったから、だから…!》
《…自分の罪、を…"その子"のせいにする、んだ…?やっぱり…最低じゃん》
《うるさい!!うるさいんですよ羽虫!!お前たちが、"あの子"に集って…殺したんじゃないか!!》
振りかぶられた鉄の塊が私に容赦なく落とされ、骨を砕く。
悲鳴すら上げられない程の衝撃と、もはや言語化することも出来ない痛みで目の前が真っ赤になった。
《虫が、虫さえ…虫さえ"あの子"に近付かなければ…!"あの子"を巻き込まなければ、あんなことになったりしなかったのに!!お前たちのせいだ!お前たちのせいで二菜は…っ!あ"ぁぁぁ!!!》
ぐちゃ。ばき。ごき。ぬちゃ。
私の体が破壊されていく音をBGMにわぁわぁと喚き続ける"ソイツ"に、苦痛の中で唾を吐き捨てる。
やはり他人のせいにするのか、と。
意識が千切れる間際。
ザァザァと冷ややかで残酷な潮騒と、こちらを見捨てるように遠退いていく鳥の羽音が耳に届いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝起きたら目も眩むようなとんでもなく美しいご尊顔が目の前に…なんて、小説の一節に描かれそうな経験はあるだろうか?
私はある。
というか、今この瞬間経験することとなった。
「やぁ、おはよう。レディ」
「ひゅ」
皆、覚えておくと良いよ。
人は本気で驚くと声も出ないらしい、と。
あちらも寝起きなのか、やや掠れ気味の声がしっとりと耳朶を打つ。
それが余計に色気を孕んでいて、経験したこともないのに事後という文字が頭をよぎった。いや、落ち着け私。
彼女を直視していられずに彷徨わせた視線ははだけた寝間着の胸元から覗く果実に奪われ、身動ぎに合わせてもにっと形を歪ませるそれに得も言われぬ背徳感が体をめぐる。
これはイケナイ。ほんっとうにイケナイ。
刺激が強すぎる。
性癖が歪められそうな危機感を感じて無理やり視線を剥がすと、今度は私の一挙一動を見ておかしそうに細められた目に絡め取られ…
待って、勘弁してくれ。どうしたって目に毒じゃないか!四面楚歌かな!?
とりあえず、どこにお金を払えば良いでしょうか!?
「ふふっ、どうしたんだい?今更恥ずかしがるなんて…あぁ、そうだ。昨日は…激しかったね?」
「なっ……!?はっ、え!?!?」
蜜に浸されたような甘く密やかな言葉に耳をくすぐられ、金縛りの如く固まっていた体を跳ねるように起こす。
冗談冗談冗談…冗談だよね!?えっ、私お酒でも飲んだ!?記憶にない!!
パニックでぐるぐると目を回しながら己の服を確認し、きっちり着込まれた寝間着に安堵の息を溢す。すると…
「っぷ、ぁはははははははは!!」
弾けるような笑い声が隣で寝転んでいた美丈夫…メイリーから発せられたのだった。
「そ、そんなに…ふはっ…、慌てなくても…!っきひ、はははは!!」
「め、メイリーがからかうからでしょ!?自分の顔面偏差値考えて!?」
「っんひ、当然…考えた上でのジョークさ」
「たちが悪い!!!心臓にも悪い!!」
「きひひ!すまないすまない。少しおふざけか過ぎてしまったね。貴女が可愛い反応するから、つい」
赤くなっているだろう頬を両手で隠しながらメイリーを睨んでいると、笑いが治まったらしい彼女は一変して気遣わしげな眼差しで私を見つめる。
「激しかった、というのはね…激しく魘されていた、という意味だよ。…大丈夫、なのかい?」
思わずパチパチと意味のない瞬きを繰り返した。
そっか…私にとっては悪夢なんて日常の一欠片で慣れたものではあるけれど、メイリーはそんな事情知らないもんね。
隣で寝ていたのだから、ずいぶんと驚かせてしまった事だろう。
「ごめんね…五月蝿かった、よね」
「いや、そうではなく…謝って欲しいのではなくて、心配なんだ。その、とても酷い様子だったから…」
「…ありがとう。心配してくれて。でも、大丈夫だよ。いつものことなんだ…悪夢を見るの」
その心配が本気のものだと分かって、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
しかし、すぐにある可能性を考えて血の気が引いた。
「ね、ねぇメイリー…もしかしてまた私の"記憶"が、見ちゃったりとか…」
「いや、何も見ていないよ」
それを聞いて、良かったと身体を弛緩させる。
あの光景を…あんな"彼女"をメイリーに知って欲しくなどない。
地獄を知るのは私だけで十分だ。
「その言い方からするに、貴女の悪夢は…"記録"と関係しているのかい?」
「それは……ん?」
「おや?」
どう答えたものかと口をもたもた動かしていると、廊下の方からドドドドドドと地鳴りのような足音がこちらへ近付いてくるのが聞こえてきて…次の瞬間、スパァン!といっそ気持ちいいほどの音と共に客間の襖が開かれた。
「お姉さん!!!大丈夫ですか!!?なんか、凄い声がしましたけど!?」
すこぶる慌てた様子で登場したその人物を見て、一拍。
「「ん"っふ!!」」
私達は二人揃って吹き出し、布団へと沈む事となったのである。
いやだって…!やって来たのは言わずもがな、二菜ちゃんなんだけど…その、頭が…
「っふ…くく…!二菜…せ、洗面所に…ふふっ……行っておいで」
「はへ?洗面所、ですか?確かにまだ顔は洗ってませんけど…はっ!?まさかヨダレついてますか!?」
「そ、そうじゃなくて…ふっ…あ、頭…凄いことに…っ」
そう、そうなのだ。
頭?と二菜ちゃんが伸ばした手の先で、薄桃色の髪がとんでもない大爆発を起こしていたのである。
重力を完全に無視して四方八方へ広がるそれは、満開の桜のようだった。
自分で髪に触れた彼女もその有り様を察することが出来たのか、ぼふんと顔を真っ赤に染めながらその場から消える。
そのすぐ後に聞こえた悲鳴に追撃をくらい、私とメイリーは再び笑い袋と化した。
うんうん。ビックリするよね、あの髪見たら。
ひぃひぃとひきつる息を必死で整えながら、何とも愉快で騒がしい目覚めにそっとまなじりに滲んだ雫を払った。
窓の外には既に肌を焼かれそうな夏の陽光が我が物顔で降り注ぎ、朝露を付けた木々の葉がそれを乱反射させて遊んでいる。
支度を整えつつ、バサバサと羽ばたきを響かせて庭へ降りていく鳥を追って下を覗き込めば、青々とした低木の隙間から小躍りしているように揺らぐ花が見えた。
庭に足をつけた名も知らぬ鳥は池を囲む岩に飛び乗り、優美に泳ぐ鮮やかな鯉には目もくれずに岩の隙間に嘴を突っ込んでいる。
大方溢れた餌のカスでも探しているのだろう。
チチチ、チチチチ?
さぁと吹いた風に乗って鳥が前触れなく飛んだ。それに驚いた鯉が水面を叩き、水飛沫がキラリと舞う。
あぁ、なんて綺麗だろうか。
どうかこの色彩が、いつまでも色褪せませんように。
あの夢が、夢として見た"記録"が…本物の幻夢になりますように。
そんな勝手な願いを心の中で呟いて、私は汗を吸った寝間着を脱いだのだった。
………
「お祭り?」
少しばかり塩味の強い焼き鮭と、ワカメと豆腐が踊る懐かしい味のするお味噌汁を中心とした朝食をいただき、遠慮するご夫婦を丸め込んで手伝わせてもらった片付けも済んだ頃。
二菜ちゃんがキラリと目を光らせながらお祭りに行かないかと切り出してきた。
「はい!地域のものなのでどん!と立派なものじゃないですけど、屋台とかは沢山並びますし、有志の人達が踊ったり御輿を担いだりするのでとっっても賑やかなんですよ!」
ペチペチといつの間にかテーブルに広げられていたチラシを叩きつつ、彼女は興奮気味に鼻を膨らませて力説する。余程楽しみらしい。
「はっはっは、二菜はいつもタイミングが悪くて、ここ数年は参加できなかったからのぉ。久しぶりじゃろう」
「今年は補修?がないとかで、早く帰ってこれたみたいだからねぇ。よかった、よかった」
ずずっと湯呑みを傾けるおじさんとおばさんは、からかい混じりに目元のシワを深くした。
二菜ちゃんに向けられた眼差しはどこまでも柔らかく、惜しみ無く愛情が注がれているのが手に取るようにわかる。
ちゃんと一人の家族として距離も隔たりも無く受け入れられている彼女は、だからなのか普段より甘えの見える子供っぽい笑顔を見せた。
それを見ればこびりついた悪夢の残滓なんてあっさりと吹き飛んだね。
けれど代わりに、とでもいうのか…耳の奥でふとノイズが響く。
《……子が………だ…のは……祭…日……でした……》
ほとんど聞き取れなかったけれど、聞こえたそれはたぶん"アイツ"の声。
もっと良く聞くために意識を向けようとしたけれど、コトリと湯呑みを置いたメイリーによって湯気を手で扇いだように集中は散らされた。
「ところで、妹君はいないのかい?姿が見えないようだけど…」
「…あ、そういえば確かに…見てないね」
昨日の夜の感じだと、ちゃんと帰ってきているとは思うんだけど…
まさか、一人になった後に何かあった…とか?
不安になって視線をうろうろと落ち着き無く彷徨わせる私に気付いたのか、いつの間にやらお茶のおかわりを用意してくれていたおばあさんがにこりとこちらに微笑みかけた。
「あの子、珍しく帰って来てくれたの。てっきりまた外で泊まってくるものと思ってたから、ビックリしたもんさね」
「あ、そうなんですね。…良かった」
小さくこぼした安堵の言葉はおばあさんにも聞こえていたらしく、まるでありがとうと伝えてくるように頭を撫でられる。
やや白みがかった黒曜の瞳は何もかもをお見通しな気がして、私は気恥ずかしさに頬をかいた。
「でもねぇ…皆が起きてくるちょっと前だったかねぇ?友達の所に行くって出ていっちゃったの。まったく、姉妹揃って落ち着きがないのは誰に似たのかねぇ」
困り顔でそう言ったおばあさんに、ぐっと眉間にシワを寄せたおじいさんがどこか不機嫌そうに唸る。
「なぁにが友達じゃ…あんな連中」
「じーちゃん?」
"あんな連中"。
ぺっと唾でも吐き捨てるように呟かれたその言葉に、私を含め二菜ちゃんやメイリーも互いに顔を見合わせて首をかしげた。
見るからに彼はその"友達"を歓迎していないようだ。
「ワシゃ、心配でたまらんわい」
「心配って…何が心配なの?」
「弌菜の言う友達とやらの事じゃ。ワシも人様の事を悪く言いたくはないがの…ありゃ、ダメじゃな」
やや乱暴に置かれた湯呑みが静まり帰った居間に響く。
皆が口を真一文字に結んだおじいさんを見つめるこの空間は、まるで時が停滞しているかのようだった。
それを破ったのはおばあさんから溢れた小さなため息である。
「実はねぇ…弌菜ちゃんのお友達はあまり評判が良くない子達みたいで…ね、お父さん」
「あまり、どころじゃないわい。まったく、あんな厄介な不良共とどこで知り合ったのか…」
不良…そう言えば、二菜ちゃんも言ってたっけ。
弌菜ちゃんがガラの悪い人達と一緒にいると噂になっているのだ、と。
どうやら噂は真であり、本格的に彼女はその集団とつるんでいるらしい。
「名前、何だったかしらねぇ…ぷ……ぷる…ぷるたぶ…じゃないわねぇ?」
「ぷるがとりーとかそんな感じじゃなかったかの」
「ぷるがとりー…ふむ、雰囲気的には…プルガトリオ、とかかな?」
「あぁ、それだわ!まぁまぁ、顔だけでなく頭も良いのねぇ」
「恐縮です、マダム」
Purgatorium…煉獄とはまた、たいそうな名前だ。
「確か、この前も三丁目の奥様が車に悪戯されたって…」
「五丁目のシマさんなんざ、塀一面に落書きされとったそうじゃぞ」
ご夫婦曰くそのプルガトリオというグループは、ここ凪祇市周辺でそこそこ名の知られた規模の大きなグループなのだそう。
勿論、良くない名前の売れ方をした"有名"ね。
壁に落書き、車や自転車に悪戯、バイクの部品盗難といった物的被害は序の口で、万引きカツアゲ暴行強姦、果ては強盗で殺人未遂といった前例もあるらしい。
これは…想像よりもずっと過激な集団だ。
二菜ちゃんもまさかそこまで危険なグループだとは思っていなかったようで、顔色を悪くしながら立ち上がる。
机にぶつけられた足がガタンと痛そうな音を鳴らした。
「に、二菜…弌菜を連れ戻してくる!」
「やめとけい!二菜、あれには近寄らん方がいい」
「でも、それじゃあ弌菜が…!!」
「…ワシらが何度言っても弌菜は行くのを止めようとはせん。あの子は自分で選んだ居場所だと言ったんじゃ。それにな、一度肉屋の爺さんが孫との縁を切ってほしいとグループに出向いたらしいんじゃが…入院沙汰になったんじゃ。わかるか?あやつらは例え年寄り相手でも、邪魔なら容赦せんのじゃよ。無闇にちょっかいを掛けるべきじゃあない」
「そ、そんな…」
口ではそう言いつつ、おじいさんもおばあさんもやるせないのだろう。
悔しそうに表情を固くする二人が、"手を出さない"という選択に苦しんでいるのがよく分かる。
ご夫婦は腰もしゃんと伸び、見た目は若々しくあるが…それでもやはり高齢である。
もし、暴力なんてふるわれたら…それを自分達で理解しているが故の苦渋の選択。
さすが遺伝というか、顔に出やすいところは二菜ちゃんと同じ血を感じた。
「それにねぇ、下手な事をして弌菜の方に何かあったらと思うと…これは噂だけど、肉屋のお孫さん、お爺さんと同時期に入院したって…」
あぁ、そっか。下手にこちらが何かするとグループ内での弌菜ちゃんの立場を悪くする可能性もあるのか。
おばあさんの言う噂が本当だとするなら、制裁と称した暴力がふるわれないとも限らないわけだ。
「そんな…それでも、弌菜は…そこにいたいの…?」
「ワシらもあの子が何をしたいのか…まるでわからんのじゃ。一応、人様に迷惑はかけとらんみたいじゃが…」
「私達にはもう…見守るしか出来なくてねぇ。あの子の家族なのに、不甲斐ないもんさね」
「じーちゃん…ばーちゃん…」
沈痛な面持ちの二人を見つめながら、私は弌菜ちゃんとの会話を思い出す。
話してしまうべきなのだろうか…彼女が抱えている思いを。
…否。確かに話してしまえばこの人達の痛みは和らぐし、亀裂を修復する糸口になるかもしれない。
けれど、それじゃ…弌菜ちゃんの気持ちはどうなる?
彼女が話すと決めたならまだしも、彼女の気持ちも待たずに私が勝手に話すのは…違う筈だ。
これは弌菜ちゃんが自分の口で伝えるべき思いで…そうじゃなきゃ、意味がない事だと思うから。
だから私は、罪悪感を飲み込みながら言葉をそっと隠す。
…ちらりとこちらを見たメイリーには見透かされている気がするけれど、何も言ってこないので黙認してもらえたと思いたい。
「まぁまぁ、すみませんねぇ。お客さんの前でこんな話…」
「いえ!そんな…」
「どうか弌菜の事は気になさらずに。ゆっくり過ごしてくださいな」
にこりと今さっきまでの気弱さを笑顔で隠し、おばあさんは空になった湯呑みを片付けに席を立った。
その後に続くように、おじいさんも部屋に戻ると言って居間を後にする。
「…二菜ちゃん、大丈夫?」
「…はい。ちょっと色々ショックではありますけど」
「まぁ妹君自身はさほどハメを外しているわけじゃ無いようだし、聞く限りだとおそらく仲間でいる方が安全だろう。ご夫婦の言う通り、見守るしか無いのではないかな」
まだ半分ほど中身の入った湯呑みを両手で包み、彼女は水面を覗き込むように俯いた。
薄桃の隙間から見えた顔には色濃い不安が滲んでいて、不安定な心を表すように瞳がゆらゆらと揺れている。
「やっぱり…二菜のせい、なんでしょうか」
「さてね。それを知るのは本人のみだろう」
突き放すような平淡さでそう言い切り、メイリーは音もなく立ち上がった。
二菜ちゃんを見下ろす瞳には呆れに近い色が浮かび、ショボくれた脳天を見つめている。
「貴女は妹君の事になると途端に弱気になるね。らしくないよ、二菜」
「うぅ…」
「貴女が恐れて逃げている限り、妹君の心内など分かりようもないとボクは思うのだがね。まぁ所詮は他人の戯れ言だけれど」
「…いえ、その通りです。その通り、なんです」
メイリーの言葉は中々に厳しいもので、けれど二菜ちゃんを傷つけたいわけじゃないのはちゃんと伝わってくる。
言葉を受け取った本人にもそれは理解出来たのか、怒るでも悲しむでもなくゆっくり言葉を飲み込むようにして小さく頷いた。
やがて顔を上げ、ぎこちない笑みを浮かべた彼女はふと、ある一点に目を向ける。
「…写真?」
「はい。ずいぶん昔の、ですけど」
視線の先にあったのは、小さな二人の女の子と老夫婦が幸せそうな笑みを浮かべて写っている家族写真だった。
たぶん、この家の前で撮ったものなのだろう。同じ玄関の門が見える。
「…離れてく弌菜が怖くて、拒絶されるのが怖くて…二菜、臆病になっちゃうんです。また怒らせたら、口をきいてもらえなくなったら、目を合わせてくれなくなったら…って。だから、踏み込めなくて」
でも、と言葉の色を無理矢理明るいものに変えた二菜ちゃんは、今までのうじうじしていた様子を吹き飛ばすような強い眼差しで写真の女の子達を見つめた。
「このままは、嫌だ」
真っ直ぐ響いた言葉に、心配が引いていく。
メイリーを見ると、彼女は茶目っ気たっぷりにウィンクをひとつ。本当に優しい狼さんだなこの人は。
「…よし!元気出てきました!えいえいおー!」
「ふふ、調子が戻ってきたみたいだね。何よりだ」
「はい!メイリーさんのがガツンと効きました!二菜、帰るまでに絶っっ対弌菜と向き合ってみせます!」
「ボクはただ思ったことを言っただけにすぎないよ。けど…貴女の笑顔を引き出す切っ掛けになれたのなら幸いだよ。やはり女性は憂い顔より笑った顔の方が可愛いからね」
満足そうに白い歯を見せるメイリーはさすがのフェミニストである。
世の女性はイチコロ…というか、この微笑みを向けられて勘違いするなという方が無理だよね。
「お姉さん!もし上手くいかなかったら…慰めてくださいね!」
「…大丈夫だよ、二菜ちゃん」
思いの外気持ちがこもってしまった声に自分でも驚いたし、二人もキョトンと目を丸くしてしまった。
やってしまったと思いつつも、私は少し考えた後に取り繕うという選択肢を捨てる。
代わりに、改めて桜餅に似た色彩を見つめ…再度思いを込めて繰り返した。
「大丈夫。絶対にね」
だって私は知っている。
弌菜ちゃんの行動が、二菜ちゃんを嫌うが故でないことを。むしろ彼女は…
とにかく、大丈夫。二人には互いの思いをぶつけ合う切っ掛けが必要なだけだから。
「きひ!"記録者"の絶対とは…またずいぶんと心強い言葉じゃないか」
「はい!二菜、俄然やる気が出ました!ありがとうございます!」
「え???あ、そ、そっか…」
確かに"記録者"は真実を語るけど、別に開示要求も何もなかったし…ただの会話の一端のつもりだったんだけどな。何故か重い価値をつけられたぞ。
まぁでも…それで二菜ちゃんを元気付けてあげられるなら、メイリーの言うように光栄なことかな。
「さて、そろそろボクは外に出るとしようかな」
「あれ?今日も仕事?」
「いや、一応私用さ。少し気になることがあって…どうにもハッキリさせないと気が済まない質なんだ。だから、すまない二菜。夕方の祭りには間に合わせるよ」
「いえ、気にしないでください!どうかお気を付けて!」
「行ってらっしゃい、メイリー」
「あぁ、いいねこういうの。行ってくるよ、レディ達」
見送る私達にとろりと嬉しそうに目を緩めながら、メイリーは見事なボウ・アンド・スクレープを披露して居間を後にした。
さすが、様になっていたな…一瞬背景が宮殿に見えたよ。
「私達も折角だから街に出よっか」
「そうですね!二菜、お姉さんに街をご案内します!!」
決まり!と顔を見合わせてはにかみ、私達もいそいそと外出の支度に取り掛かる。
窓の外は今日も気持ちよく晴れ。
少し雲が多いのが気になるけれど、お天気お姉さん曰く崩れることは無さそうだ。
昨日に引き続き照り付ける日光は厄介だけど、雲間にちらりと覗く青が岩場に隠れた宝石のように光るものだから…それだけで気分が浮き足立つ。
不意に、近くの木からバサバサバサと鳥の群れが飛び出した。
空に向かって一直線に飛ぶそれらを見送っていると、鳥の影からひぃらりと羽が落ちたのが見える。
それは不規則な軌跡を描き…ぽつんと池に浮かんだ。
広がる波紋に少しばかり心をざわつかせながら私は窓から視線を外す。
支度しなきゃ。
「あ!お姉さん!今日は40℃を越えるみたいですから、帽子とかちゃんと被らなきゃダメですよぅ」
「ふふ!分かってる。二菜ちゃんこそ、ちゃんと水分補給出来るようにね?」
「はい!スポドリで武装します!」
「「…ぷ、あははははははははは!!」」
物凄く家族じみた会話になって、私達はたまらず吹き出した。
ひょこりと顔を出したおばあさんに仲良しねぇと微笑ましく見送られながら、私達は微かな潮風の吹く外へ足を向けたのである。
「「行ってきます!」」
そんな、ありふれた…けれども尊い言葉と共に。




